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鏡はなぜ左右反転した世界を映すのか【鏡映反転の謎】の書き出し文

提供:ハイッテイル株式会社

こんにちは。
哲学チャンネルです。

メインチャンネルで公開した『鏡はなぜ左右反転した世界を映すのか【鏡映反転の謎】』の書き出し文置き場です。

*動画はとっくに公開していたのですが、記事の更新を忘れていました。てへぺろです!!


動画はこちら



みなさんは「鏡」に対して疑問を持ったことはないでしょうか。

鏡に映る像は、元の像を左右反転させた形になっているように”見えます”
では、なぜ鏡に映る像は左右反転しているのでしょうか。
もっと言えば、なぜ上下反転していないのでしょうか。

実はこれ、古くはプラトンの時代から疑問に思われてきた問題なのです。
プラトンは『ティマイオス』にて、この問題について触れています *1

(彼が提示したのは、現代から考えると突拍子もない理論でしたが)

鏡の不思議は、これまで多くの科学者や哲学者を悩ませてきました。

ここでまず、前提となる「鏡の不思議」について考えてみましょう。

鏡の前に人がいて、その人が左手を挙げているとします。
このとき、鏡に映った人が挙げている手はどちらでしょうか。
普通、鏡の像は右手を挙げているように見えるはずです *2

仮にその人が左手に指輪をしていたとしたら、鏡の像は右手に指輪をしているように見えます。

もう少しわかりやすい例を考えてみましょう。

鏡に向けて「F」と書かれた紙を掲げます。
このとき鏡に映る「F」はどうなっているでしょうか。
そこには左右が反転した「」という文字が写っているはずです *3
このように、鏡は私たちの世界を左右真逆に映し出すツールのように思えます。
でも、なぜそうなるのでしょう。
左右というのは、私たちが存在する空間におけるひとつの「向き」です。
三次元空間においては、他にも「前後」や「上下」という「向き」が存在しています。
なぜ、それら「向き」の中で「左右」だけが反転するのでしょうか。

いや、この表現には少し語弊がありますね。
厳密には「前後」も反転しています。
鏡に映る自分は、自分と相対しているはずですから、
向いている方向が「逆」になっています。
これは「前後の反転」です。

でも、どう考えても「上下の反転」は起きていませんよね。

普通に考えたら、仮に「上下の反転」が起きているならば鏡に映る自分は、逆立ちした状態になっているはずです。なぜ「上下」だけが特別に反転していないのでしょうか。

この問題には、様々な回答が用意されました。

①左右は主観的だが、上下は客観的だから

右と左はその人がいる位置に依存して変化する主観的な観念です。
一方、上下はその人がいる場所に依存しない絶対的に近い概念ですね *4「右」という方角が「東」になることも「西」になることもありますが「上」という方角がコロコロ変わることはありません。なぜかというと、重力があるからです。私たちは基本的に重力によって引っ張られる方向のことを「下」と呼びます。「左右」は相対的な観念だから、それに対する人間の認識が弱い。だから、鏡を見たときに「左右」において錯覚が生まれるというわけです。

②左右は反転していない、前後が反転している

先ほども触れた通り、鏡に映る像は「前後」が反転しています。つまり、鏡に映る像は「前後」が反転しているだけであって「左右」については実は反転していない。「前後」が反転するのは比較的認識しやすい現象だからそれで説明できるでしょ、という主張です。

③厳密には前後の反転ではなく、表裏の反転である

「前後だけ」が反転していると考えると、鏡に映る像が左右反転しているように見える理由がわかりません。そこで「前後」ではなく「表裏」が反転していると考えるわけですね。鏡に映るのは、私たちの世界が裏向きになった世界である。とても哲学的な主張のように思います。

④実は上下も反転している

「前後」「左右」だけでなく、実は「上下」も反転しているという主張です。鏡は、それに写ったものを全ての方向に反転させる性質を持っていて私たちはその反転された結果を認識している。しかし「上下が反転していることには気づいていない」というのです。なんだか頭がおかしくなりそうな主張です。

