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データがなければ発言できないのならば、私はもう何も発言することができない。


こんにちは。哲学チャンネルです。

ネット界隈で有名な動画に「ひろゆきさんと堀江さんが、根拠なくネット文化を中傷する意見を完全論破する」ものがあるじゃないですか。

今日はそれについて少し意見を述べたいと思います。

出典元が『TVタックル』なので、元動画をご紹介することができません。
以下、お互いの議論の主な内容を記載しますので、まずはご覧ください。

登場人物(説明はリンク先のWikipediaにて)

堀江貴文さん

西村博之さん

古谷経衡さん

紀藤正樹さん

松本文明さん


議題:ネット利用に実名性などの制限は必要か?


(以下敬称を省かせていただきます)
(変な切り抜きや余計な文言の追加はしないようにしますが、見やすさを優先するために多少表現を修正する部分がございます。それが何かしら議論の肩入れなどになってしまっていたら修正しますので、ご意見ください。)

紀藤「実名制は有効だ。実名制にすれば(ネットが原因の)犯罪の数は圧倒的に減ると思う。ネットに無責任な発言が多いのは、それが匿名だからである。」

ひろゆき「(実名制は)無理だと思うし、あと韓国では登録制でネット利用がなされているが、別に犯罪が減っている様子はない。だから実名制は結局意味がないのでは?」

堀江「馬鹿なやつは、何を制限しても馬鹿なことをする。だっておでんツンツンとかなんのリターンを期待してやっているのかわからない。彼らは悪いと思ってやっていない可能性もあるし、そもそもそのような行為をする人間はネットが現れる前もいたわけで。」

ひろゆき「友達の家でしていた悪戯を、ネットに投稿するようになったってだけの話。」

堀江「実名制を採用したところで、いたずらするやつはするんだから、それは有効な対策にはなり得ない。」

古谷「僕は『昔から馬鹿な奴がいてそれがネットによって可視化されただけだ』という意見は間違いだと思う。インターネットの動画や生放送にはユーザーを巻き込む力がある。配信者はそれに快感を覚え、今までよりもおかしな行為をする人間が増えているのだと思う。」

ひろゆき「それってあなたの感想ですよね?

古谷「もちろんそう(感想)ですけど、実際にそういう実例はありますよね。」

司会者「実際に実名化は可能なのか」

紀藤「サービスの種類によっては可能だ。ネットオークションなどは事実上そうなっている。誰が出品したのか、誰が投稿したのかなどの情報をネット上で特定することが可能かどうかという話で言えば、可能だとしか言いようがない。」

ひろゆき「僕は技術的に不可能だと思います。海外のサーバーなどを経由されたらどうやって追跡するのですか?」

紀藤「規制は日本国内の話だから可能じゃないですか。」

ひろゆき「いや、例えばGoogleは海外の会社ですけど、彼らが『日本の法律なんて知らねぇよ』と言えば、彼らを取り締まることはできない。(そして日本のサービスが規制されればユーザーは海外のサービスを使うだけである。)」

紀藤「ヨーロッパなどではGoogleなどの企業が規制に従わないことが問題になっている。ネットサービスを実名制にするか否かは世界的に議論されていることだ。サービス提供側からすれば匿名性の方が楽に発展させることができるが、本当にそれで良いのか、もしくは規制の中で発展させていくべきなのかということについて、今まさに議論がなされている。」

松本「インターネットが犯罪の温床になっていることは間違いない。脱法ハーブのデパートみたいなことまでやっちゃっている。みんなで女の子を強姦するために集まれみたいなこともあるし、大変に多くの犯罪の温床になっている。それをどう防ぐか。効果があると思われることであれば、とりあえずでもやってみるべきである。お二方(堀江・ひろゆき)には、ネットを犯罪の温床にしないためにどうしたら良いかということをもっと積極的に発言してほしい。」

ひろゆき「例えば、日本の犯罪者の99%は携帯電話を使っていると思うんですね。じゃあ携帯電話を禁止にしたら犯罪が全部なくなると言っているのと同じ話をしているんだと思うんですよ。」

松本「いや全部禁止にしろって話をしているのではない。」

堀江「それと同じようなことを言っているよという指摘なんですよ。」

紀藤「いや、犯罪をなくすという議論と犯罪を減らすという議論は違う。」

ひろゆき「犯罪を減らすために携帯電話をなくせという意見だったらまだ理解できますけどね。」

古谷「携帯電話を契約する際に実名制にしろという議論では?」

堀江「いやだから実名制にしても韓国では犯罪減ってませんよって彼(ひろゆき)は言っているじゃないですか。」

紀藤「ここで問題になっているのは、今の匿名文化では人を虐めたりプライバシーを侵害したりするような書き込みをすることがあまりにも容易なので、一定程度社会的にハードルを上げると(それによって一定量の犯罪は減る)それでも脱法するような人たちに関してはまた別の問題なんですよ。」

(中略)

