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遊ぼう。

子どもたちの多い教育現場や習い事が行われている場面で、たびたび目にする光景として、教育者や指導者と言われる側の立場の人が強制的に子どもたちに何かをさせること。

例えば、学校であればその時間に行うことを決められた勉強。国語・算数・理科・社会・英語など主要だと言われている教科以外にもたくさんの勉強を子どもたちは課されている。
例えば、少年団やスポーツクラブでの指導者が用意した練習。パスやドリブル、シュートにポゼッション…など、そのスポーツをやるうえで必要なスキルを身に付けることを目指し、そんな練習が行われる。

教養やスキルを身に付けるために必要なことは、やはり多くの人が反復するようにカリキュラムが組まれていて、それを行うことで一定の水準にまでは成長することができる。非常に重要なことで、組織として考えたときの全体的な最適化を目指すことであれば、無くてはならないことだと思う。

ただ、”これだけ”でよいのだろうか?と僕は常々感じている。

あらゆる場面で「これをやりなさい」ということを大人に提示され、組織にいるのだから気が乗らなくても「やらなければならない」状況になる。
その子がある一定の水準まで成長するために必要なことだから、指導者側の人間はその子の心が向いていないとしても、「その子のためだから」と心をある種の鬼にしてきちんと「やらせる」ことが求められる。

ここだけ切り取ってしまえば「誰も幸せじゃないじゃん」と感じてしまう。
※恣意的にここだけ切り取っているのは本当に良くないことですね。。。笑

一般教養や普遍的な知識として、学校の勉強や習い事でスキルを身に付けることは非常に大切なこと。そのどれかが必ずその子どもの将来に良くも悪くも影響を与えるのだから。

だけど、それだけでは子どもたちの心が死んでいく。子どもたちの生まれ持った”その子の良さ”、つまり個性が死んでしまう。僕はそう感じている。

”守破離”という言葉があるように、まねたことや吸収したことをいったん自分に落とし込んで、それらをデザインして、最終的に自分なりのかたちにすることは非常に大切なことであると思う。

ただ、5年や10年、長ければ20年をかけて守破離の”守”の段階を忠実に求められるばかりの社会で生き続けたら、個性もなにもあったものじゃなくなってしまう。その子の良さというものが、いつの間に周囲に同化し、埋没してしまう。最初から、その子自身の固有の性質を伸ばすことができれば、世界はおもしろい人で溢れ、より幸せな人が増えるんじゃないだろうか。と考えている。もちろん、悪い意味で育ってしまう人が0出ない保証はできないので、そのあたりの倫理観の教育等は別で必要になるだろうが。

僕は、そんなことを願って、狙って、求めて、今の自分の活動を行なっている。運動遊びというツールを用いて、子どもたちがのびのびと自分らしくいられる環境を、”学ぶ”ということを意識せずとも勝手に学びが身につく環境を生み出したい。そんな”学びの無意識化”が実現できれば、より幸せな人が、幸せな子どもが世界に溢れるのではないだろうか。

今日もそんな世界を創るために、子どもたちと一緒に全力で遊んできます。

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