以上のように「鏡映反転」には様々な説が唱えられてきました。
しかし、どの説にも何らかの反論が可能で、未だにこの問題に対する完璧な回答は現れていません。

ということで、この動画でも「これが答えです」という提示はできないのですが、ここでは現状私が最も納得している考え方について紹介します。

まずは結論から

ー鏡は垂直方向に光を跳ね返す物質であり、結果として「前後」が反転した像を映し出す。しかし、私たちはその習慣により「左右は反転していて」「上下は反転していない」という感覚を抱くようにできているー

これだけでは納得がいかないと思いますので、もう少し細かい話を聞いていってください。

まずは垂直方向の光の反転について整理しましょう。

いわゆる「光学反転」と呼ばれるものですね。
例えば右目が青、左目が赤のランプでできたロボットが鏡の前に立っているとします。このとき、鏡に映る像の右目は赤、左目は青に見えるはずです。

これを「真っ直ぐに光を返している」と捉えると、そうなるのは当たり前のように感じますよね。そして、垂直方向に光を跳ね返すということは帰ってきた像は対象と反対の方向を向いているということになります。つまり「前後の反転」です。

ここで重要なのは「鏡の世界全体で前後が反転している」ということです。
前後が反転している世界では、左と右が入れ替わっていますよね。
私たちは、鏡に映る像を見るときに、その像だけに着目しがちですが、本当は鏡に映る全体の世界にも思考を巡らせないといけません。
ですから、鏡に映ったロボットの右側にある目が青かった場合、それはロボットの左目が青いのではなく、前後が反転した世界におけるロボットの右目が青いと解釈できるのです。
この場合は「左右反転」していないと考えられそうですよね。

もう少し思考実験をしてみましょう。

鏡の横に誰かを立たせ、右手を挙げてもらい、それを斜めから見ている自分を想像してみてください。

この場合、鏡に映る像は、明らかに左手を挙げているように見えます。
しかし、よく考えてみると、これも「前後反転」が起きているだけです。
「鏡の横に立つ」ということは、体の横軸、つまり「左右とされる向き」が「前後」になる形で鏡と向き合っていることになります。
当然、鏡は前後を反転させて像を返しますから、そこにおける「前後」つまり「左右」が入れ替わっているように感じます。

このように、鏡が返す像は「前後反転」しているだけであって「左右」にも「上下」にも反転していません。

ここで問題なのが文字ですよね。
先ほども触れたとおり「F」という文字を鏡に映すと「」という未知の文字が鏡に映ります。これを見て「左右反転していない」と考える方が不自然です。

しかし、この錯覚にはトリックがあります。
「F」という文字を鏡に映すとき、私たちは「鏡に向けてFを反転させる」という操作を行いますよね。そうでないと「F」は鏡と逆側を向いていることになりますので。

つまり、鏡が光を返す前に、自分自身で反転の作業をしてしまっているのです。

試しに「F」という文字を透明なプラスチックなどに書き、それを自分に正対する形で鏡に写してみてください。このとき、鏡に映る「F」は左右反転していないはずです。

本題です。
ではなぜ、私たちは「鏡は左右を反転させる」と感じるのでしょうか。
それはおそらく、鏡に映った像の向きを検証する際に、勝手に左右を軸に鏡の中に回り込むイメージを利用しているからです。

鏡がこちらからみて右側の手を挙げている像を返しているとき私たちはその像の世界に入り込むようなイメージでその像の左右を確認しようとします。

つまり、左右どちらかからぐるっと回り込むという想像ですね。
当然、その想像においては「前後反転」は行われていません。
だから、左右から回り込んだ像は自分と同じ手を挙げているはずだという先入観のもと、像を検証することになるのです。

