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天才青年団 岩倉使節団が築いた   日本のインフラ

今回の記事は岩倉使節団について記述したいと思います。
歴史の教科書ではそこまで詳細に語られないため名前しか知らない人が多いと思います。実は明治維新後の日本をヨーロッパ先進国と肩を並べるまで成長させた、いわば「天才青年団集団」だということを伝えたいと思います。

まず、岩倉使節団の目的ですが以下の三点が主な目的だったといわれています。

1.条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出する
2.江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)のための予備交渉
3.西洋文明の調査

1.2についてはご存知の方もいると思いますが、私がここで一番すごいともうのが3の西洋文化の調査です。
西洋文化の調査と一言で書かれていますがこの調査範囲がものすごいです。

各分野の法制度、税制、予算制度、産業(各種工場等)、金融、インフラ(鉄道、港湾、道路、上下水道、電力、ガス、公園、通信)、都市・地域計画、建築、医療、教育(幼稚園から大学、盲学校等)、文化(博物館、美術館、動物園等)

などなどざっと記述しましたが,かなりの範囲を調査されています。期間は明治維新(1868年)後、1871年11月~1873年9月と2年に満たない期間で調査をしていました。メンバーは107人。政府高官、欧米大学への留学生が含まれています。メンバーはこの時代に英語が堪能、海外留学の超エリートが選抜されています。さてこのエリートたちのなかで最年少はどなたかご存知ですか?

最年少は津田梅子 当時6歳

津田梅子

6歳で岩倉使節団に!!!????
津田梅子さんは大学卒業後津田塾を設立します。
津田梅子さん天才すぎます。どのような形で使節団に貢献したかはわかりませんが当時はあまりお金もなく、メンバーに選ばれることはかなり優秀じゃないと選ばれないなかで、6歳で選抜される津田梅子さんの天才さがわかると思います。いまでいうと小学校1年生ぐらいでしょうか、さすが5千円札に選ばれる方だけはあります。

使節団の派遣先ですが米国、欧州12か国、アジア5か国にいきました
米国ではインフラを学びました。鉄道、港湾、道路、橋梁、河川、運河、などなど、産業は、農業、鉱業、繊維、造船、建設、市場、を学び、教育は盲学校、特別支援学校、女学校、女子大学、士官学校などなど、また政府機関として国会、各省庁、造幣局、消防所、病院、博物館、刑務所、灯台、上下水道、を調査し、新聞社、協会、電話局、ガス会社、博覧会、各種工場を調査したとあります。
ベルギーにも調査でいっていました、そこで政府、民間の在り方を学びパリでは工場を見学しています。

さて、戻ってきた岩倉使節団ですが土木・建築関係に絞って記述していきますとさっそく鉄道を建設します。
ご存知の方もいるとは思いますが、最初の鉄道は横浜桜木町になります。
1872年 最初の鉄道 東京・横浜間(新橋・桜木町間)が開通します。ここでは「お雇い外国人」といって一流の外国人技術者を雇って建設されました。
明治政府はお雇い外国人に一人に月給300~400円(現在価値 1500万円/月)を払っていました。年収1.8億円です。だいたい現代だと一流企業の社長の役員報酬ぐらいですかね。このときにどれくらいのお雇い外国人がいたかというと総人数で2690人です。1.8億円×2690人=4842億円が明治政府から支払われました。これは人件費だけです。
先日「年収1億円超の上場企業役員ランキング」がニュースで流れましたがそのランキングは500位までです。この5倍以上の人数に対して明治政府は人件費として支払っていたと思うと、日本の何としても復興してやるという気持ちが伝わってきます。当時の明治政府は新政府樹立のためほかに多くの支出がありました。それどころではないぐらいの状態にもかかわらずこれだけの投資をしていたと考えるとびっくりさせられます。

1872年に最初の鉄道が開通しましたが、この後すぐ1878年~1880年第二の鉄道が建設されます、第二の鉄道は大阪・大津間逢坂山トンネルです。実はこのトンネル。。。

日本人だけで建設されています!!

岩倉使節団から帰ってきた日本の土木技術者が建設に成功します。この日本人大学生、大学卒業後すぐ建設にはいったというのだから驚きです。いまの大卒がすぐトンネル工事に着工して完成させられるかというと100%無理だと思いますが当時はそれをやってのけたんですね。ものすごいです。

岩倉使節団の功績

岩倉使節団から帰ってきた青年団はまず大学を設立しました。
1.Law college 2.Medical college 3.Engineering collegeこれら3つの大学はのちの東京帝国大学(東京大学)として統合されますが、別々に運営されていました(4.Agriculture collegeは現在の北海道大学)。
各大学はどの国を手本とすべきか、教授をどの国から招くべきかを選別しました。法体系、医学はドイツから、土木工学は主としてイギリス、フランスからただし河川工学はオランダから、教育はオランダから鉄道は東海道はイギリス、山手線はドイツ、北海道はアメリカ、九州はドイツなど
これらどの国を基準とすべきかというのを当時の20~30代の青年たちが決めたというのはすごすぎます。

ちなみに、東京帝国大学(東京大学)工科大学初代学長は古市公威が務めました、当時32歳です。若すぎ・・・

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