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慰安婦 戦記1000冊の証言30 特別女子挺身隊

「沖縄が陥落したのが(昭和20年)6月21日だから、すぐそのあとの6月下旬の閣議でね、おもしろい話が出たんだ」
「アメリカ兵が上がってきたら、必ず女性との間に問題が起こる。大和民族の純潔を守るために、なんとか対策を講じなければいかんじゃないかという話なんだ」
「(女子の)集団疎開という案は、いろいろ研究したけれどもできないなということでもって、ぐずぐずしていたんです。
 7月はじめになっても、なかなかいい案が立たないということで、女子も自分で防衛してもらう以外、手がないということになったんですよ。
 そしたら誰だったか忘れましたけど、安全カミソリの刃を女性全員に配布しようと。安全カミソリの刃は何枚あるか調べろということで、女は3、4千万人、カミソリの刃は1千万枚あったろうか」
「とても勘定に合わんと。なぜ安全カミソリの刃を配給するかというと、みんな女に、それを紙入れの中にもたせておいて、いよいよアメリカがやってきたら、それでちょん切らせようというわけなんだ」(1)

 ジャーナリスト大森実の「直撃インタビュー」に答える、敗戦時の鈴木内閣書記官長・迫水久常。カミソリで米兵に肉薄しようという戦法か。
 青森・大湊の海軍大湊見張所の所長も、仰天した話があったと証言。

 昭和20年、「7月の暑い一日、本土決号作戦説明会があり、大本営の参謀が来て、『部下の水兵の中から女装に向く、眉目秀麗な者を探しておけ』と言われた。
 米軍上陸後、夜間、敵陣に忍ばせ、日本武尊の現代版をやらせるのだと聞かされて、唖然とした」(2)

 カミソリも女装も、降伏前の「本土決戦」段階の話で、降伏すれば、話は本筋で進む。
 作家松本清張は、二度目の召集で、敗戦時、朝鮮・全羅北道の井邑に駐屯していた。
 敗戦直後「京城からアメリカの将校が乗り込んできて、日本軍の兵器一切の引取りを完了するという話が伝わった」
「そんなある日、将校たちは日本人会長と会い、アメリカ将校団への奉仕のことで打ち合わせをしていた。彼らは、日本人の女性を差し出さなければなるまいと話していた。
 その場合、娘さんは困るから、一般の奥さんで適当な人を考えてほしいと会長に要望していた」
「高級将校には、日本軍の将校がかつて中国大陸に赴いたとき、同じ待遇を要求したことが頭にあったようである」(3)

 占領地で、地元の治安維持会などに対し、「女を出せ」は当たり前のことだった。今度は、ソ連兵への「人身御供」のように、逆の話になるわけだ。
 もちろん、日本内地でも、「日本女性防衛策」が練られた。鹿児島・鹿屋で「特殊料飲店」を考え出した県警察部長は、降伏時、警視総監だった。

「二度目の警視総監を命じられたのは東久邇内閣のときで、終戦の2日後ー昭和20年の8月17日」「私はさっそく署長会議を開いて占領軍対策を検討した」
「問題の中心は日本の女性をどうしたら占領軍から無事に守れるかということである」
「流れる水はせきとめて、そこへ落とさなければ、やっこさんらなにをするかわからない」
「進駐軍から日本の婦人を守る“防波堤”をつくった」(4)

 この“防波堤”が「特殊慰安施設協会」(略称R・A・A)だ。同協会情報課長の証言。
「警視総監の発案で防犯部長が業者に呼びかけをしました。わたくしもですね、戦争中報道班員で満州とか南方を見て、それで、日本軍が進駐した時にしたことを見聞きしているものですから、ある程度意義ある仕事じゃないかと思いまして」
「ダンスホール、キャバレー以外にも、いわゆるゴルフ場だとか。構想としては膨大なものだったですけどね」
「主目的はそこ(慰安所)にあったわけです」
「(女性集めは)当初はですね、吉原の娼妓組合の組合長が、自分の従来手がけた女の子を集めました。焼けてしまって、地方へ帰ってしまったのを呼び集めました」
「お国の為だとかいって、30数名集めましてね。しかし、多勢の進駐軍相手でございますから、とても足りない。そこで銀座街頭に大きな立看板出しまして、一般女性も募ったわけでございます」
「『ダンサー及び女子事務員を求む』および『日本の新女性を求む』というキャッチフレーズを作りまして」
「正式にはですね。特別女子挺身隊員」「挺身隊員ですね。戦争中の意気ごみと同じ気分だったのです」(5)

 何しろ、占領軍用慰安所の設置は素早かったようだ。東京・銀座の老舗洋服店会長の証言。
 敗戦直後、「私たち銀座人が嫌悪し、苦しかったことは、駐留軍慰安施設の提供でした。場所は、2丁目の伊東屋、8丁目の千疋屋など7か所が接収され、使用されたのです。やってのけたのは、なんと、日本政府。開店は、終戦後2週間とたたない8月28日。政府の最も早い“仕事”が、慰安婦を提供することだったとは、悲しすぎるような気さえしました」(6)

