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慰安婦 戦記1000冊の証言20 マカッサル

小川部隊

 インドネシア・セレベス島のマカッサル。もちろん、ここにも慰安所があった。
 海軍報道班員として従軍した作家の戸川幸夫も出入りしたようだ。

 慰安所とは「一口に言うならば、昔の遊廓のような組織、――それを現代化したものと思えばいい。そこは一面では軍人軍属たちの社交場でもあった。
 料亭も芸者もなく(戦争後半にはマカッサルにも出来たそうだが)、バーもクラブも存在しなかった当時は、われわれが酒を飲みながら大いに語るという場所は慰安所しかなかった」

 中国大陸の陸軍慰安所とは大違いのようだが……。

「また慰安所に働く妓たちは単なる売春婦ではなく、軍属という資格で日本から送り出されていた。彼女らは全員が国防婦人会の会員であって、いざとなれば戦闘に参加し、従軍看護婦の手助けをすることなども義務づけられていた」(1)

「国防婦人会の会員」については、中国戦線の第37師団軍医の証言がある。
「(昭和15年5月)19日、大隊はそれぞれの駐屯地に帰隊した。大隊本部のある河津では、城外の広場に県知事以下の中国の役人、一般住民、そして『国防婦人会』の襷をかけた着物姿の婦人たちが、手に手に日の丸を振って盛大に出迎えていた。
 こんな僻地に国防婦人会とは……と、私は目を疑ったが、聞けば慰安婦とのことだった」(2)

 セレベス島の東となりのボルネオ島でも、国防婦人会が登場する。
 昭和19年7月からボルネオ・ゼッセルトン勤務の軍医の証言。
「セッセルトン国防婦人会の慰問があった。襷をかけた若い婦人達は軍医が(日本から到着早々)病気で寝ていると聞いて、私の寝ている部屋まで入って来て慰問の辞を述べ、特に私に熱いコーヒーをご馳走してくれた。
 日本の南、はるかなボルネオで、男ばかりの殺風景な軍隊にパッと花が咲いたように甘い香りがただよった」
「ゼッセルトンにこんなに沢山の日本人居留民がいるとは知らなかった」
「古参の衛生兵が『軍医殿、お気に召した娘がおりましたか。あいつらは主婦達ではなく、ゴム林の向こうの家のP達ですよ』と教えてくれた。
 大村、長崎、天草等からはるか南の国へ遠征している大和撫子で、勇敢なる娘子軍であった。商売繁盛を願って、大切なお客さんを歓迎するため、また顔見せのために来たのである」(3)

 戸川の証言に戻ろう。
「彼女らの前身は日本国内で芸妓や赤線などで働いていた者がほとんどだったが、中には自ら志願して、あるいは説得されて来た者もあり、その中にはかなり処女なども混じっていたのである。
 したがって彼女らの気ぐらいは高かった。金さえ出せば誰にでも身をまかせるというのではなく、嫌な客は妓のほうから拒否した」(1)

 拒否できるって、すごい話だが……。
 戸川の滞在時、マカッサルに5ヵ所の慰安所があった。第一慰安所は准士官以上、第二慰安所は下士官・兵、第三慰安所は文官の判任官(下士官・兵に相当)、第四は高等官(士官に相当)、第五が船員、設営隊などの軍属専用であった。
 戸川は第三慰安所利用者だった。下士官・兵専用の第二慰安所とは建物のようすも利用形態も違っていたのではないか。第二慰安所の慰安婦も、気位高く、客を拒否できたのだろうか。

 戸川と同じころ、マカッサルの慰安所で働いていた日本人女性の証言がある。
「杉野屋という娼館(みせ)だった」「この娼館は一般人用と軍属用で、将校用はまた別のところにあったわね」「ぺエペエの兵隊はまた別のところでしたよ」
「このマカッサルでね、驚いちゃったねえ! (前に働いていた)サイパンでわたしの彼氏だった麻雀仲間のBのおやじに偶然会っちゃった。
 Bのおやじは、20人もの妓(沖縄出身者という)を連れて、兵隊用の慰安所をやっていた」(4)

 海軍の病院船朝日丸は、昭和17年9月、マカッサルに入港する。
「女子3名が収容された。従軍タイピスト、慰安婦2名で、いずれも肺結核患者である。出港の時、多くの友人が見送りにきていた」(5)
 慰安所開設してどれほどだろうか。

日本軍隊の恥部

 昭和18年、海軍に召集され、ジャワ島派遣の途中、マカッサルに滞在した救護(日赤)看護婦はこんな体験をした。

「マカッサルという所で1か月待機することになりました。ところが、私はこの地で、先に記した戦場での負傷者よりもっとひどいものを見ることになりました。
 それは日本軍隊の恥部ともいわれている従軍慰安婦の実態でした。性病に冒され、局部が形がなくなるほどむごくくずれた彼女達は、『決していわないでくれ』といいながら、少しずつその生き地獄のさまを話してくれたものです。
 戦争のために送られた兵隊達もそこが戦場となっていなければ、休日もある。休みといっても行く所もすることもなければ、勢い、男達は慰安所に列をなす。
 慰安婦の数は少なくはなかったが、兵隊の数はあまりにも多く、時間を区切って用を済まさせたが、1日に数えきれないほどの人数を受け入れなければならず、それはもう生きた心地はない……と。
 それまで話に聞いたことはありましたが、現実にそういう所に身をさらさなければならない女性と接するにつけ、その中には朝鮮の女性もたくさんおりましたし、
 私は『ああ、日本人って、日本軍隊ってこういうものだったのか』と同じ日本人の女性として、言葉に表すこともできない憤りに苦しんだものでした」(6)

