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アレック・ソスの写真はなぜ印象的なのか?PENTAX645D

なぜアレック・ソスの写真は印象に残るのか?
アレック・ソスはアメリカの写真家であり、現在世界で最も注目されている写真家の一人だ。
アレック・ソスは、主にアメリカの田舎をロードトリップしながら写真を撮っている。
彼の撮るアメリカの田舎の風景は、静的かつどこか淋しげで刺激的なモチーフは皆無だ。
まさしく田舎の風景である。
しかしなぜかその写真は、我々に強い印象を抱かせる。
田舎のアメリカの日常を撮った写真ではあるが、それは安易で依存的な「アメリカの田舎」としての記号ではない。
そこには普遍的な美がある。懐かしさやノスタルジックな感覚が排除された普遍性、それが「アメリカの田舎」で撮られているのだ。
この非記号的ともいえる普遍的な美の表現は、アメリカの写真家が得意とするところだ。
スティーブン・ショアやニューカラー世代の写真家は、こういった取っ掛かりのない景色にある普遍的な美を写し取ってきた。

この普遍的な美は何なのであろう?
アメリカの田舎でしか撮れない写真ではないが、都市では撮れない。
都市の写真は過剰であり、過剰であるが故に非普遍的な強い刺激がある。
普遍的な美とは、そういった刺激という名の「誘導」を排した景色の傍観である。
スティーブン・ショアは、それを数学的な公式により導き出されたかのような完璧な構図を利用することで、普遍的な美を感じさせる写真を撮った。
「Uncommon Places」の写真は、アメリカの田舎というわかりやすい情景で、あえて徹底的に数学的な解釈で構図を考え抜いている。
田舎の殺風景な景色ですら、彼の手にかかれば普遍的な美を捉えることができるのだ。
写真というメディアは、景色をリアルに写し取ることができるからこそ、過剰なスパイスを必要としていた。
写実的な演出は初めから完結しているからだ。
スティーブン・ショアはその過剰さを必要とせずとも、絵画や彫刻や音楽のように歴史的な普遍性というオリジナルなメディアの道徳を標榜することができると証明してみせた。

アレック・ソスはこのアメリカの写真家の系譜を受け継いでいる。
それでいて雑誌のインタビューで深瀬昌久の「鴉」を見て、写真に感情を入れても良いということに気付かされたと語っている。
故に「アメリカの田舎」で「普遍的な美」を「内省的」に写している。
自らを内省的な性格と語り、深瀬昌久に共感するという点では、我々東洋人的な自然に対する精神性を持ち合わせているのかもしれない。

今回の写真のテーマは文字通り「アレック・ソス」である。
アレック・ソスがアメリカの田舎で撮影した写真の精神性を意識しながら、日本の田舎で僕が撮るのだ。
僕は「日本の田舎」に住み、「内省的」な性格で、「ロードトリップ」を好む。
まさしく写真を取り巻く環境が似ている・・・と勝手にシンパシーを抱いている。
今回のカメラはPENTAX 645D。
ミラーレスカメラ全盛時代にわざわざこんな10年以上前の巨大なカメラを買ったかについては、以前の記事を参照してもらおう。
この巨大で重みのある前時代のカメラは、CCDセンサーの中判デジタルカメラである。
CCDセンサーで撮る写真は「フィルムの質感」を宿しているという都市伝説がある。
そしてレンズ込みで2kgを超す巨体。
これなら8×10の大判フィルムカメラで撮るアレック・ソスに、少しだけ近づけると思ったからだ。形から入るのは僕の先天的な傾向である。
この巨大なカメラを提げて、日本のド田舎「島根県」を撮り歩いた。
ここからは僭越ながら、僕が撮った「アレック・ソスへのリスペクト写真」という名の我儘な解釈からアレック・ソスの写真について考察してみる。


アレック・ソスの写真の構図に一番近いと思ったのがこの写真だ。
アレック・ソスの写真は「景色の傍観」ともいえる遠方からの構図が多い。
この写真のように、少し高台から見下ろすような写真、景観をシャープに、そして非演出的に、それでいて内省的に。
物語性を感じさせない冷めた景観の中に、わずかな感情の揺れが写り込んでいる・・・というのがアレック・ソスの写真の特徴だと思っている。

