見出し画像

今さらPENTAX 645Dを買ったことに対する長い長い言い訳(1万文字)

結論からいうと、PENTAX 645Dという2010年発売の古いデジタルカメラを買ったのである。
デジタルカメラにおける干支が一回りする時間というのは、それはそれは大昔の話である。
では、なぜ私がこんなまあまあな殺傷力のある鈍器のようなデジタルカメラを手にするに至ったかを話そうと思う。
そう、これは長い長い言い訳なのである。もちろん、自分に対しての。

はじまりはいつも突然に

狭小住宅である我が家の極小収納スペースを帝国主義時代のイギリスばりに占拠しているのは、もちろんカメラである。
我が家にはすでに、SIGMA fp、Nikon D750、RICOH GR、SIGMA dp2merrillという完璧なラインナップのデジタルカメラ及びそれに付属するレンズ群が鎮座している。
そこにフィルムカメラのLeica M3、LeicaR8、そしてPlaubel Makina67がこれまた大鎮座している。
もはや一般家庭における必要性の概念を超え、スピリチュアルとしかいえないカメラの壮観な行列は、往年の大日本帝国海軍の観艦式のようである。
完全なスマホ時代を迎えて久しい昨今、斯くの如きオーパーツの観艦式は嫁による失笑を超えた哀れみを燦々と浴びている。
僕の中でこれは諸葛孔明も死せるまま死せるであろう完全無欠の布陣であり、最強の矛と最強の盾を実現化した偉大なる選択という名の散財の歴史でもあった。

しかし、である。
写真という正解のない正解を求めることが正解である宗教的な行為(一神教)において、最強の布陣というのは一抹の不安を拭うだけの幻想であった。
例のアレが流行し、我々は移動という人間本来の嗜みを、見えない流行り病と見えやすい世間の空気により制限されてしまった。
私は(僅かながらの)税金まで収めている優良市民であるため、移動の自粛という名の空気を読む強制を甘んじて受け、山陰のド田舎の鄙びたゴーストタウン以上限界集落未満の僻地でいそいそと写真を撮っていた。

そう、飽きたのである。
ド田舎というのはいわゆるエモいフォトジェニックな景観など皆無であり、景色の8割は緑、残り2割は茶色である。
このたった二色の世界は、私を憂鬱にさせた。
しかし、窮すれば人間より本質的な深みまで探求したくなるもの。
この三年、あまりにも撮るものがないことに絶望した私は、「なぜ写真を撮るのか」の探求を始めた。
数多の本を読み、けっこうな額の写真集が続々と配達されてきた。
それは「どこにも行けないから浮いた基金」の行き場のないフラストレーション的な消費行為でしかなかったといえるが、私の脳内には写真についての朧気な正解のない正解の正解が見えてきたのだ。
※事情により「どこにも行けないから浮いた基金」は破産宣告致しましたことをご報告します。

写真とはなにか?

世にはエモい写真が溢れ、絶対的絶景写真がリツイートされまくり、HDRキメキメのキラキラゴリゴリ写真がメディアを覆った。
それはそれで良い。
しかしである、中平卓馬のいう「写真の時代性」が大量消費社会と情報化社会に飲み込まれる様がもはやファッショナブルに生活とともにあるではないか!
写真には時代性が宿る。その時代に求められた表現というものは確かに存在し、写真というメディアは時代性との関連性が強い。
なぜなら写真は絵画や音楽と違い現実との結び付きが強い。それは時間的にも技術的にも。
SNSの登場により、この写真の時代性はねずみ算式に迅速に広がり、そしてあっという間に廃れていく。
かつて中平卓馬はこの社会に使い捨てされる表現から決別したことで苦悩し我が身を追い込んでしまったのだが、生来天の邪鬼な私にはこの感覚がひどく共感できるのである。
だが、現在は体制と反体制が入れ子状かつ他カテゴリーで指数関数的に増殖しており、もはやインターステラーのお父さんも諦めるくらい広大な欲望の荒野が広がっている。
しかし、これは写真というメディアの宿命なのではないだろうか?
もはやスマホの登場で、写真というメディアは老いた星のようにビッグバンかましたくてウズウズしてるのである。
それは需要とオリジナリティの相反する葛藤の先にある普遍化であり、写真というメディアは世界に埋没してしまったのだ。