松本「高校生だとか中学生が誹謗中傷を受け、心を病み、自殺をしたというような事件も出ているわけですよ。」

堀江「いやそれはネット以前からもある話じゃないですか。」

司会者「自分の学校内での同じケースならあったのかもしれないが、今は世界中の人から嫌われたりすることがあるではないか。」

ひろゆき「世界中の人から嫌われる中学生なんていないですよ。」

堀江「LINEいじめとかが何が問題になっているかというと、クラスで作ったLINEグループが、その人が不登校になって学校に行かなくなっても動き続けているため、家にいてもグループでいじめられるとか(いじめの時間的延長)結局そういう話なんですよ。だからそれの解決策って全く別のところにあると思っていて、ネットをなくすとかではなく今の義務教育のあり方をなおすとか、そう言った方向に言った方が良いのでは。」

古谷「いや、今松本議員がおっしゃったように、実際未成年者ではない成人も誹謗中傷にあっていて、それに対する救済の方法がないですよ。」

ひろゆき「そもそも救済の方法がないという前提が僕わからないんですけど。」

堀江「今は警察が捜査して・・・」

ひろゆき「犯罪予告して捕まった人がいっぱいいるじゃないですか。」

古谷「いやいや100%ではないですよ。」

紀藤「ちょっと整理したいんだけど、0or100の問題ではなくてネットいじめの被害には色々な程度がある。これをなくすと言っているわけではなく、減らすことが重要だと言っている。そのためには書き込む人の労力が軽すぎるという問題を解決するために(実名制などの制限を設けることが効果的なのでは)」

ひろゆき「そもそも犯罪の数を減らすという議論をするのであれば、インターネット以前と以後において、いじめの件数がどうなったかという数字がないと意味がないと思うんですよね。だって元々いじめで死ぬ人はいっぱいいたわけで。で、インターネットができたからいじめが増えたという話ならわかるんですけど、なんかそういうデータあるんすか?

松本「そんなこと、亡くなった親御さんの前で言えますか。」

堀江「だからそういう感情論はやめてくれ。」

松本「感情論じゃなくて」

堀江「それは感情論だ。それをやると必ず厳罰化になるんだ。あなたたち議員はそうやってそういう人たちだけの声を聞いてどんどん世の中を息苦しくしているんだ。それは責任を感じなきゃいけないですよ。」

松本「それは違います。」

堀江「全体的に規制強化ってのはそういう方向に進むんです。だから規制強化ってのをただただ被害者感情・・・もちろん被害者はかわいそうですよ。もちろんかわいそうなんだけど、それはそれで別の議論で考えなければいけないわけですよ。」

古谷「それはインターネット黎明期に活躍されていたお二人が、質の低いユーザーを放置していたからではないんですか?」

堀江「あのさぁ。俺たちのせいにしないでくれる?意味わかんないよ。俺たち個人よ?なんで俺たちの責任にされなきゃいけないわけ?」

ひろゆき「まぁそれはそういうふうにしか理解できない知能の問題だと思いますけど。」

堀江「まぁそうだよね。」

ひろゆき「日本には元々犯罪者がいたわけで、そこにネットが現れたら当然ネットを使う犯罪者は現れますよね。至極当たり前の話なんですよ。」

紀藤「そう言ってみたところで、具体的な事件や被害をどう救済するかという話につながらないじゃない。」

ひろゆき「救済はできていると思うんですけど。」

紀藤「できてないよ。」

堀江「それを言うんだったら、警察の捜査能力を上げろとか、そう言う話になりませんか。」 

ーTo Be Continued



さて。この議論を見て目眩がするのは私だけでしょうか。
以上の議論は少なくとも二つの誤りによって、議論の形をなしていません。

①両陣営において議論の目的が共有できていない。
→この議論は「ネット利用に実名性などの制限は必要か?」という議題を扱うものだったはずです。しかし必要・不必要の対立軸が明確に現れたのは最初の一瞬だけで、その後は「ネット犯罪を取り締まれるか否か」「ネットが如何に害悪なものか」「感情論はダメなのか」「堀江・ひろゆき両名が如何に悪者か」というような議論(意見)に話が分散され、紀藤弁護士が必死にそれを軌道修正しようとするものの、最後までお互いの意見が建設的に発展することはないまま終わってしまっています。司会者が軌道修正をしようとしていないこと(まぁテレビ的にはこれで正解のような気がしますが)、討論の輪の中に議論を前に進めようとする意識を持った人が少ないことなどが、こうなってしまう原因だと思われます。

②事実の話をしているのか、可能性の話をしているのかがはっきりしていない。
→まずそもそも、この議論においてはひとつたりともデータが明示されていません。にも関わらず、話はどこか事実ベースで進んでいるところがあり、確かにこの内容だとひろゆき氏が「なんかそういうデータあるんすか?」と言いたくなる気持ちもわかります。通常、議論は「これからする議論は事実ベースかそうじゃないか」を前提に行われるべきです。そうでないと、常に事実ベースを用いた反対意見が通常以上に効力を発揮してしまうからです。そしておそらく本議題に関しては「可能性の話」として抽象的な議論をすべきだったと考えます。なぜなら、この件については正しいデータを用いることが非常に困難だと思われるからです。


