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CCDセンサー中判デジタルカメラで撮る色々な世界〜PENTAX 645D

今は亡きCCDセンサーのデジタルカメラ、しかも中判デジタルカメラとなればまさにネオクラシックな希少種PENTAX 645D。
CCDセンサーのカメラといえば、尖ったカラーですよね。

その辺は熱量高めでこちらに書いておりますので、ご参考ください。
今回は645Dでいろいろなシチュエーションを撮った動画写真集と写真を並べてみますので、中判CCDの世界をご堪能ください。
といっても、スペック的なレビュー記事は嫌いなので、高慢な独断と偏見、そして言い訳が生んだ写真だけを見てご判断くだされば幸いです。


まずは神社。
明暗差激しい環境は、オールドデジタルカメラには少々つらいところもあります。
しかしまあ、苔の緑の色合いはまさにCCDセンサーの色ですね。
ちなみにCCDセンサーの独特の色合いなるものは都市伝説らしく、当時の技術の限界、もしくはLEICAなんかはフィルムに寄せてるとかなんとか。
その辺は精神論なので割愛しますが、要するに「CCDの色合い、通だぜ〜」と感じるからこそこの重たいカメラを持ち出しているという行動に価値があるわけなのです。うんうん。

こちらの写真はRAW現像ですこし明るさをいじっていますが、緑の濃さと暗部の粘り強さはさすがだなと酒がすすむ一枚です。
スペック表には表せない立体感を感じますね。親馬鹿ならぬカメラバカですが、撮りたいイメージのために手にしたカメラなのでそこは満足です。
僕の撮りたいイメージは、下記の記事で書いています。


本領発揮のランドスケープ、THE 風景写真です。
滝といえば、解像度番長御用達の案件。
普段はあまり解像度なんかは気にしないんですが、水の表現はやはり高解像度のほうが良いですよね。
例えば水の飛沫で滝や渓流の流れを表現する場合、シャッター速度問わず高解像度でなければどうしても滑らかさが失われてしまいます。
かといってカリカリのデジタル感満載の高解像度だとHDRっぽくて不自然だし、フィルムの粒子感が醸し出す不自然な自然さこそ至高なんて思いながら、ああでもないこうでもないという我儘な苦悩という名の消費選択の末にたどり着いたカメラであるという事実は隠しきれません。

要するにカメラは言い訳、撮影行為こそ本質、故に何を買うのもよし、そして買うなれば迷うことなくポチッとな


最後は渓谷の写真です。
流紋岩の織りなす自然の造形は、ただ絞れば良いってもんじゃないというカメラの神様からのお告げを具象化していますが、僕は怖くてたまらないので絞りに絞りました。
こういった均質ながらごちゃついたイメージはけっこう得意なようです。
このカメラの特徴は、かっちり写すけどどこか自然なイメージでしょうか?
モヤッとせず、カリカリでもなく、しかし自然に。

あと単純にこのアスペクト比(4:3)好きなんですよね。
35mmフルサイズと正方形の中間くらい、結局使ってみて思ったのはこのアスペクト比が僕の見ている/見たい景色なのだということです。
今までアスペクト比はそこまで意識したことがありませんでしたが、風景写真になると好みがあるということに気づきました。
ちなみにポートレートとなるとこのアスペクト比は嫌い。
人間なかなか難しいもんです。


以上、写真だけとりあえず見てくだされば幸いですnoteでした。
撮影行為にはカメラが欠かせませんが、カメラがあるから撮影に行くという行為が生まれるわけで、鶏が先か卵が先か問題と同一な思考実験ですね。
そもそも撮影とは生きる上で全く不要な行為であり、そこに現代の生命維持活動には不可欠なマネーをジャブジャブ投入しているわけですから、ホモサピエンスの共同幻想とは恐ろしくもあり消費社会バンザイなわけです。
しかしこの(我々には)生き辛い社会であるからこそ撮影という自己表現行動が必要なわけで、僕が僕であるために〜な尾崎豊要素をちょい乗せした鶏が先か卵が先か問題にまた繋がるわけです。
この無限入れ子構造こそが現代社会で生き辛さを抱える人々にとって地獄に垂れ下がる蜘蛛の糸であり、だからこそCCDセンサーなる幻想という心の隙が生じるのであります。

この複雑で単純な世界に、僕の写真が漂うことこそがこのカメラの存在意義なのである。
そう思うと、この1.4kg(レンズ抜き)の重量級カメラが幾分か軽く感じるのである。

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