そうやって検証すると、左右が反転しているように見えてしまいます。

では、同じ操作を「上下」で行ったらどうなるでしょうか。
左右でそれを行った際と同じベクトルで像を回り込ませると、像の向こうの回り込んだ自分は上下逆さまになっているはずです。しかし鏡に写っている自分は逆さまになっていません。仮に鏡に自分を回り込ませて「左右が反転している」と主張するならば、同じように「上下も反転している」と考えなくてはいけないのです。

しかし、私たちは鏡を見て「上下が反転している」とは思いません。
ここまで来るとなんとなく想像できないでしょうか。

私たちは鏡の向こうの世界を想像する際に「左右から回り込む」というアイディアを行使することはあっても「上下から回り込む」とは到底考えないということなのです。

ここには、左右と上下の本質的な違いが隠されているように思います。
冒頭にも触れたとおり、左右は相対的な概念です。
その人がどの方角を向いているかによって、左右の向きは変化します。
しかし上下には左右のような相対的な性質が(ほとんど)ありません。

私たちがどこにいようとも、上下は上下です。
つまり、重力によって引っ張られる方向が下であり、その逆の方向が上なのです。
これは左右よりも絶対的な感覚ですよね。

その絶対的な感覚があるからこそ、鏡の世界を想像する際に「上下から回り込む」というアイディアを行使することがほとんどないわけです。

ですから、生まれた瞬間から無重力環境で暮らすような人間がいた場合、その人間は鏡を見て「上下が反転している!」と思う可能性がかなり高いと思われます。

鏡映反転の問題は、そのほとんどを科学で説明できます。
しかし「そう見えてしまう」原因の裏には人間の心理的な錯覚が関連しており、その部分においては非常に哲学的な議論が必要なんですね。

何が面白いって、こうやって理解しようとしたところで、どう足掻いても「鏡の世界が上下反転している」とは思えないし「鏡の世界が左右反転していない」とも思えないことです。

それだけ人間の錯覚は根強いということでもありますし、それがまた人間という存在の面白さを表している気がします。

先ほども触れたとおり、鏡映反転の問題に対する説明にはまだ決定的なものが現れていません。



□注釈と引用

*1『プラトン ティマイオス・クリティアス 岸見一郎訳 白澤社現代新書』P72 46a
ー今や、イメージが鏡の中や何かを映す滑らかな面に作り出されることについて理解することは、もはや少しも難しいことではない。この場合、内と外の火の双方が互いに交わり、さらに、一体化した火が、滑らかな面に形成され、それがさまざまな仕方で姿を変えるのだが、そのようなことから必然的に、このような種類のイメージのすべてが現れるのである。即ち、顔からの火が、滑らかな光った面で視覚からの火と結び合う場合に、そのような結果が生じるわけである。また、左側が右側に見えるのは、通常の衝突の方法に反して、視覚の反対の部分に反対の部分との接触が起こるからである。しかし、右側が右に、左側が左に見えるのは、光が、結びつく相手と結びつく過程で、位置を変える時である。そして、このように鏡の滑らかな面が右側も左側も高くなり、視覚の右の部分を左へ、左の部分を右へ押しやる場合に起こる。しかし、この同じ滑らかな面が顔に対して縦向きの方向に向きを変えられる場合には、それはあらゆるイメージを上下逆さまに見えさせる。これが視線の光の下側を上側に、上側を下側に押しやるからである。

*2 今回動画を作るにあたって参考にさせていただいた『鏡映反転――紀元前からの難問を解く|高野 陽太郎 』によると、自分が写った鏡の像が「反転している」と認識する人は、全体のおおよそ7-8割程度らしいです。2-3割の方は、鏡に映った像を見て「反転している」とは思わないということです。これもとても不思議です。

*3『鏡映反転――紀元前からの難問を解く|高野 陽太郎 』によると、文字を確認する実験ではほぼ100%の人が「像が反転している」と認識したとのこと。

*4 厳密には違います。座標的な観点で考えると、日本の上下とブラジルの上下は真逆です。ここでは話をシンプルにするために、あえてスルーします。


□参考文献

鏡映反転――紀元前からの難問を解く

ティマイオス/クリティアス


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