本記事では、上記議論をdisりたいわけではありません。
上記議論には非常に重要な示唆が含まれていると考えます。

ひろゆき氏はインターネットができたことによって実際に犯罪が増えたことを示すデータを求めました。そしておそらく番組内ではそのデータが用意されていなかった。議論に「これは可能性の話をしている」という前提がない場合、ひろゆき氏のこの発言で、規制側のほとんどの主張が封殺されてしまいます。だって、データがないんだから。

では「データがない=ひろゆき氏の主張が正しい」となり得るでしょうか。ならないですよね。なぜならばおそらく、インターネットができたことによって犯罪が増えていないことを示すデータもないからです。もちろん、ここ数十年の犯罪件数を示すデータはあります。試しにひとつ挙げてみましょうか。

刑法犯 認知件数・検挙人員・検挙率の推移|法務省発表の警察庁の統計


Windows95が1995年(平成7年)に発売され、iPhoneが2004年(平成16年)に発売されたことを考えると、iPhoneの普及=SNSの台頭が犯罪件数と相関しているかもしれないと言えるかもしれないし、一方でネット自体は犯罪件数と関係ないと言えるかもしれません。ただ、これは相関関係の話であって、因果関係の話ではありません。仮にSNSが現れてから犯罪件数が徐々に減っているというデータが示されたとしても、それがそのまま「SNSによって犯罪が増えたとは言えない」とは言えませんよね。なぜならば、犯罪件数にはその他膨大な変数が影響しているからです。もしかしたら「SNSによって犯罪件数は増える傾向にあるけれども、学校教育の向上によって犯罪件数が大きく下がる傾向があり、それらが打ち消しあって犯罪件数が減っている」かもしれないのです。(また、なんらかの方法で確実に影響はないと判断できたとしても、それは今までの話に限定されます。その影響が未来に現れるかどうかという領域まで議論が及ぶと、もはやデータを示すことが不可能です。)

ですから、インターネットができたことによって犯罪が増えていないことを示すデータを提示することは意外に難しい。もちろん、インターネットができたことによって犯罪が増えていることを示すデータを提示することも難しいのです。

ただ、難しいながらにデータと睨めっこをして、何かしらの事実を見つけ、そこで仮説を立てていく議論も確かに存在します。そして、専門的な研究に携わる方は、日々そのような格闘をしているわけです。いつもお疲れ様です。

とはいえ、今回取り上げた議論はそのような類のものではないわけです。だから意見交換するべきだった内容とは

・仮にインターネットの登場によって犯罪件数が増えるベクトルがあるとするならば、そこにはどんな対策が考えられるか。
・仮にインターネットの登場によって犯罪件数が増えていないとして、かと言って今のままの制度を維持して良いものなのだろうか。
・インターネットと犯罪件数の因果は置いておいて、今以上に被害者を減らすためにはどんな方法があるか。

というようなものだったと思うのです。

しかし、お互いの陣営がこの「仮に」に対する前提意識を欠いていたために、事実と可能性が混じり合う不毛な議論が出来上がってしまった。私はそのように感じます。


さて。ここからが本題です。(今まで本題じゃなかったんかい)

ここまで見てきたとおり、実は「正しいデータ」を提示するのってすごく難しいことなんです。相関関係を提示するのは簡単ですが、因果関係まで正しく提示するのはとても困難。もちろん、それでも因果関係を追求することは重要ですよ。でも、それは素人が簡単にできるものではない。

しかし、今の世の中の議論を見ていると、その前提には「なんかそういうデータあるんすか?」が根ざしていると思いませんか。この風潮に私は一抹の不満を持っています。

語弊がないように補足をしておくと、前述のとおり、事実ベースの話をするのであればそこにデータは必要です。データがなければ主観・独断の話を押し付けることになってしまいますので。でも、普段私たちがするような議論って果たして本当に事実ベースの議論でしょうか?それはもしかしたら可能性ベースの議論じゃないですか?

仮にそれが可能性ベースの議論なのだとしたら、そこで「なんかそういうデータあるんすか?」はご法度です。裏技です。ハメ技です。

その辺りの前提条件が無視されたまま、論破至高主義みたいなものが流行っているため、そこでハメ技にボコボコにされた被害者(と、ハメ技でボコボコにした勝者)という特に意味のない格差が生まれてしまうのです。

この流れが加速すると「データがないなら発言権がない」みたいな風潮が生まれることでしょう。(現に生まれつつある)でも、そんなことを言い出したら私はもう何も発言することができなくなってしまいます。それこそ感情論しか発声できなくなる。

そうじゃなくて、事実ベースとはレイヤーが異なる可能性ベースの議論が、それが可能性ベースの議論として前提された上で積極的に行われても良いのではないか。私はそのように思います。

まぁ端的に「議論のリテラシーをもっと向上させるべきである」と言いたいわけです。議論は論破のためにあるのではなく、自分の想像もしえなかった止揚のためにあるわけで(ちなみに私は議論をすることそのものに価値を感じます)多くの人がその認識を共有して、建設的な議論ができるような世の中になることを心から願っています。


*本記事は上記議論において特定の誰かを中傷する目的で書かれたものではありません。というか私は今回の登場人物(司会者の阿川佐和子さん含めて)がみんな好きです。


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