ミル『自由論』の非常に雑なまとめ(本当に雑)

◻︎提供スポンサー

ハイッテイル株式会社
Mofuwa


メインチャンネルでまとめる予定の『自由論』のまとめです。まとめと言っても、動画作成用に本書を読みながら重要部分をスプレッドシートにまとめただけのものですので、かなり雑です。
(多分そういないと思うけど)もしかしたらこんなまとめでも必要な人がいるかなぁと思い、アップします。



本書のテーマ
"意志の自由ではなく、市民的な自由・社会的な自由について
個人に対して社会が正当に行使できる権力の性質、およびその限界について"

"古代における対立は「支配される側」と「政府」の間の対立であった(必ず敵対する)
そのときの自由は、政治的支配者の専制から身を守ることを意味した
支配者の権力は絶対に必要なものと認識されたが、同時に恐怖の対象でもあった"

"①いくつかの負担の免除を認めさせ、それを自分たちの政治的な自由とか権利と称した(これが守られない場合、それに対する反乱は正当化される)
②(①よりも後の時代)憲法に基づくチェック
支配権力は社会の同意がないと重要な行為ができない
①は多くの専制国家が受け入れたが、②はすぐに受け入れられなかった。
ある時期(ヨーロッパの)自由を愛する人々は、②の実現を目標にしていた。"

"民主主義の台頭。為政者は国民の代表が務めることに。
権力に対する価値観の変遷。権力を制限するのは、支配側と被支配側の利害が対立するからである。
民主主義においては(普通)その対立は存在しない。それは国民自身の権力と言えるから、権力をことさらに制限する必要は(昔ほど)ない"

"アメリカを見ると、どうも権力を行使する人民は権力を行使される人民と同一ではない。
自治とは、自分が自分を統治することではなく、自分が自分以外の全体によって統治されることなのだ"

多数派はそれ以外の意見を封殺したいと思う「かもしれない」ので、それに対する警戒が必要である

個人に対する政府の権力を制限することは、その重要性を少しも失わない
「多数派の専制」は警戒すべき害悪の一つである。

"多数派の専制は何も役人による活動や、法律による制限だけに留まらない。
むしろ、多数派によって作られた社会の抑圧の方が問題である。
この抑圧に対する防御が非常に重要なのだ。"

これまでの主張に対しては、誰も反論しないだろうが、それに対する具体的な方法論は何も議論されていない。

"誰しもが自分の生活を快適にしたいと考える。するとそれは他者の行動をあれこれ制約することになる。
そのバランスを取るために、まずは法律があり、法で処理するのに適しない事柄に関しては、世論によって抑圧される。"

この規則をどう作れば良いのか

"規則は究極「好き嫌い」で作られる。ひとびとが意見を決めるさいの指針は、誰にも自分や自分の仲間が好ましく思うような行動を求めたがる感情である。
(道理に基づかない判断は、好き嫌いに他ならない)
古代の専制政治における規則も、支配者の好き嫌いで作られた。
また、その専制が失敗した後の国では、支配者に対する憎悪が東独的な感情となった
またこれは個人の好き嫌いではなく、神や支配者がそれを好むか否かという判断も含んでいる→魔女狩り"

"これらの低級な因子と並んで道徳感情の方向を定めているのが社会全体の利害である。
とはいえ、それは社会全体の利害を理性的に考えた結果ではなく、社会全体の利害から出てきた好き嫌いの感情にほかならない"

"社会全体、あるいはその有力な部分に拡がった好き嫌いの感情こそ、社会が全体として守るべき規則、
そして守らねば法律や世論によって罰せられるという規則を定めた事実上の主役なのである"

"思想家や哲学者はこれまで、自分が少数派の立場にある特定の問題について、ひとびとの感情を一変させるために努力するのは好むが、
さまざまの少数派と連帯して、自由の擁護という共通の大義を掲げることはしなかった"

