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きっと誰かの

土曜の朝。図書館に行き、そこから歯医者に向かう途中で、立ち寄りたいところがあった。

不用品を自宅ガレージに並べて、「ご自由にどうぞ」してる、あのお宅。

これまでも、お洒落な食器や、未使用タオルなどをもらった。

ボタニカル柄のサラダボウルは、さっそく、うちのサラダ生活を美味しく彩っているし、お皿もしょっちゅう使っている。

未使用タオルは、ちょっとしたお礼や、近所の工事あいさつなどでもらう、薄い袋入りのアレだ。袋を開けると、タイムスリップしたような柄のタオルが入っている。広告入りとか、ゆるい消防キャラが何かを啓発するやつとか。楽しい。いちおう新品だし。

そこの「ご自由にどうぞ」が始まったのは、2か月くらい前だったろうか。

一般の家のガレージなので、ちょっと覗くのにちゅうちょする。けれど、プリント絵とか本とかいろんな家財道具があって、そそられる。最初にもらったのは何だったっけ? 食器だと思うけど、ごめん、忘れた。そのくらい、暮らしになじんでいる。

こういうのって、一度の断捨離で終わる、一過性のものかと思っていたが、そのお宅がおもしろいのは、継続して、新しい不用品を出していらっしゃる点だ。確かに、誰かの家財道具を処分するのは、一度の整理では終わらないだろう。食器がある程度出た、と思っていても、また別の日に、目新しいものが並んでいる。そんなときは、駅へ向かう忙しい朝でも、さっと選ばせてもらったりした。ここのファンからすると、新しいものが断続的に投入されて、それは、100均などに新商品が次々に出るような楽しさと、似ている。

手離すことを優先しているのであろう。ホコリっぽいものも多い。でも、けっこう大丈夫。わてらには酸素系漂白剤という強い味方がいる。食器の場合は、台所洗剤で洗って、ぬるま湯+オキシで漬けこんで、食洗機にかけて熱湯洗浄すれば、気持ちよく使える。未使用タオルもそう。

食器や、さまざまなものに、元の所有者の趣味を感じる。ああ、いいものが好きだったんだな、絵も本も、いろいろと興味があったんだな。この食器は、自分の趣味と合うな。大切に使わせてもらおう、と思う。

今朝立ち寄ったら、めぼしいものはなかった。
ちょうど、そこのお宅の女性がいらっしゃった。60才代くらいかな。

「もうほとんど、ガラクタみたいなものなんですけど」とおっしゃる。

すごいな、と思うのは、そうしたガラクタのようなものでも、ゴミに直行せず、いったん並べていらっしゃるところだ。もしかしたら、誰かがもらうかもしれない、そしたら、何かの役に立つし、ゴミに出さなくてすむ、並べるのはタダだし、というくらいの、おおらかさが感じられる。

もし自分だったら、持ってった人からクレームがきたら嫌だな、返品はご遠慮くださいとか貼りだすかな、なんて想像する。しないんだけど。あと、ご近所の人から感謝されたり詮索されたり、なんか言われたりするのも、私だったらめんどうに思うだろう。敷地にちょこっと入って来られるのも嫌。

そういう気持ちがあったから、こないだ、そこんちの男性(60代くらい?)に会ったときは、「以前お皿をいただきました…」くらいでとどめた。そして後で、ちょっと後悔した。お礼と感想を伝えるべきだったと。

だから、今朝、おばさんに会ったときに言ってみた。

「以前、お皿をいただきました、ありがとうございました。さっそく気に入って使わせていただいております」

おばさんは

「そうですか、また、何か出すと思うので、よかったらどうぞ」

と笑顔でおっしゃった。やはり、おおらかな方だ。
こういうやりとりを、しちめんどくさい、と思わないんだ。
それよりも、ものを、誰か、もらってくれる人に、持ってってもらおう。
そこで活用してもらえれば、ものにとってもいいし、ゴミにならないし、と思っていらっしゃるのだろう。

おそらく、そのご夫婦の、ご両親が亡くなられて、のこされたものを処分していらっしゃるのではないか、と思う。

でも、そうした背景を、詮索はしない。聞けば語ってくれそうだけど、聞かない。ものに、余計なストーリーがついてしまう、というのもある。先方さまも、余計なコミュニケーションはごめんどうだろう。こういうのはちょっとドライに、ぼんやりと、「きっと誰かの食卓を、幸せにしてたんだろうな」と想像するくらいで、いい。

夫に、その家の話をした。夫は、人の使い古しは抵抗があるから持ってくるな、という。ものといっしょに何かがついてくる、という。あなたが今、美味しく食べている、そのサラダボウルが、それだよ、と思う。

そこんちのご夫婦で、感心するのは、おじさんも、おばさんも、両方で、このガレージの「ご自由にどうぞ」をやっていらっしゃるところだ。品出しをし、片付けをしている様子を見かける。夫婦でも、意見が合わないのは当たり前だ。一方が、ガレージで出そうとしても、一方がいろいろめんどうだから業者で処理する、という人もいるだろうし、身内のものであれば、思い出もあって、なかなかふんぎりがつかない、という人も多いだろう。

うちも、もう食器棚に入らないのに、好きなので、じわじわ、じわじわと、マグカップ、大皿、小皿が増える。メルカリが流行り出した頃に、意を決して売ったり捨てたりした。そして、メルカリで、もっといっぱい買ったような気がする。ひとんちにしまわれていた食器が、今は、うちでたくさん、私に愛されている。

いずれ、料理もしなくなり、自分らもいなくなったときに、これらの食器たちはどうなるのかな。自分では、捨てられないな。徐々に、終活していかなきゃいけないな。しかし夫は、ものを捨てない派だぞ。

そう、戸建ての家で、夫婦二人の間でも、当然に考え方が違う。家のこととか、家財のこととか、一致しないのが普通である。なのにすごいなと思うのが、分譲マンションだ。マンションって集合住宅だから、所有者たちの合意で、その建物の運命共同体として、管理したり、修繕したり、建て替えたりしていくものだ。しかし、世帯のなかですら意見は一致しないのに、マンションの全所有者の意見が、一致することなんて、はなから、あり得ない。持ち主も変わるし、相続放棄される区分もあるだろうし、ローンが終わっても管理費とか修繕積立金とか払い続けなくちゃいけないし、払えなくなることもあるだろうし、建て替えたい人もいれば、必要ない人もいるだろう、物価はあがり、マンション管理は請け負う会社もなくなり、所有者不在でスラム化が進み、マンションという制度自体が幻想の上にしか成り立たない。空中の、妄想の一角を、みんなよく買うなぁ、と思う。