見出し画像

忘れたくないお客さま

その男性は、お客さんなのに、購入後、深ーいお辞儀をして、帰っていかれた。
棚と棚の間で、丁寧に身をかがめるその姿を、忘れずにいたいと思った。

女の人とふたり、様々なタスクのひとつであろう買い物をするため、あれこれ比較検討しながら、悩んでおられた。

お客さんの中には、接客して5分で買う方もいる。

そのふたりは、みっちり1時間、悩まれた。悩むのは当然である。これからの暮らしを想定して、いろんな視点から考えた方がいい。失敗のないように。なるべく快適なように。

ふたりはそれぞれ優先するポイントがあり、それをふたりのこととして考えている。もの静かで、地に足がついてて、思いやりのある、ふたりの前向きなバイブスに、寄り添いたいと思った。

本音は、買って欲しかった。
じゃないと、今日のわたしはボウズだった。
販売ゼロはいやだなぁ、と思っていた。でもしかたない、そんな日もある。

クロージングに導くような言葉も言う。女の人とたわいない話もする。新たな糸口が見つかったりする。また考える。

いろいろ試していただきながら、あれ?と思ったこと。男性が、販売員に対して、とても丁寧なのだ。ものを渡すと「恐れいります」。いや、販売員に恐れ入りますは、ちょっと驚くね、逆だよね。あんまり言う人いないよね。仕事のくせなんだろうな、そんなに恐縮しなくていいのにな、お客さんなのに。

そのお客さんの丁寧な態度は、1時間の接客中も変わらず、クレッシェンドで丁寧になった。寡黙だけど、ポツンとした会話のなかで、あ、価格だけでなく、ふだんの暮らしでどう使うか、見えるか、といった視点でも考えていらっしゃるんだな、とわかった。

ようやくのご購入後、女の人が、懸案の買い物が済んでホッとしたと言うと、男の人は微笑んだ。普通はさっと帰るものだが、この方は、荷物を手に下げ、最大級のお辞儀をして帰られた。ただの販売員のわたしに。

お礼を言うのは、こっちの方だよ。
知らないでしょ、わたしが「ボウズ(販売ゼロ)は嫌だ」と思ってたなんて。
ボウズだって、だれに怒られるわけでもないけど。
あなたと彼女さんのおかげで、販売1って報告できるんだよ。わたしの今日一日が、報われるんだよ。

シフトの時間は大きく過ぎていた。片付けながら、初めて閉店BGMの蛍の光を聞いた。しみじみ、いいときだった。

かの人の「恐れ入ります」と、深々としたお辞儀のピークエンドが、数日たった今も心に残っている。

ジェーン・スーがポッドキャストで話していた。ご自分の仕事で、ちょっと新しいことをやってみた理由のひとつとして「10年同じ仕事してると傲慢になるよね」と。
その言葉が、ちょうど新しいことを取り込もうとしていた自分とリンクした。

新しい仕事に何を求めているのか。もちろん収入増はある。それだけでなく、かつての杵ヅカを今の自分も使えるのか、知ってるつもりでもはや概念になりかけていた人心というものを、リアルに辻問答することで自分のなかでブラッシュアップさせたいのか。今を生きる人々ってどんな感じか、そうした人とのコミュニケーションで得られるものを、自分の中に貯金したいのだ。銀行口座とは別に。

本業に活かす、という目的もある。人を知る自分であることで、この先もより良いアウトプットをしていける。それだけでなく、本質的に人心に興味があるはずの自分を、やっぱそうだよな、と思い起こさせている。

それは、パッとやって、パッとわかることでもない。時間をかけるほうがいいし、それによって偶発的な要素も広がる。

そんな中で出会った、蛍の光の人。
ちゃんと、忘れないように、この夏の記録にとどめつつ、
さぁ、お盆連休の売り場へ向かう。

はっ、眉かいてくるの忘れた。
眉なしで、今日の成果はいかに?