一方で宗教的な問題は、より高い立場で共通の原理が探求された。それと同時に教訓的だ。

まじめ一徹の狂信者がいだく神学的な憎悪は、道徳感情のもっともきわだったケースのひとつだ

"まさしく宗教の戦場において、また、ほとんどそこにおいてのみ、社会にたいする個人の権利が基本的な原理の問題として主張された
プロテスタントはカトリックの束縛を破ったが、両者の戦いに決着はつかなかった。
そこでプロテスタントが行ったことは、少数派の意見を認めさせることである。"

しかし、実際に信教の自由が達成されている国はまだない
イギリスは、政治の歴史が特殊であるため、たぶん、ほかのヨーロッパ諸国とくらべて世論による束縛は強いが、法による束縛は弱い
政府は民衆と利害が対立するという習慣が根付いているから
法律による管理は、普通、人々には感情的に嫌われるが、その判断が健全かどうかはわからない

原理や原則がないままに選択されたものは、どちらの側であれ同じようにしばしば間違いを犯す
つまり原理原則がないことが根本の原因なのだ。

本書の目的は、それに対する極めてシンプルな原則を提示すること。(法律であれ社会的抑圧であれ)

"その原理とは、人間が個人としてであれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、
自衛のためである場合に限られるということである。文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、
ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる。"

「相手にとって良いことだから」は干渉を正当化する理由にはならない

"相手のためになるからとか、相手をもっと幸せにするからとか、ほかの人の意見では賢明な、あるいは正しいやり方だからという理由で、
相手にものごとを強制したり、我慢させたりするのはけっして正当なものではない"

これらの理由は、人に何かを強制したり、逆らえば何かの罰を加えたりする理由にならない

このような干渉を正当化するためには、相手の行為を辞めさせなければ、他の人に危害が及ぶとの予測が必要である

個人の行為において、他の人にかかわる部分についてだけは社会に従わなければならない

本人のみにかかわる部分については、当然、本人の自主性が絶対的である
自分自身にたいして、すなわち自分の身体と自分の精神にたいしては、個人が最高の主権者なのである

この原則は成熟した大人のみに適応される

子供や法的に未成年の若者は対象にならない。これらには本人自身の行動に対しても保護が必要である。

同様の理由により、民族そのものが未成熟な場合もこれに当てはまる。専制政治の肯定。

自由という原則は、ひとびとが何の制約も受けずに対等に議論して、それによって社会の改善をおこなうことができる段階に達して、ようやく適用される

"確信や説得によって社会を改善に導く能力がひとびとに備われば(本書の主題にかかわる国々はいずこもすでに、ずっと以前からこの段階に達しているが)、
強制というのは、人にたいする直接的なものであれ、不服従者に苦痛や刑罰を与える形のものであれ、もはや相手を幸福にするための手段としては認められなくなる"

"効用こそがあらゆる倫理的な問題の最終的な基準なのである。
ただし、それは成長し続ける存在である人間の恒久の利益にもとづいた、もっとも広い意味での効用でなければならない"

"恒久の利益という視点にたてば、個人の自発性を外部から統制することも正当される。
個人の行動が他の人の利害に関係するとき、そのときだけは、外部からの統制に従わなければならない。"

他者を害する行為は法で罰せられる。罰せられない場合は、世間が許さないという形で罰せられる。

"他者を役する行為にも、それを強制しても正当とされる行為がある
裁判所で証言することとか、自分を保護してくれている社会のために必要な防衛その他の共同作業にきちんと参加して応分の責任をはたすこと、
そしてまた、人命の救助や虐待されている弱者を保護するための干渉など、個人でできる善行をはたすことがそれである"

"これらを行わなかった場合、社会に対する責任を問われるのは当然ではある。
しかし、「行動したことによる害」と「行動しなかったことによる害」は別物として考えるべきだ
後者に関しての強制的な責任には慎重でいるべきだ。"

"責任を問わないでおくのが適切である場合もある。しかしその場合は、その方が社会にとって都合が良いという理由が必要だ
こうした理由で責任が問われなくなった場合、行為者は自身の行為に対する裁判官である必要がある。

