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「罪を憎んで人を憎まず」を考えて


多くの人の話を聞いていると「人を憎まず」の言葉に重心を置いて考えている人が多い

恐らくそれは「罪を憎んで」の意味を想像し難いからだろう
結局その為、「その人のことを悪く思わないで、自分にもその番が回って来ることも考えて憎まないでおきましょう」という話の流れで終わってしまう場面が非常に多い。
罪を「憎んで」はどこに行ったのだろう。


罪を憎むとは何か、
「その罪を犯す事になるまでの本人を取り巻く社会状況などを憎む」
という説明はよく聞く
この場合、「こんな犯罪を生んだ社会は悪い!じゃあ同じ罪が繰り返されない様に社会を改善しなきゃね」でまた話が終わってしまう。
罪の原因になる背景は憎まれたが、犯した罪自体には何の処置もされていない。
どこかで論点がすり替わってしまっている
終わっちゃった。


このことわざでの「憎む・憎まず」というのは、憎しみが心の中の想いだけに留まっていることを言っているのだろうか、それとも憎しみを相手にぶつける「行為」までを含めて言っているのだろうか

もし「人を憎む」という言葉が、憎しみを抱いた人が相手にその憎しみをぶつける事までを範疇に入れるとすれば、
同じ様に「罪を憎む」も頭の中だけでなく行為まで含むのではないだろうか。

罪に憎しみをぶつける、その方法は刑を執行することではないだろうか。罪刑法定主義の社会的で憎しみをぶつける正当な方法は、法に則って刑罰を与えることだけである


全く素性を知らない相手が目の前で罪を犯した時
または親しい知り合いが犯罪を犯していたことを知った時
相手を人間として憎んだり軽蔑したり嫌いになったりせず一人の人間として尊重して接し、
そして罪に対しては法で裁きを受けさせる

つまり、赤の他人であっても相手に憎しみの感情は向けず警察に引き渡す。
親しい知り合いや肉親であっても、相手を嫌いになったり軽蔑したりする事なく、愛情や敬意を向けた上で粛々と警察に引き渡す。

罪だけに対して向ける憎しみ「この様な事は許せない」という純粋な想い

そこには「この悪人め!」といった相手を憎む気持ちも、
身内を庇って罪を有耶無耶にする気持ちも無い
ただ「罪を憎み、憎しみをぶつける」
それはサイコパスに近くなっていくことかもしれない
人間らしさ、というものから離れないと実現出来ないのかもしれない

(人間的?)
感情に流される ⇆ サイコパス
・人を憎む    ・尊重しながら
・情で有耶無耶  ・警察に引渡す


高次脳機能障害、ADSの障害を持つ
「クウキヨメナイ」自分から周りを見ていると、多くの人は「理」よりも「情」を重要視している、あるいは情に動かされがちな様に見える

感情と理性を分けて考えられる
ソレはソレ コレはコレ

空気読めない、じゃない。

僕の障害は
「空気に左右されない」KY だ!
     Kuki       saYu

←どこのYを取ってるんだ!
٩( 'ω' )و  ⭐︎\(๑`^´๑)

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