ではなぜ人はそんな状況でも写真を撮るのか?
それは写真を撮るという行為が、社会への愛憎入り交じる感情の発露だからである。
社会に押し込まれた我々は、安全と物質的豊かさと長寿命を得るために差し出した「人間の本質」をいつも遠目で眺めている。
そこに確かにあるのだが、それを手にすることはできない。否、手にすることは簡単なのだが、コスパが悪いのである。
この社会で生きる上での葛藤こそが、現代社会において我々を最も苦しませる病根なのである。
そこで写真だ。
ここでいう写真とは、趣味の粋を超えた超絶生産性の低い行いをいい、誰に頼まれたわけでもなく神に導かれたわけでもなく嫁の冷たい視線をよそに山へ海へ都市へと我々が向かう行為そのものをいう。
このコスパが悪い行為こそが、コスパの良いとされる社会に生きる営みへのアンチテーゼであり、実はそんなコスト感覚が一番苦しいんではないかという当てつけにして戒めなのではないか?
写真とはなにか?それは確信犯的プチ反社会的行為であり、それは生の実感を与えてくれるパンクなのである。

なぜ今になってPENTAX 645Dなのか?

以上のように、写真とは生きていることの確認であるからして、不毛な労働で得た金なんてものは所詮社会で生かされる馬車馬の人参みたいなもんであるからして早急に使って現世を本来の意味の現世にしてやるくらいが丁度良いんじゃ何が老後2000万円じゃキリギリス万歳!!!
ということで、カメラを買うことは善であるというテーゼが皆様に承認されたことを喜ばしく思います。全会一致とは驚きましたが。
ここからは、私の食指がペンタックス645Dに至る欧州情勢並みに複雑怪奇な道程を疑似体験していただきましょう。
無駄に長ったらしくウジウジしますが、初めから終わりまで詳細に書き連ねてみたいと思います。
これは、現代のとある普通のサラリーマンの社会で生きている様そのものであり、カメラ好きなら共感していただける無益な時間になると思います。

ではなぜPENTAX 645Dなのか?
これには長い長い苦闘があったわけです。
まずひとつはフィルムの高騰であります。
フィルム高すぎでしょ。初めて三年なんだが、その間に価格が二倍近く跳ね上がってしまったのだ。
さらに富士フィルムは女と別れたくて仕方がないから徐々に冷たくなるイケメンのような素振りで、どんどん確信犯的撤退をかましている。
仕方がないね。そうだよね、ぐすん。
そんなセンチメンタル女子っぽい自分を自撮りしたくてもこんなにカネがかかるんじゃ、正直楽しめない。
もうね、マキナ67で一枚撮る度に手が震えてならないよ。シャッタースピード速めに設定しちゃうよ。中判フィルムはたっかいぞ〜
でもフィルムの質感、これはたまらんのです。
唯一無二、Photoshopさまでこねくり回してもそれはフィルムの質感にはならない。
どうしたものか・・・

その時、私の脳内に厳重にストックされている物欲刺激情報が夏の終わりを告げる花火のようにポンと漆黒の闇に散った。
「CCDセンサーがあるぜよ」
なぜ土佐弁なのかはさておき、買い縁隊の隊長がおっしゃるにはCCDセンサーで撮る写真は、フィルムの質感が感じられるという都市伝説を教えてくれた。
そうなると早い。
跳躍伝導にてナポレオンのごとく進撃するア・プリオリな物欲は、超速のアウフヘーベンをスーパーコンピューターばりの計算力で何億回も繰り返し、数台のカメラという目標をしかと捉えた。

候補①LEICA M9

筆頭候補は、LEICA M9である。
私が一番欲しいカメラでもあり、LEICA初のフルサイズデジタルカメラにして、レンジファインダー&採光窓を持つ最後のLEICAにして、そんでCCDセンサーなのである。
さらにLEICA教の皆様曰く、もっともLEICAらしいLEICAのデジタルカメラと云われ、CCDセンサーが吐き出す濃厚なカラー表現は國士無双唯一無比の存在であり、2009年発売にもかかわらず未だに使い続けているプロもいるとか。
ああ、こんなストーリーたまらんやないか!
ガンダムでいえばブルーディスティニーのような、常人が乗りこなすことができない異端児にして伝説というストーリーは人種年令問わず男子の大好物。
しかし、このLEICA M9は正真正銘のじゃじゃ馬。
センサー剥離問題というLEICAらしい上品な欠陥がある。ガラスのエース三杉くんみたいなもんだ。
M9のCCDセンサーはパリパリに剥がれてしまうという持病があり、交換サービスが終了してしまった現在、交換済み機体を購入しなければならない。
そしてそれが高い。2009年発売のデジタルカメラにおけるシーラカンスは現在でも40〜50万円するのである。
おいおい、最新の国産ミラーレスカメラのええやつが買える値段やんか!
さすがLEICAである。LEICAであらずんばLEICAにあらず。

