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「専業主婦のお母さん」とは

正月に妻がインフルエンザで床に臥し、その数日間子ども3人抱えて炊事洗濯掃除等を一手にやった。家事自体にかかる時間に加えて家事の計画を考えるために思考時間を食われるので体感する自由時間は非常に少ない。

これがずっと続くのが専業主婦のワンオペ育児かと思うとその苦労は察するに余りある。

それでもこうしてたまにやる分には楽しく、昔専業主夫に憧れていたこともあって、食器を洗いながら「僕は『お母さん』になりたかったのかも」と思ったりもした。

それをツイートすべきかどうかを迷っていた(何か違和感があった)時に「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んで、殴られたような衝撃を受けた。

自分の浅はかさ、呑気さに気付かされたのだ。

僕も82年生まれなんだ。だから読み始めは「日本とは状況がちょっと違うな」とか思っていられた。でも就活でのセクハラとか、ニュースで見たよな、あれって同世代だよなと思ってハッとしたんだ。

ああ、「男と女で見えてる景色が違う」って、こういうことか。「キム・ジヨン」は日本中に居るんだ。高校で、大学で、職場で、ダベったり、酒を呑んだり、一緒に働いた女性たちの中に小説と同じような経験をした女性がたくさん居るんだ。それが、ありふれた日常なんだ。

女性差別の現状をずっとツイッターで見てきた、読んできたはずなのに、何も分かっちゃいなかった。

「僕は『お母さん』になりたかったのかも」ってね、呑気なもんだよ。

そんな、いくつもある選択肢の中からのほほんと希望の人生を選んだ結果が『お母さん』じゃない。

選択肢をあらかじめ狭められ、希望を邪魔され、押し込められた結果の『お母さん』がたくさん、たくさん居る。

差別は、選択肢の差として表れる。

選択肢をたくさん持ち、逃げ場がいくらでもあるマジョリティ側の空想する選択と、選択肢のほとんどない中で選ばざるを得なかった選択では、その重みも意味も異なってくる。

「専業主婦のお母さん」を、男が思うような、特にミソジニストの男が思うような気楽な選択肢と思ってはいけない。

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