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中庸|アリストテレス 【君のための哲学#16】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



ニコマコス倫理学


『ニコマコス倫理学』は、西洋最大の哲学者の一人であるアリストテレス(前384年-前324年)の著作群を、息子のニコマコスらがまとめた世界最古の倫理学の書である。本書では「幸福になるための正しい生き方」が検討される。
アリストテレスはまず「個人における最高の善は幸福である」という。あらゆるモノは他のモノを得るための手段として使われるが、幸福だけは手段として使われない。つまり最終的な目的だと考えたのだ。
彼は幸福であるためには「卓越性」を発揮すべきだと言う。卓越性とは、それのために生まれたその物が持つ先天的な個性のことである。ハサミは紙を切るために生まれたのだから「紙を切る」ことがハサミのハサミ的卓越性である。笛吹きにとって「うまく笛を吹くこと」は笛吹的卓越性である。
人間そのものにも人間的卓越性があるとアリストテレスは考える。彼は人間的卓越性と「徳」は同一なものだと考えるのだが、果たしてこの人間的卓越性とはなんであろうか。彼はそれを大きく二つに分けて説明する。

倫理的卓越性→人柄の徳、(人間的機能として)道徳的に優れている
知性的卓越性→知的な徳、(人間的機能として)頭の良さ的に優れている

倫理的卓越性はその人の行為、または習慣から生まれる。善い行動をしているからその人は善き人になる。至極当たり前の主張である。
では、その善い行動とはどういうものだろう。
ここで現れるのが「中庸」という概念である。


君のための「中庸」


例えば運動を考えてみてほしい。運動は一般的に善い行動だとされている。運動をすることで健康になるし体力も向上する。しかし、運動のしすぎには怪我や健康を害する結果につながる危険性がある。一般的に「善い」とされている運動だが、やりすぎれば「悪い」行動になってしまうのだ。
これと同じことが「勇気」や「節制」にも言える。
勇気がなければ臆病になるし、ありすぎれば蛮勇(むこうみず)である。
節制がなければ放蕩になるし、ありすぎればケチである。
つまり、ある行為や性質があるとき、その最大値が最善になることは稀であり、多くの場合はその中間地点が最善となるのである。アリストテレスはこれを「徳の中間性」「中庸」と表現する。
人間の色々な働きには全てにおいて「ちょうど良い」ポイントがあって、そのバランスを正しく調整することによって善い人間になることができ、それが人間的卓越性の発揮であり、幸福である。
とはいえ、そのちょうど良いポイントをどうやって知れば良いのだろうか。ここで現れるのが知性的卓越性だ。
正しい行為をするためには、正しい行為がなんたるかを知らないといけない。それを判断できるのが知性的卓越性である。彼は知性的卓越性を大きく5つに分類する。

技術(テクネー)
→ある存在のはじまりが製作者に関連した物事について
ある存在をどのように生み出すのかを論理的に思案すること

知性(ヌース)
→知識の基本となる原理や定理のこと

学問的知識(エピステーメー)
→知性に対応した原理から、演繹的に導出された結論のこと

智慧(ソフィア)
→さまざまな学問的知識のなかでも、達人の域に達したもののこと

思慮深さ(フロネーシス)
→実践を伴う判断に関係する卓越性

アリストテレスは5つの知性的卓越性の中でも、とくに「思慮深さ」を重視した。他の知性的卓越性が判断するのは「正誤」であるが、思慮深さが判断するのは「善悪」である。
(実践を伴う)思慮深さによって物事の善悪(翻って中庸)を知り、その判断に従って行為する。その行為は必然的に善いものであり、善い行為をしている人間は善い。それは人間的卓越性を発揮していることと同義であり、徳を達成した主体は幸福になることができる。
これがアリストテレスの幸福論である。
少し綺麗事のように聞こえなくもないが、彼が提示する中庸の概念は、間違いなく私たちの生活にヒントを与えてくれる。重要なのは、中庸を知るために実践という探究が必要なことである。両極ではない中間地点には明確な答えがない。それは人それぞれが自身の判断で見つけていかなければならない課題である。誰かに教わるものでは決してないのだ。
そういう意味で、人生とは「ちょうど良いを見つける旅」なのかもしれない。


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