でも私、手持ちにLEICAのレンズがあるんすよね!ははは!
「これが人生最後のカメラ」と宣言してLEICA M3を手に入れた時にね。
ちなみにM3は沼の終点かと思いきや、さらに上の階へと上がるエスカレーターでした。まさに死亡遊戯。

こうなるとですよ。
M9はたしかに高いが、手持ちのLEICAレンズが使えるんですよ。
つうことは、マウントを変えるわけではない。
マウントを変えるというのは、枕を変えるのとはわけが違う。夜な夜な枕を濡らしながら悶え決断のその時まで苦しみ、断腸の思いで清水寺の舞台からムーンサルトプレスを決めなきゃならないんです。
M9であれば、手持ちのレンズだけで十分です。
LEICAレンズはおそらく庭から石油でも出ない限り買えないので逆に諦めが付くわけで。
よっしゃ~これに決まり

・・・と思いきや、私にはSIGMA fpがあるんですよ。
正直LEICAレンズとの相性が本家LEICAの次に良いのがこのfpだと自負している。
fpは国産カメラの歴史を破壊した逆黒船カメラであり、むしろジャーマンのLEICAに近い。
M9のCCDセンサーは捨てがたいが、同じフルサイズセンサーでコンパクトでデザインがキレッキレという観点から鑑みるにfpで十分なんじゃないかと思えてしまうのだ。

候補②LEICA MONOCHROME

そうなんすよ。
M9はfpとかなりの部分が被っている。
40万円出してまで似たようなカメラがほしいのか?
fpはかなり気に入っているのでね。
そう考えると迷い始めて、マップカメラとヨドバシカメラとLEICAポエムブログのLEICA M9記事を漁る日々が急に空虚になってしまった。
ああ、また価格コムの不毛な争いでも眺めるか。
そう思っていた矢先、そういえばMONOCHROMEがあるやないかとなぜか関西弁になってしまいながら天啓を得た。

LEICA MONOCHROMEはその名の通りモノクロ写真しか撮れないというLEICAにしか製品化できない尖りに尖った若い時の氷室京介みたいなカメラである。
MONOCHROMEはカラーフィルターを引っ剥がして1画素をまるまる使えちゃうという変態設定であり、白黒の階調表現が唯一無比らしいのだ。また唯一無比・・・

そもそもデジタルになると今度はセンサーフェチな私。
変態カメラでお馴染みのFoveonセンサー搭載SIGMA dp2 merrillは言うまでもなく手元にある。
Foveonのイカれたかっこよさは記事を読んでいただくとして、そもそもカメラが欲しいとふと思ったのはSIGMAがFoveonセンサー搭載新カメラを絶賛開発中というニュースを出したのがいけないんだ。
これは発表した瞬間に何も情報を得ずとも予約する予約をすでにしているのだが、まだ2年以上かかる見通しということで、それまでせっせと貯金するかと思いきやそれまでの繋ぎになんか欲しいなという悪魔の囁きがそもそもの原因である。まあ、これはまたの機会に。

なんだかんだ言ったが、MONOCHROMEという考えは我ながら良いぞ。
なんせCCD以上に尖った異常なセンサーであり、モノクロ=フィルム隆盛時代であるからして、フィルムの代価としてのデジタルという私の自己偽装工作にぴったりではないか!
もちろんLEICAのレンズが使えるし、値段も50万円前後とM9と遜色なし。
我が家の実体経済からすると完全に狂っているが、M9がそうさせたに違いない。
MONOCHROMEさえあれば、私が令和のブレッソン、木村伊兵衛、クーデルカ、いやいやリー・フリードランダーになるかもしれへんがな!
MONOCHROME、キミにきめた!