そして、その裁定は、人に裁かれるときよりも厳しいものであるべきだ"
社会が個人にたいして、せいぜいのところ間接的にしか関与できない活動の領域がある

個人の私生活と私的な部分である

それは自分にしか影響を与えない。または他者に影響を与える場合は、相手の同意が得られているものである
(「自分にしか影響を与えない=初めに自分に影響がある」なので、その影響は巡って他者に影響を与える可能性があるが、この議論は後で)
したがって、自分にしか影響を与えない部分こそが、人間の自由の固有の領域なのである

"①意識という内面の領域
ものを考える自由、感じる自由、科学や道徳や宗教の実践的もしくは思弁的なあらゆる問題について意見と感想の絶対的な自由が要求される
言論と出版の自由は、それと異なるように感じるが、本質的には同一である
②好き嫌いの自由・目的追求の自由
自分の性格に合った人生を設計する自由
③個人同士の団結の自由
他に迷惑をかけない限り、団結の自由は保証されるべき(ただし、成員は成人であること、教養がないこと、騙していないこと)"

このような自由が保証されない社会は、決して自由な社会ではない。

こうした自由が絶対的に無条件で存在する社会が、完全に自由な社会である
自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害したりしないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由である

人が良いと思う生き方をほかの人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認めあうほうが、人類にとって、はるかに有益なのである
以上の原理は自明であり、目新しく内容に見えるだろう。

しかし、この主張は、現在の世論や慣行の一般的傾向に真っ向から対立する
社会は人々が優れた社会性と人間性を身につけるよう、強制する努力をしてきた。これが国家にとって重要な政略だった。

現代は特に政治と宗教が分離したことで、人々の私生活にまで政治が関与することが難しくなった

しかし同時に、社会的な抑圧は、一層厳しく個人の精神を締め付けるようになった

今世界では、個人に対する社会の支配力を(法律と抑圧を用いて)拡大しようという流れが広まっている
それはこれからますます恐ろしいものに成長するだろう

"支配者もそうでない者も、自分の意見や好みを行動のルールとして他者に押し付けたがるものだ。
この性向は、人間の本性に付随する感情の最良の部分と最悪の部分によって、極めて強く支えられている。"

それを抑制するためには権力を弱めないといけないが、今権力はどんどん強くなっている。

本題に入るが、まずは思想の自由(出版の自由・言論の自由)について検討する

これらの自由は、その国の政治道徳のほとんど本体をなす
しかしこの自由の支えとなる理論的な根拠や現実的な根拠はほとんど知られていない
この根拠を知ることがまずは重要である。

出版の自由を主張するような時代はすでに終わった
これについての主張は、過去にさまざまな論者が語っているので、ことさら付け加えるつもりはない。
政府が国民と完全に一体であるとしても、民衆自身が言論を統制する権利を持っているとは絶対に思わない
そのような権力が、世論に逆らって行使されることは最悪だが、世論に合致して行使されるときはもっと最悪である。
一人の人間を除いて全人類が同じ意見で、一人だけ意見がみんなと異なるとき、その一人を黙らせることは、一人の権力者が力尽くで全体を騙されるのと同じぐらい不当である

"その意見が間違っていた場合、その意見を封殺するのは人類にとって損害である。なぜなら、間違った意見は正しい意見をよりクリアにするからだ
その意見があっていた場合、その意見を封殺するのは人類にとって損害である。なぜなら、人類は間違いを改めるチャンスを失うからだ"

その意見が正しくないと確信し、意見の公表を禁ずるのは、自分たちにとっての確実なことが、絶対に確実なことである(自分たちは絶対に間違わない)というのに等しい。

人類は間違いを犯すという当たり前の論理は、一般の場では軽視される。

"専制君主や支配者は自分の考えが完全に正しいと思いやすい。そういう意味では民衆の方が恵まれている。
彼らは、普段から反駁され、訂正されることに慣れているから「間違い」を身近に感じることができる。"

それでも民衆うは、周囲の人々と自分が同じ意見のとき、尊敬する人々と同じ意見だったとき、その意見を絶対に正しいと思ってしまう。
自分の判断に自信がない分「世間一般」を絶対的に信頼してしまう
しかし、個々の人々にとって世間とは「集合の全体」ではなく、その人が接触する一部分である。
そういった(一部分の)世間を信奉すると、他の会派・宗派・国・階級・党派の意見を真っ向から見なくなる
自分がどの世間を信じるかは、偶然決まったものに過ぎないのに。
"政府の判断には「絶対に間違っていないという確信」が絶対に必要なわけではない。
完全に正しいことしか行わないという姿勢は、結局何も行わないということではないか。"

完全に正しくはなくとも、政府はそのとき最善と思われる行為を(それが言論統制でも)しなくてはならないのでは?

