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SIGMA fpを買って3年経ったのでレビュー「いつも傍らには君がいる」

SIGMA fpを迎えて3年目の今年、それでもfpへの愛は深まるばかり。
というか、黒澤明でいう橋本忍、深作欣二でいう菅原文太、天山広吉でいう小島聡のような関係になったと思う。
fpのコンセプトが「あなた色に染めて」であるという確信に至ったのはつい最近であり、昭和の演歌の謳う悲哀の先にある真実の愛、これぞfpなのである。
冬の日本海、遠い想い人を慕う明け方のスナックのママの涙、これぞfpなのである。
fpは拡張性を初めから売りにしている。日本企業のいちばん苦手な製品だ。
iPhoneが生まれず、分厚い説明書と各社マチマチなアプリやソフトをもりもり載せ、挙げ句の売り文句は楽天のページのような広告のごった煮。
この多様なようで閉鎖的な製品こそ大量生産大量消費のためのモノであり、品質管理に重点を置いた「メイド・イン・ジャパン」であった。
だが時代はiPhoneを求めているのだ。
大量消費社会が極まり、個人主義が極地に達したあと、残されるのは「わかりやすい無」であり、そこに過剰なスペックや不要な機能の押し売りはノイズでしかない。
何度も書いているが、fpの削ぎ落とされたコンセプトは、カメラ界のiPhoneだと思っているのはこの点である。
なんせ素人には何がなんだかわからないがデザインだけやたら良質なカメラである。
拡張性を自分色に染め上げるプロフェッショナルな使い方もできる上で、3Dプリンターを駆使してオリジナルな魔改造までできる。
それでいてシンプルなデザインを楽しみながら、シンプルなカメラとして使うというApple的な意味での禅的使用価値もあるのである。
こういったモノの価値の多重構造性を、カメラといういわば一昔前に完成されている趣味性の高い商品で表現したことがfpの革新性である。
故に「あなた色に染めて」ができる、そしてそれは持ち主の個性が自ずと体現してしまうことであり、ある意味fpからの欲求に答えることで自分の写真に対する無意識下の欲動を「捉える」ことができるのである。


かくいう僕のfpの使い方は、オールドレンズ母艦であり、あとは動画撮影。
旅先や散歩道でライカのオールドレンズ遊びができるミニマムなカメラというイメージだ。
旅を愛するものとして、持ち物はとにかく少なく軽いことに越したことはない。
かといってせっかくの旅をオートフォーカスでパシャパシャ撮り歩くだけならスマホで良い。
旅という新鮮な世界との対峙において、マニュアルフォーカスで撮影行為に無理やり集中する。
これぞ旅におけるカメラの意味なのだと個人的に思っている。
fpはその点、すべてが可能だ。ミニマムな取り回し、マニュアルフォーカスでのピント合わせはわかりやすいし、カラーモードが充実しているので撮影の瞬間に全てを規定できる。気が向けば動画も撮れる。


そんなこんなのfpとの逢瀬であったが、ついにライカを手にしたのである。
正直なところ、ライカが欲しいけど、う〜ん、と悩みながらfpを手にした輩は少なくないのではないか?
かくいう僕もその一人。ライカが欲しい。けど高い。でもライカレンズは使ってみたい。デジカメはどうせセンサー詰めの箱なんだから、その分の軍資金をライカレンズに回せば・・・なんて考えているとたどり着くのがfpだったりする。
ライカという傍若無人な価格設定のカメラに最も近い国産カメラはfpである。レンジファインダーでもなければ、ライカに比べれば当たり前だが作りはチープ。だけれども、そのミニマムな哲学はほぼ共有されている。
しかもfpであればライカレンズでムービーも撮れてしまう。
ああ、どんな世界なのだろう。