候補③中判センサー

「待ちなさい労働意欲のない貧乏人よ!50万円はお前には大金なのだよ。LEICAに惑わされるな」
いかんいかん、またしてもLEICAに惑わされてしまうところだった。
コスパでしか世界を見れない者は哀れだが、コスパを見ない者は地獄に落ちるであろう・・・と何かの福音書か経典か資本論に書いてあったっけ。
物欲の流れは紆余曲折し、だいたい迷い始めてこれくらいの時期にコストパフォマンスを意識させるようだ。ふふふ、いろいろと経験済みだ。そして・・・もうすぐ私はカメラを結局買うであろう。

50万円あったら中判センサー搭載のデジタルカメラ買えるやんけ。
大きいことは良いことだ。物量で殴り飛ばすというのは、古今東西最強の必勝パターン。
あ、そもそも国産の便利で高画素な最新ミラーレス機には全く興味がないのをここで宣言しておく。
これは単に天の邪鬼なのと、便利なカメラというものはすでに正解がある人向けだと思っているからだ。
撮りたい写真のイメージが既にあるのであれば、瞳AFとかを駆使すれば最短労力で正解にたどり着ける。

私が撮りたいものは正解がないとだいぶ前に書いたが、要するに私はカメラやレンズを変えることで世界の見方が変わるというメタ認知を自覚した上での散策を愛しているわけであり、カメラを頻繁に変えることは世界を変えることなのだ。
よって最新の便利カメラは何でもかんでも撮れすぎるという制限の無さが、私にとっては逆に窮屈になるという根源的な矛盾を抱えているのである。
要するに、アレモコレモ欲しいのだ〜

中判センサーってすごいじゃないですか!
マキナ67を使って思ったのは、まさしくフィルムのデカさはすっごいぞ!である。
階調や精細さはもちろん、その場の空気すら撮り去ったような豪快な写真はとてつもないのである。
50万円あれば、普及中判デジタルカメラとレンズまで買えるやんと思うのは当然の帰結。

でもちょっとまって!
6×7のフィルムサイズと普及中判デジタルカメラのセンサーサイズ(44×33mm)ってぜんぜん違うよ。
価格コムの諜報員たちが私に教えてくれた。
44×33mmって645のフィルムサイズよりちっさいじゃん。
これって中判って言えるのか?
そのあとも出るわ出るわのセンサー論争。
高画素フルサイズ機で十分、ボケもフルサイズ機にF1台のレンズ着ければ変わらない、費用対効果の少なさ、レンズがデカイし高い・・・

そしてそもそも論だが、フィルムの規格とデジタルセンサーを比較することすら不毛であり、何なら1000万画素あればよいというカメラ禅問答という悟りの狂地へ議論は輪廻転生・・・

でもハッセルブラッド格好良いよね。
自分、北欧生まれっすって感じが露骨な所が良い。
コーヒー飲んでヒュッゲヒュッゲ言いながらサウナから飛び出して冷たい湖に飛び込むグスタフ2世の画が浮かぶ。
IKEAはあんなに安いのにハッセルブラッドのお値段といえば月まで飛んでいきそうだ。
中判ハッセルといえば907X 50C。
あのフィルムハッセルを有効利用できるデザインは、商船を空母に変えるかの如く気品すら漂う。
もちろんX1D II 50Cもデザインが最高。もう持ってるだけで気分はノーベル賞授賞式。
でもまあ話にならないくらい高い。IKEAを見習え!

ハッセルブラッドでハッセル!ハッセル!できないのは致し方ないが、同じセンサーを積んでいるといわれる富士フィルムのGFXで良いではないか!
やっぱり国産だよ!ハッセルがステラン・スカルスガルドなら富士フィルムは渥美清。
あの無骨で高機能ながらお求めやすい価格。
さらにGFX50Rはマキナ67とLEICA Mを足してチンして天日干ししたような出で立ちではないか。
GFX50Rであれば中古で25万円前後、CMOSセンサーだが扱いやすく、中判にしては軽量、そしてとにかく安い。
マウントアダプターもたくさん出ているし、純正レンズは高いから捨て値で転がっている古き良き中判フィルムカメラレンズが楽しめるではないか!
コスパの鬼、GFX50R、実は前々からちょっと狙ってたし、ここはこれに決めた!
正直、もうカメラ情報を収集しすぎて何がなんだかわからなくなってしまった。
考えれば、フィルムが高いからその代用品を気まぐれで探してみたのが運の尽き。
これまでどれほどの貴重な時間をGoogleに捧げたのであろうか!
もう決めちゃおう、私はひどく疲れた

ごらん、あれがPENTAX 645Dよ!