"ある意見が、如何なる反論によっても論破されなかったが故に正しいとされる場合と
そもそも論破を許さないためにあらかじめ正しいと想定されている場合との間には、極めて大きな隔たりがある。"

"自分の意見に反駁・反証する自由を完全に認めてあげることこそ、自分の意見が、自分の行動の指針として正しいといえるための絶対的な条件なのである。
全知全能ではない人間は、これ以外のことからは、自分が正しいといえる合理的な保証を得ることができない。"

世論の営みと人間の営みが、大きく道を逸れたりしないのは何故なのだろうか

なぜ合理的な意見と合理的な行為が全体として、人類の間で優勢なのか。
人間は自分の過ちを自分で訂正することができる(精神の特性の一つ)
それには経験と議論が必要だ。どちらかだけではダメ

人が判断力を備えていることの真価は、判断を間違えた時に改めることができるという一点にある

判断が信頼できるのは、間違いを改めるという手段を常に自ら保持している場合である

そのためには「意見を聞く」「疑う」「他の人にも説明する」「批判を受け入れる」などが必要

これ以外の方法で人間は賢くなれない
これらの習慣こそが意見の正当性を保証する

大衆は少数の賢い人間と多数の愚かな人間の混成体である。

言論の自由には賛同するが、極端な言論の自由には賛同できないと言う人がいるが、それはおかしい
極端な場合にも当てはまる理屈でなければ、どんな場合にも当てはまらないからだ。
その主張は「絶対に疑えないものがある」という立場に依拠するからおかしい

現代は人々が「信仰は持たぬが、懐疑論には怯える」時代
自分の意見の正しさに確信が持てないが、意見を持たなければ何をすべきかわからなくなってしまうと確信している
こうした恐怖が前述の極端な言論の自由に対する批判を生んでいる?
ソクラテスの裁判やキリストの裁判
その時の「正しさ」で裁かれた。裁いた人らは極端に悪い人間ではない
マルクスアウレリウスはその正義とキリスト教的思想を持っていたのに、君主の立場に影響されてキリスト教を迫害した
彼ですら間違えるのだから、彼以上の人間でなければ少なくとも正しさを完璧に主張できない
真理は迫害に打ち勝つ?それが真理の性質?否。
真理の性質は、それが反対意見によって埋もれても、またいつか他の人がそれを発見することである。そして、いずれは大きな勢力になる

今の時代、反対意見を持つものを迫害すると言うところまでは言っていないというが、迫害までいかなくても法律で制限するケースがある以上、これはいつでも後戻りする

本当に効力があるのは、刑罰ではなく汚名である
だから、正しさに対する世論の空気自体が重要?

"思想の自由は、ただ単に、あるいは主として、偉大な思想家を生み出すために必要なだけではない。
普通の人間を可能なかぎり精神的に成長させる、そのためにも必要である。いや、むしろ、そのためにこそ必要なのである。"

権威の重圧が弱かった時代①宗教改革②18世紀後半の思想運動③ドイツのゲーテやフィヒテの時代 これらの影響を受けてヨーロッパの精神は成長した


世間一般の意見の方が正しい場合

どんなに正しい意見でも、それが議論の場にさらされることがなくなれば、人はそれを生きた真理としてではなく、死んだドグマ(教条)として抱いているに過ぎない
正しさの根拠がわからなくても、とにかく多数が意見に賛成してくれればそれで良し、という正しさは単なる迷信である。
それでは知性が育たない
知性を育てるには(あるいは真理を追求するには)議論が必要→知性を育てるには議論の技術が必要
キケロは自分の意見よりも、反対意見を熱心に研究した(そして議論が強かった)
自分が言いたいことしか知らない人は、ほとんど無知に等しい
反対意見は、それを本当に信じている人に聞かなければならない。先生に教えてもらうものではない。
人の意見は、もっとも納得できる形で、もっとも説得力のある形で受け止めなければならない。

