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重いカメラで森と海を撮る

ミラーレス全盛時代に大艦巨砲主義なPENTAX 645Dを携えて森と海を撮る。

重いカメラじゃないと撮れない写真とは、カメラが重いので撮影意欲が体力の減衰と共に低下していき、本当に撮りたいと思えるもの、超主観的な世界観だけを掠め撮られたものを云う。


だって重い、2kg近い禍々しい塊を担いで歩ける限界範囲というのは、加齢と日頃の行いがこれでもかと炙り出される。
故に、今回の撮影範囲は、森は車で、海は半径300m程度の範囲での写真となっている。
しかしである。
昨今のネットの海に溢れる写真たちは、有象無象から抜け出すためにあらゆる手の混んだ営みが行われているが、重いカメラで撮られたアクセスの容易な景観の出来事となれば・・・そうです!映えない。

iPhoneとPhotoshopでカリカリHDR化された現代人の写真を眺める視神経の先端は、そんな古き善き高画質なだけの見慣れた景色=アメリカン・ニューカラー的写真など「・・・で?」となるだけである。


そこになにもないけれど、そこを鮮明に意識的に眺めることにより、見慣れた世界は新たな世界への入口となるのである。
スティーブン・ショアからアレック・ソスに至るアメリカの写真家が大好物な僕にとっての憧れの写真は、もちろんSNSでは見向きもされない。
だがね、そんな自己満足写真をより自己満足させてくれるのも重いカメラなのだよ。
まさにニュータイプ的マゾヒスティックな精神活動。
重いカメラを担いで、貴重な休みに多大な身体的精神的労苦に喘ぎながら純粋自己満足な写真を撮る。
この破滅的なコスパの悪い表現活動こそ、満足を強要される現代社会に対する挑戦であり、そして量子物理学的な次元での無駄な行為なのである。


「この道を行けばどうなるものか。 危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。 踏み出せばその一足がみちとなり、その一足が道となる。 迷わず行けよ、行けばわかるさ」
我らが燃える闘魂の格闘王が放ったこの言葉こそ、我々写真道に人生を賭ける者たちへの愛のテーマである。
写真という王道は、もはや総合格闘技、何でもありの自由な空間となった。
故にカメラはスマホに取って代わられ、RAW現像される情報データになってしまったのだ。
広すぎる自由とは不安そのものでもある。迷える子羊が迷えるがゆえになんとなく集団となって走り出す。その先にあるものは崖かもしれないのだ。
だからこそ、我々カメラ求道者は古き善きカメラを買い漁り、そして古き善き写真道を元に写真を撮り続け、その先にある新たな表現を求めているのである。
数々の写真家たちを飲み込んでいったこのドグマこそ、古き善きカメラの値段が跳ね上がっていく原因でもある。
物価高に円安、フィルムの高騰、そして流れ出す日本のカメラ遺産たち・・・
ああ、カメラ欲しい〜


サポートいただきましたら、すべてフィルム購入と現像代に使わせていただきます。POTRA高いよね・・・