この毛沢東も嫌気が差すであろう長大な紆余曲折により、もはや何も考えられなくなった私は、やっとここで自らの本音を再考するという基本に立ち返ってみた。
①新しい表現、新たな視覚、新たな世界との会合
②フィルムの高騰

この2点が新たなカメラを迎えたいという動機=言い訳である。

ここに、
1,SIGMAのFoveonカメラ開発のお知らせ
2,フィルムカメラ売ってしまおうかな=軍資金の拡充
3,LEICAによりエビデンス無しで跳ね上がった軍事予算

が加わることで、すでに何か買うのは決定事項であり、あとは予算と気持ちの問題である。

だがやはり捨てがたいのはCCDセンサー。
だって使ったこと無いんだもん。
それにもはやCCDセンサーカメラが新たに出ることはないだろう。
この、「未体験ゾーン」と「散り際の美学」は世界中の男子の大好物。
これに予算を抱き合わせて夜な夜な咽び泣く。
私はなんて哀れなのであろう。生まれ持ってのこの呪われた性、気分はまさに刀の時代の終焉を生きる土方歳三である。いや、ガトリング砲ぶっ放した河井継之助か。いやいや、ノイエ・ジールで特攻するアナベル・ガトーだ。
なんて悲劇の英雄を気取っていたとき、我が海馬には数週間にも渡って詰め込まれた玉石混交のカメラ情報が犇めき、あらゆる神経細胞が休むことなく雄叫びを上げ、消耗しきった真っ白けの心に一筋の光明が魔貫光殺砲のように差し込んだ。

・・・PENTAX 645D
PEN・・・TAX・・・645・・D・・・PENTAX・・・645D!PENTAX645D!PENTAX645D!

CCDセンサーの中判デジタルカメラにして、昨今のカメラにはない異形の怪物。
ミラーレスカメラ全盛の今こそフォーカルプレーンシャッターという衒い。
そして、1480gという圧倒的な大艦巨砲主義!!!
そしてそしてとにかく安い!
20万円ほどで並品が手に入り、極めつけはレンズが格安だ。マニュアルのレンズであれば、小学生のお年玉でもお釣りが来る。
CCD、そして中判デジタル、さらにLEICAを買うと思えば格安!

この天啓を呼び寄せたのは、まさしくアレック・ソスである。
私が最も敬愛する写真家の一人アレック・ソス。
スティーブン・ショア等のアメリカの写真家の系譜を見事に引き継いだ現代最高の写真家であるといえる。
アレック・ソスの代表作である「SLEEPING BY THE MISSISSIPPI」は、私と同じように彼の故郷であるアメリカの田舎を撮り歩いたものだ。
アメリカの何もないド田舎で、アメリカらしさを8×10で撮る。ただそれだけだが、スティーブン・ショアのような計算され尽くした構図に、ストーリーを感じさせる人や物や建物を中央に入れる。
日本の山陰を根城にしている私にとって、何も言い訳させてくれない存在だ。

今思えば、アレック・ソスの新作「A Pound of Pictures」を手に入れたときからカメラ欲しい熱が湧いたように思う。
道具のせいにするのはいつもの悪い癖だが、大判フィルムで撮られたあの美しい粒子間のある滑らかな階調の色が気になったのだ。
それがCCD礼賛に繋がり、巡り巡って最適なカメラを選択した。
結論のカメラに辿り着いたその瞬間に原初体験を思い出す。
この神の啓示の如く光り輝くアハ体験に、幾千のカメラ小僧の屍が累々と重なり合いワイワイ楽しんでいるのだ。