アレック・ソスの写真はポートレートも多い。
対象は至って普通の人物ではあるが、どこかダイアン・アーバス的な不均衡な精神性を持つ「個性的な」人々が多い。
これは、自らの内省的な感覚がそうさせているのかもしれない。ダイアン・アーバスがそうであったように。
僕はアレック・ソスのポートレートの作品の中だと、景色の中にポツンと配置された人物の写真が好きだ。
アレック・ソスはカメラを意識していない、または景色に混ざり込んでいるような人間の姿、そんなポートレートも得意としている。
単にポートレートと集約されてしまうと、記号的な性格か撮影技術的な素材と化してしまう。
そうではなく、アレック・ソス本人の感受性が感じ取った人物の個性がそこにはある。

アレック・ソス、というかアメリカの写真家といえば廃車である。
アメリカ文化には車は欠かせない。
そう簡単に済ませられるほど、メディアにおける車文化の浸透はアメリカそのものといえる。
アメリカンドリームやアメリカンスピリッツなる幻想の一翼を支えているのが「移動」としての車という記号であり、西部劇の馬からラッパーのゴージャスな車まで、ひとえにアメリカなる幻想そのものなのかもしれない。

そして田舎も車文化だ。
我が田舎でも車がないと何もできないといっても過言ではない。
脆弱な公共交通機関により車がなければ働くこともできず、郊外型ショッピングモールや高速道路により開かれる消費文化への憧れこそが田舎者のそれである。
車は自己と同一であり、都会の人間の想像以上に体の一部となっている。
故に廃車なのだ。
廃車は田舎の象徴である。田舎だからこそ車があり、田舎だからこそ廃車がそのまま朽ちるに任されている。
そこには時代性が宿り、地域の経済や歴史が集約された象徴なのだ。

アレック・ソスといえばロードトリップ。
古くはロバート・フランクに象徴されるように、アメリカの写真家といえば車とカメラはセットになっている。またしてもアメリカと車。
ロードトリップで撮影された写真は、どれも排他的な偶然性を纏っている。
写真の偶然性とは、その瞬間でしか起こり得ない時間的価値に重きをおいた表現である。
偶然性を撮るのは基本的にスナップであるが、スナップ写真の名手はほとんどが都市を根城にしている。
ウィリアム・クラインや森山大道がまさにそうだ。
偶然を得るためには刺激の多い都市が良い。単純に確率の問題である。
都市は人が多く、町並みに特色があり、汚くて整然としていて、とにかく人が多い。
ある瞬間を切り取るだけでそこに美を感じるというのは、偶然という名の再現性の不可能な時間的制限に価値があるからだ。
その偶然とは、そこにカメラを持って立っていた事実とその瞬間との会合という時間的・空間的な一致があるからであり、だからこそ「価値」を見出す。
その価値が希少であればあるほど、人々を惹き込む感情を呼び起こす。
決定的瞬間とは、時間的制約の中での時間的空間的一致という奇跡を価値として感じるのであり、逆に言えば超長時間露光撮影写真とも共有できる価値観である。
普遍的な美とは、価値観を異にする。どこかスナップ写真は、経済的な価値=労働価値説に近いニュアンスがある。
要するに美とは、総称であり、数多ある価値のカテゴリの集まりでしかないと言ってしまえば良いと思う。
普遍的な美という抽象的な言葉はカテゴリの曖昧性を指し、時間的価値としてのスナップ写真はカテゴリの枠が幾分絞られている。

