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何を以て今を生きるか 『ケセラセラ|Mrs. GREEN APPLE』


こんにちは。哲学チャンネルです。

最近ニーチェにどっぷりと浸かっていまして、彼の著書を何度も何度も読み返したりしております。ついでに代表的な著作(ツァラトゥストラ・善悪の彼岸・道徳の系譜学)を全部要約してnoteの記事にするのも良いなぁなどと思い、そちらの方もコツコツと製作中でございます。

私は「人間の生は苦に満ちていて悲劇的である」という直観を持っています。直観というものは厄介で、一旦そのように確信してしまうと、それを自分自身で否定することができないんですよね。だからこそ、その上でそれをどう乗り越えるか?というものが人生の大きなテーマになるのですが、ニーチェはそんなテーマに様々なヒントを与えてくれる存在なんです。

一定期間ニーチェ漬けになって、そこで出てきたものを動画などでまとめたいと思っています。どうぞお楽しみに。



余談ですが、noteの記事をコンスタント(最低でも毎週)に更新していこうと思っています。それで、ある程度のその流れが習慣化されたら記事のいくつかを有料記事にする予定です。

「哲学チャンネルまわりのコミュニティ作り」について色々と考えた結果、noteのコミュニティ機能を利用して構築していくのが攻守ともに最強かなという結論に至りました。そうなるとマガジン購読などを入口にして、購読者に限定してコミュニティを広げていくのが、おそらく一番スムーズなやり方なんですよね。そのためには有料記事を定期的に更新しないといけなくて、それを目的にnote記事更新を習慣化していこうとしている次第です。

とはいえ、有料と言っても100円とかです。もしご興味がある内容がありましたら、応援のつもりでぜひご購入ください。




さて。

ニーチェにどっぷり浸かっていた私ですが、そんな中、まず間違いなくニーチェをベースに作られた楽曲を発見しました。

それが表題の「ケセラセラ」です。


この歌がものすごくニーチェでして。
今回は「ケセラセラ」について記事を書きたいなと思っています。




「ケセラセラ」を歌うのは、ここ10年以上、若年層から恒常的に支持されているMrs. GREEN APPLEです。

休止を経てもまだこの人気


私自身もMrs. GREEN APPLEをよく聞きまして、過去には別の曲に関して記事を書いたこともあります。

元々、彼らの曲には哲学的なテーマが取り入れられることがすごく多くて、歌詞厨の私としては垂涎物なんですよね。

上記の記事でも触れましたが、彼らの(というか大森元貴さんの)歌詞には、常にニーチェみがあると言いますか、超人思想的な観念が含まれているんです。そして「ケセラセラ」は、まさにそのニーチェみを凝縮したような曲なんです。

ということで、怒られない範囲で歌詞を見ていきましょう。




まずこの歌は、人生の様々なシーンにおける「苦悩」を提示します。

痛み止めを飲んでも 消えない胸のズキズキ

固めた殻で身を守って また諦める理由探す

不幸の矢が抜けない日

ひとりぼっちだと気づいても

悲劇の図鑑 私ってそう 仕方ない程 自分よがり

私を愛せるのは私だけ

この辺りはMVと一緒に聴いていただくとよりイメージが湧くかもしれません。MVでは、様々な人生を生きる人々が日常の苦悩に悩む姿が描かれています。

普通に生きていれば、この歌で(もしくはMVで)提示される苦悩に共感するものがあるはずです。万事うまくいくことなんてないし、常に幸福だってこともまずありえないですからね。誰しもがときには傷つき、打ちのめされる。(ちなみに私はMVの中の「督促状とメール通知が無限ほど溜まって発狂する男性」に心が痛いほど共感しました笑)

「ケセラセラ」では、このような苦悩に対して、以下のような答えを提示します。

ケセラセラ 今日も唱える 限界?上等 やってやろうか
愛を捨てるほど暇じゃない いつも all right,all right
ここを乗り越えたら 楽になるしかない

ケセラセラ 今日も唱える 何のせい?誰のせい?
勝てなくたっていい 負けない強さを持ちたい
そうさ all right,all right 乗り切ってみせる

「ケセラセラ」とは「なるようになるさ」にあたるスペイン語(que será, será)です。英語だとWhatever will be, will beになるんですかね。

「明日は明日の風が吹く」ほど消極的ではなく「自分の運命は自分で切り開く!」ほど積極的ではない、「人生は自分次第でどうとでもなるし、それについて誰も責める権利はないんだよ」的な意味を持つ語だと、私は解釈しています。

私はLet it beという言葉が好きなのですが、ニュアンスとしてはそれに近いのかもしれません。

ですから、これまでの歌詞を短絡的に解釈すると

・あなたには辛いことがあるよね
・それに苦しんでいるよね
・でも「ケセラセラ」
・なるようになるしかないんだから
・何とかここを乗り越えようよ
・そうしたらもっと良い日々が待っているかもしれないから

というふうに読むことができるわけです。

でも、この解釈だと救いようがないように感じてしまいませんか?少なくとも私はこの解釈に「酷だなぁ」という感想を持ってしまいます。今まさに辛い人は、それが将来改善する可能性を期待していないわけではありません。今頑張ったら将来楽になる可能性があることなんて重々わかっています。それでも、今辛いことが辛いんですよね。