645Dは無駄にでかい。そして高画質、しかもCCDの温かみのある色。
まさしくアレック・ソスやスティーブン・ショアの写真表現に近い。
御大は8×10のバカでかいカメラを車に投げ込み、アメリカ中を回ってここぞというポイントでしっかりとカメラをセッティングして「その時」を撮った。
デカくて重いカメラだから得ることができる視点もあると思うのだ。
世界はすべて関係性で成り立っているという量子力学の話と写真の関連性について以前書いたが、この関係性に作用するのは何も写真という結果だけでなく、そこに至るまでの行程全てに因果関係はある。
デカくて重いカメラだから撮れる写真は確かに存在するのだ。

そして絞り込んだ大判フィルムは空気まで写し込んでいるように見える。
単なる高画質であれば、最新のミラーレスカメラでも十分、いやiPhoneでもA4プリントくらい十分だろう。
先程の関係性と同じく、中判センサーのカメラを使っているという意識は確かに影響するだろう。
中判センサー論争の間違っているところは、スペック表には載らない影響を全く無視しているところだ。
「おれ、中判デジタルカメラで景色撮ってるんだぜ!」
この無根拠な自信こそ、写真に現れてくる。まあ、私はそういう人種だ。

温かみのある色としてのCCD礼賛は都市伝説らしいということはすぐに調べがついた。
あれはデジタル黎明期における尖ったカラー設定であり、当時の技術的な悲喜こもごもであり、現代の進化したCMOSセンサーと比較するのはまた次元の違う話。
しかし、CCDの色合いはやはり何かが「ある」と思う人も多いのではないか?
そこの数値化できない人間の希望的観測のようなものが「ある」と思って撮る写真は、やはり違った世界の視点となるに違いない。

要するにである。
PENTAX 645Dは、今まさに私が欲している新たな世界との関係性への道を提示してくれるカメラであり、今の私にこそ必要なカメラであると判断したわけだ。
もちろんこれで使ってみて違うなと思うこともあるだろうし、全く思い通りの結果を生まないこともあるだろう。
しかし、コストパフォマンスと結果論でしか世界を見れないことに対する機会損失こそが恐ろしいのだ。
僕が道具に頼ることは、世界と自己との関係性に一石を投じることでもある。
果たして、この新たな視点は何を映し出すのであろうか?


長々と書きましたが、要するに言い訳です。
だってさ、愛読書の「反逆の神話」に出てくるボードリヤール的な反消費的消費っぽいし、壊れたらどうするんだとか、こんなでかいもの邪魔だろうとか、結局LEICA欲しくなるってとか悪魔の囁きは絶えず鳴り響いておりました。
でも最近は軽量なカメラばかりだったので、ここぞという一枚を腰を据えて撮るという行為も久しぶりにしたくなっちゃったのもある。
フィルムカメラは正直売るしかないかな。もはやあのランニングコストを見ないふりして騙し騙し撮っていても楽しめない価格帯になってしまった。
まあ兎にも角にも写真は辞められない。
写真はなぜもこう私を惹きつけるのか?
余裕でドラフト候補になれるくらい飽き性な僕が、写真だけは全く途切れることなく続けている。
しかもこれといって撮りたいものはない。
写真を撮るという行為が好きなのであろう。
これは社会への挑発であり、世界との原初的な対峙なのだ。
だからこそ、明確な撮りたいものはない。
例えば絶景とか珍しい野鳥とかポートレート、これは本文にも書いたが答えがすでにある状態でそこにどう近づけるかが本題だ。
そうなると、技術と時間が全てを決定する。ある程度の技術とそれを補助する機能的なカメラ、そして潤沢な時間があればかなり目標に近づくことができる。
だがこれは答えがあるからこそ制約があり、故に最短距離の道が見えてしまう。そうなると私は興ざめしてしまう。
求めるものは偶然性、それこそが世界との原初的な対峙。
そうなるとカメラやレンズがたくさん必要だ。
なんせ最低限の制約以外何もない。
故に無限に近い試行錯誤が可能であり、これは確信犯的に答えを遠ざけているとも言える。
要するに、カメラやレンズが与えてくれる無限に近い視点が世界を変えてくれるという感覚に没入しているのである。
よって私は懲りずにカメラを買うのだ。
言い訳の言い訳というメタ構造にて今回の長い長い言い訳を一旦閉める。
PENTAX 645D、楽しみだ。


今回のようなまとまりのない話を書いています。

この記事が参加している募集

カメラのたのしみ方

サポートいただきましたら、すべてフィルム購入と現像代に使わせていただきます。POTRA高いよね・・・