ロードトリップが排他的な偶然性と書いたが、これは偶然性が予期していない運任せ、またはカテゴリに収まることを放棄しているという意味だ。
都市でスナップ写真を撮るのは、時間的価値を感じる刺激的な瞬間に出会える確率が単純に多いからだ。
ロードトリップ、しかも田舎となるとそこには「なにもない」という前提がある。
何もないところでは、時間的価値を感じさせるモチーフを見つけることは難しい。だから初めから当てにしていない。
ロバート・フランクは、異邦人から見たアメリカをロードトリップで撮ったが、もしニューヨークだけで撮影していたらどうであっただろうか?
「当てにしていない」「田舎」で、偶然性を無理矢理見出して撮影する。
これは時間的価値を得るための行動としては見られず、ただの運任せ。そこにあるのは純粋な偶然性であり、おそらく二度と起こらない会合であるが、だからこそ時間的価値がない。
時間的価値は万が一でもありそうな、想像できる範囲でしかその価値を生まない。何の変哲もない場所の二度と起こらないであろう瞬間に、時間的価値は存在しない。
時間的価値は希少性がその源泉となるが、それはありそうでなかなかないからこそ生じるものだからだ。
このパラドックスは、田舎のロードトリップの排他的な偶然性を生む。
偶然でしかない写真、それがロードトリップにおける写真なのだ。アレック・ソスの偶然撮った写真を同じ場所で真似しても、それに魅力を感じるであろうか?
ウィリアム・クラインや森山大道のスタイルを真似る人が多いのは、時間的価値はシンプルに確率だからである。新宿でモノクロで撮れば森山大道のようなものになれる。
もちろん、森山大道にはなれないが、森山大道のようなものになれるのだ。
だが、ロードトリップする写真家の真似は難しい。
真似をしたところで、相手は排他的な偶然性の中でセンスを発揮しているのであって、カテゴリの枠を設定できないからだ。
ロードトリップで撮る写真は、カテゴリ化も時間的価値を得る手段としても認知されないが故に、排他的にならざるを得ないのである。
要するに、景観と自己の同一化=自己満足でしかないからだ。

最後に、アレック・ソスの写真は「フラットに撮る」という姿勢で一貫している。
大判フィルムカメラで絞って撮る、全体にピントが合ったフラットな写真だ。
もちろんデジタルカメラを使ったり、開放で撮る写真もある。
フラットな写真とは、演出効果が乏しい、単に傍観しているような写真だ。
ポートレートですら、どこか寂しげで対象に無関心であるかのような冷たい印象の写真が多い。
しかも、アレック・ソスの写真は確信犯的にフラットに撮っているような印象は受けない。
フラットとは起伏のない・平坦なという意味であるが、感情が入っていないというわけでもない。
しかし単調ではなく、なんともいえない印象を与える写真、それがアレック・ソスの魅力である。
この得も言われぬ印象、過激でも無関心でもなく中途半端でもない、何といえば良いのであろうか?
これは今まで述べてきたような「普遍的な美」と「アメリカ文化」と「ロードトリップ」がこの印象を作り出しているといえるのではなかろうか?
アメリカ写真家の歴史的系譜を受け継いだ普遍性への追求、これはアメリカという歴史のない国の幻想としての文化との親和性が高い。
アメリカという雑多でまとまりのないカテゴリだからこそ、無駄を削ぎ落とした普遍性の表現を追求できる。
この普遍性に美を感じるというのを発見したことは、写真というメディアにとって天啓でもあり苦役でもある。
普遍性の美を写真で表現するのは、人類の普遍的な美的感覚としての対象となる記号(例えば可憐な花や荘厳な大自然)を利用するのが手っ取り早い。
しかしそれはすぐさま陳腐化する。観光地のポストカードのように、普遍的過ぎるが故に情報化社会の到来により大衆的な消費イメージと化してしまった。
そこで構図としての数学的な納得感、記号ではない普遍的な美のメタ表現方法が追求されていく。
その系譜に乗りながら、田舎のロードトリップという排他的な偶然頼みの、時間的価値観すら拒否する姿勢を矜持する。
安易な記号的消費ではない普遍的な美の無意識的なメタ認知を喚起させる表現を用い、さらにこれまた安易な景観や時間的価値観に委ねることのない偶然性の中での時間的な緊張感が込められた写真。
一見フラットで主義主張のなさそうな写真の裏には、その表現にたどり着くまでのアレック・ソスの時間的精神的空間的な長い旅の過程を思わせてくるのだ。

以上、アレック・ソスに憧れて撮った写真である。
動画写真集には数十枚載せているので、ご覧いただければありがたい。

今回の得物であるPENTAX 645Dについてはこちらも長々と書いているので上記記事をご参照してくだされば光栄です。

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