失恋した人に「他に良い人が現れるよ」と言ってもほとんど意味がないのと同様に、辛い人に「何とかなるさ」と言っても、そこに救いはないような気がするのです。

「ケセラセラ」の特徴は、この一人称の物語を、全人称とも呼べる物語へ変換することにあります。全人称へと物語を飛躍させる呪文はこれです。

バイバイ 幼き愛の日々
いいよもう 願うは「はじめから」
ベイベー 大人になんかなるもんじゃないぞ
ツァラトゥストラ

「ツァラツゥストラ」って言っちゃってますね(笑)
これでニーチェとは関係のない歌だという方が難しい。

バイバイ 幼き愛の日々

これは単なる「愛」ではなく「自己愛」を表しているのだと思います。何に対して「幼い」のか。ニーチェに従うなら「運命愛」と比べて「幼い」といえる「自己愛」だと考えられるでしょう。

未熟な自己愛にはバイバイしちゃおうぜ、と。

いいよもう 願うは「はじめから」

表面だけを読むと「もう今の人生は嫌だから初めからやり直したい」となるのですが、この歌詞はもっと広い時間軸を表現しているように思います。「ケセラセラ」にはこんな歌詞もあります。

生まれ変わるなら?「また私だね」

今の人生に嫌気がさして新しい人生を望むならば、求める人生は「私以外の人生」であるはずです。しかし歌の中では「私の人生」が肯定され、もう一度繰り返すとしてもまた「私の人生」を、と表現されているわけです。
重要なのは、ここでいう「私の人生」は、必ずしも最高のものではないということです。むしろ苦渋に塗れて、それなりに辛い「私の人生」なのです。

けれども、もう一度人生を繰り返すならば「私の人生」を選ぶ。
これはまさにニーチェの超人思想です。


ベイベー 大人になんかなるもんじゃないぞ

ここでいう「大人になる」は「中途半端に賢くなる」という意味でしょう。そういえば、ニーチェは「中途半端に賢い人」を特に嫌っていた印象があります。

中途半端に賢くなることによって、ときに人生に諦めをつけたり、自分だけが得をするような偏狭な生き方をすることがあるかもしれません。

そういう大人にならずに、それでいて幼い「自己愛」から脱却して、もっと広い視野で世界を見てみよう。これらの歌詞にはそのようなメッセージ、または歌全体の次元を上げる力が含まれているように思います。


そして、この呪文を前提に「ケセラセラ」を一つ上の次元で解釈すると、その印象が大きく変わります。

一人称の解釈はこうでした。

・あなたには辛いことがあるよね
・それに苦しんでいるよね
・でも「ケセラセラ」
・なるようになるしかないんだから
・何とかここを乗り越えようよ
・そうしたらもっと良い日々が待っているかもしれないから

全人称の解釈はこうなります。

・あなたにも他の人にも誰にでも辛いことがあるよね
・そしてみんながそれに苦しんでいるよね
・でも「ケセラセラ」
・世界はそういうふうにできているんだから
・それが「そういうもの」なら、なんとかそれを乗り越えようよ
・それがどういう結果になるかわからないけれども
・それしかないんだからさ


大きく違うのは「苦しいのは自分だけではない」というところです。
仮に「苦しいのは自分だけ」だったら「自分だけが苦しい」という余分な苦痛を感じてしまいます。しかし、それが自分だけではなく、もっといえばそれが至極普通のことなのであれば、その苦痛に対して感じる印象は大きく変わるのではないでしょうか。

「そういうものだ」と覚悟してしまうことで、今を乗り越える力が湧いてくる。

そういうことはあり得るのではないでしょうか。


ニーチェの思想に「永劫回帰」という概念があります。

これは「世の中は同じ事象が永遠に繰り返してくるということ」を表した言葉で、例えば円周率において同じ文字列が1万桁続く場所が複数あるように、世界も同じ場面を何度繰り返すとするニーチェ哲学の根幹をなす概念です。

ニーチェは「永劫回帰」的な世界を肯定することを求めました。
世界を否定するでも超越するでもなく、ただただ受け入れる。
私という存在と人生は、永遠に繰り返される振り子運動のようなものに過ぎないかもしれない。という事実を受け入れて認める。
このように自己の人生を肯定する愛こそが「運命愛」です。

そして、仮にそのような世界に自分が生きているとしても、それを認めた上で積極的に生きる。何度自分の人生が繰り返されても、その度に「よし!やるか!」と立ち上がり、生を全うする。ニーチェは、こういう生き方ができる存在を「超人」と呼びました。

「超人」は、ただ生に積極的な人ではなく、悲観主義を通過した上でそれを肯定し乗り越えた人のことを指します。


ニーチェの超人思想を前提に「ケセラセラ」を聞くと、まさにそれを語った歌だと思えないでしょうか。

まず最初に「世界は苦悩に満ちている」という事実が突きつけられる。そして、それを肯定する。その上で、それを重々分かった上で、

生まれ変わるなら?「また私だね」

と立ち上がる。


まぁこじつけもだいぶ入ってますが、このような解釈を前提に曲を聞いたりMVを見たりすると、また違った感覚が得られると思います。

個人的に気に入っているのは、MVにおいて何も解決していないことです。
例えば、日中一人で赤ちゃんを見ている女性がいて、うまくいかない育児にイラついたり泣いてしまったりします。曲のラストの方で、帰ってきた旦那さんがケーキを買ってきていて、それを受けて奥さんがニコッとするシーンがあるんですね。確かに良いシーンではあるものの、育児は明日からも続くわけですよ。明日は明日でまた大変なんですよ。ケーキの嬉しさは、その大変さを緩和してくれるわけではないんですよね。だから、このMVは決してハッピーエンドではなく、単に世界を切り取ったものなのです。だがそれが良い。


普通の応援歌ではない、もっと奥底から生きる力を喚起してくれるようなMrs. GREEN APPLEの「ケセラセラ」

ぜひMVとともにご覧になってみてください!


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