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重いカメラじゃないと撮れない写真

本体だけで1.4kgのPENTAX645D(ミラーありデジタルカメラ)を手にすると、攻撃力が上がった気がする。
昨今、ミラーレスカメラ全盛期、というかスマホカメラ覇権期において、小さいものは良いものだ!がグローバルイデオロギーとなっている。
小型だけではなく、某タートルネック社長が好みそうなデザイン、そしてインターネットとのフレキシブルな交流、そうライフスタイルに適したツールというものは皆同じベクトルでアダム・スミスしているのである。
だがしかし、このご時世で旧式のビグザムのような鈍重最終兵器カメラでしか撮れない写真を撮りたいのである。
これは人類の業である。

重いカメラ=風景写真というのはカメラの歴史の常道であった。
今でもアレック・ソスのように8×10の巨大フィルムカメラというか箱を利用している世界的なカメラマンもいる。
でかいカメラとは要するに写真のクオリティのためにフットワークを犠牲にした大艦巨砲主義、コロニー落としと大差ない合理主義的帰結が産んだビッグベビー。
しかし、最近は技術的進歩の極致(日常使いレベル)を超えてもはや久しいカメラ業界では、子どもでも扱える小型カメラで何でも高精細に写し取ることができる。

だがしかし、写真を撮る行為において、軽すぎるのも悪弊がある。
重いカメラは腰を据える。動けない。息を止める。疲れる。もう歩きたくない。もうこんなもん投げてしまいたい。
そんな衝動に駆られながらひたすら被写体を追い求める。
故に、645Dと一緒にSIGMA fpやRICOH GRを持ち歩くのだが、撮影枚数は後者のほうが3倍以上多い。
当たり前だけど、これが重要。

ここぞ、という場面を逃してしまう重いカメラは、そういった刹那的な感情に流されない景色をじっくり撮ることができる。
芸術系のカメラマンが未だに中判以上のフィルムに固執しているのもこの感覚を求めてのことだと思う。
量でこなすだけの撮影だと、撮影が作業的になり、気づけば「量の中だけで価値のある写真」になってしまう。
とりあえず撮る、それを大量に撮り続けることは慣性で世界と対峙していることとなる。
そんなちょっとした無意識レベルで撮られた写真は、撮影者の無意識下で集められた大量の写真と比較しながら撮られることになる。
作業的な撮影は、ストレスが低いことにより、逆に量的な世界観の中だけの質を求めがちだ。
故に似たような写真、流行の写真、映えそうな写真になる。
「量の中だけで価値のある写真」とは、AIが描いた景色のように、たしかにきれいだがそこからは「量の中でだけ目に止まる写真」でしかなく、謂わば技術的なレベルの競い合い、絶景スポット、流行りのモチーフのように量的な世界から一歩抜け出す質へ集約してしまう。

だからこそ、たまには重いカメラも良い。
重いカメラは量的な質には挑めない。だって疲れてくるとファインダーを覗くのも面倒くさい。
だからこそ、意識的になる。明確な主題を持ち、撮れなければ撮らない。
それはつまらない写真だ。
非流行の写真雑誌の賞を取るような教科書的な写真、硬くて重い写真。

だがこの超主観的な世界観を追い込み、よりリアルにイメージできるまで自分を追い込めた者にとって、重いカメラの肉体的労苦から来る意識化は有益だ。
アレック・ソスの写真はまさにそれを体現できている。
彼は撮りたいイメージを先にメモに書いておき、ロードトリップの最中にそのイメージに合った景色を見た瞬間に8×10の巨大なカメラを手に取る。

重いカメラでしか撮れない写真は、殆ど無いと言ってよいだろう。
だがその瞬間に重いカメラじゃなければ撮れない写真はある。
現代の手軽さにより失った感覚は確かに存在する。
重いカメラもたまには良い。


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