各人がそんな知的判断をする必要はないのでは?頭の良い人が代わりにやってくれれば良さそう。
↑それは言論の自由の大切さを毀損する要素ではない
反対論が発表されなければ、それを論破することすらできない
まぁカトリック教会はそのシステムを採用しているけどね。
→自分で確信した上で教義を受け入れることが許される者と、教会を信じて教義を受け入れなければならないものを区別する
→聖職者は反対論者の主張を知ることができ(論破するため)一般の信徒は特別の許可がない限り反対論を知ることすら許されない
→自由を伴わない教養は決して度量の大きいリベラルな人間を育てないが、巡回裁判所で見かける小賢しい弁護士タイプの人間は育てられる

プロテスタントではそれは認められない。
全ての人間が反対論に触れるべき
もちろん、今の世の中ではそんなことできやしない

反対意見を封殺したとして、今の意見が正しければ(知的教育には問題があるとしても)道徳的には問題ないのでは?
反対意見がないと、元々の意見そのものから意味がなくなってしまう。形骸化する。
これは過去に道徳的な教義や宗教的な教義が経験した流れを見れば明らかだ。
教義は、教祖やその弟子には深い意味があるものである。その後も、他の派と議論を戦わせているうちは、教義に深い意味がある。
しかし、教義が十分に世の広まって一般の意見と化すか、議論がなくなって進歩を停止すると、教義の「意味」は薄れていってしまう。
信仰はいつしか先祖伝来の信仰と化す
最終的に信仰は、決まり文句を2、3覚えるだけで良いもの、あるいは、ただ頭を下げていれば良いものになる。

ことわざだって同じ。苦悩に出会ってことわざの意味を知ることはあるが、その意味を最初から知っていたら、苦悩に出会わなかったもしれない。

世の中は今意見の多様性を失いながら進んでいる。これは不可避だし、ある種(進歩という意味で)不可欠な要素だ
しかし、そうなった場合には「あえて反対意見を(それが誤りだと認識しながら)提示する必要性」があるかもしれない。

特に教師などはそれが必要かも

ソクラテスの弁証法は、まさにそういった機能を内包していた。

中世のスコラ哲学にも(反対意見を理解しているかを確かめるための議論という意味で)そういう要素はあった(もっとも、スコラ哲学は「意見の根拠を権威に認める」という一点において、ソクラテスの弁証法にあらゆる点で劣る

たしかに、否定だけの批判は、それが最終結論であるならば貧弱そのものである。しかし、論駁法という名にふさわしく、積極的な知識や確信に到達するための手段としてならば、それは今でもきわめて高く評価されるべきものである。

反対意見がなければ、自ら作り出す必要があるわけだが、それは難しい。だとすると、反対意見が自然に飛び込んできた時、それを封殺するのはなんと愚かなことか

我々は反対意見に感謝しなくてはならないのだ

まとめ

"①発表を封じられている意見は、もしかすると正しい意見かもしれない。
そのことを否定するのは、自分は絶対に間違わないと仮定することなのだ。"
"②発表を封じられている意見は、やはり間違った意見であっても、一部分の真理を含んでいるかもしれない。
また、実際含んでいるのが通常である。どのようなテーマについても、一般に流布している意見が真理の全体であることは滅多にないのであるから
真理の残りの部分は、対立する意見がぶつかり合う場合にのみ得られる可能性がある"
"③世間で受け入れられている意見が真理であり、しかも真理の全体であるとしても、熱心で活発な議論が許されない状態が続くと
ほとんどの人にとって、その意見は偏見と変わらないものになる。それ自身の合理的な根拠がほとんど理解されず、実感もされなくなるからだ。"
"④自由な議論がなされない場合、自分の主義の意味さえわからなくなったり、ぼやけてしまう危険性がある。
すると、それが人間の性格や行動に与えるはずの重要な効果さえ失われてしまう。心情は単なる標語に過ぎなくなる。
それは人間を育てるどころか、人間の成長を妨げる。理性や個人的体験から、本当の、心のそこからの確信が育つのを妨げるのである。"