豪華な料亭も

 慰安所が「恥部」ならば、戦地で開業する料亭は何と呼べばいいのだろう。戸川の話のとおり、「戦争後半にはマカッサルにも出来た」のである、豪華な料亭が。

  海軍は、占領したセレベス島・ボルネオ島などを統治するため、南西方面艦隊民政府(後に南西方面海軍民政府)をセレベス島のマカッサルに設置した。
 東大教授の東龍太郎が「司政長官に懇望され、衛生行政を任されることになりました」。
 東の思い出を語る知人の話だが、その東らを遇する目的もあったのだろうか、
「海軍は第一線の上級士官や民政府の高官のために資材を内地より運び、数寄屋風の建物を建築して数寄屋寮と名付けました。
 使用人のサービス人、調理人等は、海軍要員として小川隊(仮名)と名づけられ、東京より派遣されましたが、中にはお国のためと葭町などにいた芸者さんの美人も加わっていました」(7)

 この小川隊の一員に、東京の園芸家で、とりわけアサガオの専門家がいた。
 昭和18年の春、セレベスで海軍指定海運業を営む友人から、手紙が来る。

「『こんどセレベスの首都マカッサルに、海軍の出費で、前線の人々を慰安するため料亭が開設されることとなった。その経営の任にあたる隊長、小川氏は自分が海軍に推挙した人である。
 由来南洋は蔬菜に乏しいところである」「当地にきて高冷地で蔬菜作りをしてはもらえまいか、南洋でのアサガオ作りもまた一興と思う。
 近く私の紹介状を持ってその小川氏が貴園を訪うはずだから、その節は色良い返事をして欲しい』といったものであった」
「その後ある日お相撲さんのように太った中年の大女が、束ね髪に当時としては珍しい洋服姿で、友人の名刺を持って園に見えた。それが小川氏だった」
「小川氏はもしお受けいただけるなら海軍の軍用機でお供する。助手を4、5名お世話のうえ同行して欲しい。給与はこれこれと当時の日本では思いもよらぬ高給が支給されるというし、かねて決意していたので、その場で受諾の返答をしてしまったのである。
 女史の話では現地で新たに料亭と酒蔵の新築のため、大工20名と、高冷地で日本酒の醸造を試みるため酒造関係の人々20名ばかり、農園関係は私の外に5人、酒間を取り持つ若い女性5、6名、都合50余名は別に船でいくということであった」(8)

 戦時中にかかわらず、酒蔵・農園つきの料亭というから、驚きだ。

 昭和20年6月、セレベス島に司令部を設けた陸軍第2軍の参謀は、小川隊のことを次のように書いている。

「マカッサルには小川部隊という特殊部隊があった」「海軍直属の独立部隊同様であった」
「小川さんは海軍省の援助で、このマカッサルにはるばる出かけ、自給自足の総合的料理屋を経営したもので、酒造、漁撈、野菜栽培の専門家はもとより、舞踊、小唄の師匠まで揃えて、すべていっさいを自前でまかなえるだけの陣容をととのえている、特殊の存在だったからであろう。
 小川さんは新橋のさる料亭のお嬢さんで、若い美空でありながら、危険を意とせず、第一線へと乗り出し、あんな大世帯を切りまわし、第一線部隊の慰安活動を展開した」(9)

 中年か若い女性か、話は食い違うようだが、昭和19年4月、海軍第23特別根拠地隊管内第101防空隊の予備少尉が、マカッサルでの「小川隊体験」を書いている。

「司令部に行き、士官室で夕食を食べた」「食後、短期現役として大学から海軍に入った主計大尉が『今から前線の事情を教育するからついてこい』と小川隊に行く。
 小川隊とは行ってびっくり、料亭であり、芸者もいる。部屋は純日本式で、入って席につくと、
『まだ芸者のこぬうちに言うが、22日にニューギニア、ホーランジャに敵が上陸を開始し、零戦が空襲で大分焼かれた。君たち対空砲台指揮官はこれからが大変だぞ。今夜は君たちのために席をとった。大いに飲んで楽しくやろう。着任したらガンバレ』。
 その時、芸者、仲居が酒肴を持って入り、三味線も入り飲めや歌えの大騒ぎとなった。2200水交社に帰り、邪魔なダッチワイフをどけ大の字に寝る」(10)

「第一線で働いた軍人が疲れをいやし、また民政府の交歓の場などに利用し功績も多々あったと思います」(7)
 小川隊は大いに評価された。もちろん、下士官・兵は利用できるはずもない。

《引用資料》1,戸川幸夫「戦場への紙碑」オール出版・1984年。2,江頭義信「日本一歩いた「冬」兵団ー第37師団・一軍医の大陸転戦記」葦書房・1993年。3,田中保「泣き虫軍医物語」毎日新聞社・1980年。4,玉井紀子「日の丸を腰に巻いて・鉄火娼婦高梨タカ一代記」現代史出版会・1984年。5,小田武康著『桜と錨―看護兵曹物語』私家版・1982年。6,創価学会婦人平和委員会「シリーズ平和への願いをこめて・2」第三文明社・1981年。7,鈴木俊一他「唯従自然・東龍太郎紙碑」私家版・1985年。8,尾崎哲之助「朝顔抄・花とともに60年」誠文堂新光社・1971年。9,今日の話題社「太平洋ドキュメンタリー第23巻」今日の話題社・1969年。10,国分俊一「南海の青春」私家版・1985年。
(2021年10月4日更新)


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