fpはライカへ至る道に忽然と現れるカメラなのである。
しかし、僕はライカを買ったのだ。
fpに飽きたからか?やっぱりホンモノを求めているのか?
否、fpはライカではなく、ライカはfpの上位機種でもない。
fpから引き出された写真に対する悲喜こもごも、それが昇華した軌跡の至る道にライカがあったのだ。
fpにより写真に対する真剣度は増して行く。それは写真展に出すとか、そういった類ではない。写真とはなにか?の意味への憧憬である。
おかげで写真集や写真関連の本を貪り読み、色々な手法で写真を撮りまくった。それをできるのがfpでもあるからだ。
fpの拡張性とデザインコンセプトは、写真という概念を脱構築し、雲散霧消された写真の破片を辿っていく旅路へと向かわせる。
モノやブランドの消費でがなく、技術的・機会的なカメラと世界の対峙への挑戦、それがfpにもたらされる宿命のようなものだ。
拡張性故に、開かれた存在であるが故に、写真という与えられた概念を破壊し、かつ自分なりに再獲得せざるを得なくなる衝動、これぞfpなのである。
そもそもfpを手にしてから、フィルムカメラからCCDセンサー中判デジカメ、そしてモノクローム専用のライカMまで手にしている。


ということで、ライカMを手にしてからはそちらがメイン機となった・・・かと思いきや、メイン機は常にfpである。
今手元にあるカメラたちはfp以外はすべて何かしらに特化した異形のカメラ、PENTAX 645D、SIGMA dp2 merrill、Leica M Monochrome、RICOH GR、そしてフィルムカメラたち・・・
万能選手は唯一fpであり、fpを軸にその他のカメラを携えるというパターンに落ち着いた。
fpは時に記録用カメラであり、動画専用であり、メイン機であり、スナップ機にもなる。
fpの拡張性は、異形のカメラたちを柔らかく包み込む。
足るを知ることのない写真への憧憬にこそ、fpは必要なのだ。

つい先日も、紅葉を撮りに645Dとfpを持っていった。
風景写真に過剰適応した645Dの隙間を埋めるのがfpである。
用途に特化したメイン機とそれを埋めるサブ機という関係性に見えるが、fpの包括的な用途の集合は余裕を生むことができる。
荷物を少なくと言った割にはカメラ二台持ち、であるならば最新ミラーレスカメラを買えば一台で事足りると思われるだろう。
それは違うのである。
カメラは二台必要なのだ。なんでもできるカメラは、ただ「うまく」撮るだけで良いなら最適だ。
しかしこちとら世界との対峙の決定的瞬間に快楽を求めている。
それにはより尖ったカメラが必要であり、そしてその隙間をうまく埋めてくれる多様な余裕も欲しいのである。
尖ったカメラはその研ぎ澄まされた用途により、世界と普段とは違う視点で対峙せざるを得なくなる。
そしてそんな尖ったカメラを振りかざす瞬間は非常に少ない。そのくせ撮影に対しても過剰なストレスを要する。
dp2=Foveonなんて「ただ撮る」が如何に難しいことやら。
その隙間、例えば今回の紅葉狩りでは記録とスナップとカラーモード遊びを、便利なSIGMAレンズでお願いする。645Dという拷問に耐えながら撮影を続けるにはライトな遊びカメラは必要不可欠だ。
ライカMと共に持ち歩くときはライカのオールドレンズを付け替えて撮ってみたり、Foveon縛りのときは動画に徹してみたり。
この痒いところに手が届く「遊びカメラ」のような使い方こそ、fpの真価を発揮できる。

初めに語ったfpの昭和演歌的「あなた色に染めて」とは、まさしくこの使い勝手の良すぎるfpとの関係である。
尖ったカメラに目移りしつつ、その隙間の細やかな世話焼きをさせられるfp。
とんだ遊び人のくせに、帰ってくるのはいつもお前のところなのさ〜♪なんて言われて店じまいをするスナックのママこそfpなのだ。
ただ便利なだけではない。余裕のある拡張性とソリッドなデザインから発する「写真」とはなにか?の絶え間ない問い、それに反応する欲動、そのすべてを暖かく包み込むのがfpであり、カメラやレンズホイホイとして業界に寄与する優等生でもある。
3年目の浮気くらい大目に見てくれるカメラ、それがfp。
そして噛みしめるほど答えのない写真の楽しさを教えてくれるカメラ、それがfpなのである。

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