表現の自由

表現の自由の限界はどこにあるのか?それは非常に難しい
普通、口汚い非難、嘲笑、人身攻撃というものは、表現の自由としては認められない。
が、そのほとんどは少数派から多数派へのそれである。逆の関係では、しばしばこのような行為が平然と認められる。むしろそちらの方が害悪なのにだ。
とはいえ、中傷という武器を強者に使うことは良くない。それは自分により強大なダメージとして跳ね返ってくるからだ。
弱者こそ、穏当な言葉遣いで、無用な刺激を与えないような配慮が求められる(道徳的な配慮)
一方で支配的な意見の側の中傷にこそ、それを控えさせることが必要だ
しかし、それを法律でやってはいけない。それは表現の自由を毀損する行為だからだ。
道徳でどうにかできるのが理想である。

自分の意見に基づいて行動する自由も、前章と同じ理由で必要なのではないか?
自分の意見を自分の生活において実行することは、それが自分の責任でなされる限り、周囲の誰からも肉体的にも精神的にも妨害されず、自由に行える自由も必要ではないか
正当な理由なしに他人に害を与える行為は、いかなる種類のものであろうとも、抑制されることが許される
個人の自由には限度というものがある、つまり、他人に迷惑をかけてはいけない
前章同様、さまざまな生活のスタイルが試みられることは、人類にとって有益である。
他人に直接関係しない事柄においては、個性が全面に出ることが望ましい
"もしも個性の自由な発展が人間の幸せのもっとも本質的な要素であると、人々が感じていたらどうだろう。
あるいは、個性の自由な発展が、文明・知識・教育・教養といった言葉で表されるものと並ぶ一つの要素にとどまらず、
その全てに必要な要素であると人々が感じていたらどうなるだろう。
その場合、自由が過小評価されることは無くなるのではないか。"
(ということは自由が過小評価される社会ではこれが認められていない)

慣習に従う者は選択を行わない。最善のものを見分けたり、最善のものを望む能力が全然育たない
猿のように周りの意見に従って生きるならまだしも、自分で選択するならこの能力が必要である
無気力で無感動な人よりも、エネルギッシュな人の方が必ず世の中に多くの益をもたらす
初期の社会と違い、現代は「よりエネルギーの平均水準が高い」状態を目指すべきである
"現代人は精神が束縛されている。自分の好みよりも世間の慣習の方を大事にするということではなく
世間の慣習になっているもの以外には、好みの対象が思い浮かばなくなっているのである。"
カルヴァン派はこのあり方が正しいと言う

"他人を害してまで自己満足を得ようとする者が、それを妨げられたときに失う個人的な発展の手段というのは、
大抵他人の発展を犠牲にして得られる種類のものである。そういう利己的な部分が抑制されれば、自分の本性のうちの社会的な
部分の発展が可能になり、本人にとっても、損は十分に埋め合わせられるのだ。"
"しかし、他人の幸福を損ねないものでも、ただ相手を不愉快にさせてはいけないという理由で抑制されていると
良い意味での発展は何もない"
人々に個性が残されている限り、専制政治でさえ最悪の結果は生まない。

個性とは人間として成長することである
自由を容認しない人たちへの説得
①あなたたちは、自由を行使する人々から何か学べる
独創性は社会にとって貴重な要素だ
社会に好影響を与える独創性を提供する人間は極めて少数だが、そもそも自由がないとその人間も生まれない
天才はまさしく天才であるが故に、他の誰よりも遥かに個性的である
それを押さえつければ彼らはその天才性を発揮せずに死んでいくし、もしくは抑制を乗り越えようとし「異端者」としてマークされることになる。

"独創性は、独創性を持たない人間にとっては、何のありがたみも感じられないものである。それをもっていれば何の役にたつのか、彼らにはわからない。
わかるはずがない。彼らにわかるようなものなら、それは独創性ではないからだ。"

頭脳が優秀であること、独創性に優れたことは、過去においては絶大な力を持っていたが、現代ではそうでもない。現代は世論の力の方が絶大なのだ。
世論はその国によって誰の意見なのかが変化するが、大衆(凡庸な集団)の意見なのには変わりない
凡庸な人々による政治が凡庸になるのは避けられない
絶大な力を持つ者による強権的な政治を支持するわけではないが、現代の社会はあまりに凡庸になりすぎている。
それに対する対策は「表現や行動の自由」しかない。

かつての時代では、人と違う行動をとるのは、それが普通よりも優れているのでなければ意味がなかった
しかし現代においては、大衆に順応しない実例を示すこと、それだけでも意味がある

世論の専制を打ち破るために、我々はなるべく変わった人になるのが望ましい
あえて変わった者になろうとする人が少ないことこそ、現代の最も危うい点なのである
「誰もしないこと」をすること、「誰もがすること」をしないこと、これらは通常非難される
今日この国において、人間のエネルギーが発揮される場は、ビジネス以外にほとんどない

進歩の原理は、自由を志向する形であれ、改革を志向する形であれ、ともかく慣習の支配に反対する
画一化がこれ以上に進むと、人間は多様性をイメージすることすらできなくなってしまう

完全に個人の権限と言える範囲はどこまでか?
社会の権威はどこからものを言い始めるのか?
社会は契約に基づいて成り立っているわけではない。契約の前に守るべき一定の原則がある
その原則とは、まず第一に互いの利益を損害しないこと
第二に社会とその構成員を危害や攻撃から守るため、それに必要な労働や犠牲を全員で分担することである
社会はこれらの義務を全体に強要して良い
それを守らない者には、どんな罰も与えて良い
個人の行為のうち一部でも他人の利益を害することがあれば、すぐさま社会はそれを裁く権利を持つ

自分を大事にするという美徳は、社会を大事にするという美徳の次に大事なものである
この二つの美徳をどちらも等しく育てるのが教育の仕事なのだ

なるほど、忠告や説教に逆らえば、誤りを犯すこともあろう。しかし、その誤りは、他人が親切心を押し付けるのを許すことの害悪よりは、はるかにましである。

"すなわち、社会には、社会が悪と定めたものすべてを法によって禁止する無制限の権利があるばかりではなく、悪を根絶するためなら、罪はないと認められるものでさえ、
いくらでも禁止できる無制限の権利がある、という世論がある。"

禁酒法は善いのか
悪い

原理が適用されている実例
二つの公理
"①個人は、自分の行動が自分以外の誰の利害にも関係しない限り、社会に対して責任を負わない。
他の人々は自分たちにとって善い事だと思えば、彼に向かって忠告したり教え諭したり説得したり、さらには敬遠したりすることができる。
彼の行動に嫌悪や非難を表明したくても、社会はこれ以外の方法を用いてはならない"
"②個人は、他の人々の利害を損なうような行動をとったならば、社会に対して責任を負う。そして、社会を守るためには社会による制裁か、もしくは法による制裁が必要と
社会が判断すれば、その人はどちらかの制裁を受けることになる。"
毒物販売の例 犯罪が実行される前に予防すること 危険なものとして表記するに留めるのが理想
酒によって粗相をした人には法的な制約がかけられてもよい
他者に迷惑をかける「怠け」には法的な制約がかけられてもよい
婚外のセックスは許されるべきである
賭け事も許されるべきである
しかし、売春を斡旋する・賭場を開くのは微妙
間接的な国家の介入(酒の増税など)は許される
自分を奴隷として売るのはだめ(自由の放棄)
自由の原理は、自由を放棄する自由を認めない
結婚はどちらか一方の宣言ですぐに継承できるはずだ(フンボルト)
子供がいた場合は微妙

子供には国家試験を受けさせ、読み書きなどができない場合は両親を罰してよい

一個の人間存在をこの世に生み出すこと、それは人生のうちでもっとも責任を伴う行為である。この責任を引き受けることは、生まれてくる子どもの人生が望ましいものになる見込み、少なくとも人並みになる見込みがないのであれば、まさしく子供にたいする犯罪である。

政府が個人の行動を支援するのも反対されるべきである
それは政府の権限を増やすことになってしまうからだ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?