 R・A・Aの管理下にあったのかどうか。徳川夢声が東京・中野の花柳界のようすを同地の小母さんから聞き取っている。昭和20年9月のこと。
「夕方の5時になると、A兵の行列が物凄くエンエンと出来上がる。スン(即ちチョンの間)が55円、泊りが240円の定価。
 妓一人で毎夜平均8人位を引受ける。大抵はうんざりしてしまう。中には1時間で5人片づける妓もあり。
 ピストル騒ぎが三度ほどあり、以来憲兵が出張、夜10時を過ぐるや、各待合を点検し、残留の兵あらば、追い返す。
 追い返したる後、憲兵もまた金を払いて、寝て行くもあり。3人の憲兵で、順々に一人の妓で済ませ帰る事もあり」
「始めは、皆、降るアメリカに袖は濡らさじの気分なりしも、警察署長三度に亘る訓示ありて、いずれも思い直し、女子特攻隊の意気にて事に当れるよし」(7)

 ジャーナリスト大森実は、降伏当時住んでいた神戸の模様を証言する。
「住んでいた上甲子園駅の寮の真向かいに、たった一軒、焼け残りの料亭があったが、この料亭も進駐軍将校専用の高級慰安所に指定されていた。
 指定が下ると、この料亭には、一夜にしてベッドが運び込まれ、料亭内部はぺたぺたペンキで塗装された。水洗便所の突貫架設工事が行われた。
 夜を徹しての改装工事が終わると、神戸花隈検番の芸者が、ぞろりと集団導入された」(8)

 横浜・本牧の「チャブ屋」(売春もある宿屋)の女性経営者の証言。昭和21年ごろ。
「米軍の駐留地となった周囲では、あちこちの娘さんや奥さんといった若い女性達が、米兵に連れ去られた上に乱暴をされ、大変な被害をうけていたのです」
「そうした被害が目に余るものだったためか、山手警察からチャブ屋をやったことのある人が召集されました。
 私も出向いて行って言われたことは『このまま放置しておいたのでは、米兵による一般婦女子の被害はふえる一方であるから、そうした被害から一般婦女子を守る為にも、皆さんにチャブ屋を再開してもらいたい』というものでした」
「やむなく、主人が友達と2人で材木をかき集めて、3畳くらいの部屋が10ほどあるバラックを建て、夜具を置いてシーツをかけるという急ごしらえのチャブ屋をつくりました」
「チャブ屋といっても結局は売春宿のようになってしまい、米兵の欲望を、ほんとうに機械的に処理するだけの場所になり果ててしまいました」
「私の店には8、9人の女の子がいました。彼女達の多くは戦前から水商売をやっていた人達でしたが、中には戦後の貧しさから泣く泣くこの世界に身を落としてきた人もいたのです。
 それは近在の漁師の娘さん達や、戦争で男手を奪われたために、生活の術を失ってしまい、それでも家族を養っていかなければならない為に、しかたなく働きはじめた人達でした。
 その頃の本牧の基地は独身兵の居住地だったので、チャブ屋は相当ににぎわったものでした。
 軍から避妊具をもらった白人兵で、私の店から山手警察のところまで長蛇の列ができるほどで、人数にして150名余りの兵隊達が並びました。
 一人の女の子が1日に10人から15人、多い時は20人もの米兵を相手にするのです。米兵も部屋を出てゆく時は靴をはく時間すらなく、靴を手にぶらさげたまま外へ出てゆくというありさまでした」(9)

 日本軍の慰安所風景を彷彿させるではないか。
 慰安婦たちは、「進駐軍に暴行されてヤケになったという女性もいたにはいたが、そんな連中でも、“自分の犠牲によって、ほかの人がいくらかでも救われるのなら”といっていましたからねエ……』」
「だから彼女たちは、R・A・A発足の際、警視庁が特に名付けてくれた『特別挺身部隊員』という名称を愛していたし、その通りだと思い込んでいた。
(R・A・A傘下の)業者たちも、『毎日の訓示には“お国のため、日本の貞操の防波堤”であることを強調した』」
「実際のところは、政府と業者たちは『進駐軍慰安婦』とズバリそのものの名で呼んでいた」(10)

 作家の高見順は、戦時中、ビルマ、中国で、陸軍報道班員として行動したが、敗戦後、昭和20年11月14日、東京・銀座のR・A・A施設「オアシス・オブ・ギンザ」を見て、こんな感想を述べている。

「世界に一体こういう例があるだろうか。占領軍のために被占領地の人間が、自らいちはやく婦女子を集めて、淫売屋を作るというような例がーー。支那ではなかった。南方でもなかった。
 懐柔策が巧みとされている支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、淫売婦にし、占領軍の日本兵のために、人肉市場を設けるというようなことはしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。
 日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。
 日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと『慰安所』の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。
 戦争は終わった。しかし、やはり『愛国』の名の下に、婦女子を駆り立てて、進駐兵御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして、戦線へ連れ出し、淫売を強いた、その残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている」(11)

 昭和21年3月、R・A・Aは廃止されたが、最盛時には7万人の慰安婦を抱えていたという。

《引用資料》1,大森実「戦後秘史2・天皇と原子爆弾」講談社文庫・1981年。2,海軍電測学校卒業生の会「栄光の海軍電測士官」私家版・1980年。3,松本清張「松本清張全集34」文芸春秋・1974年。4,日本経済新聞社「私の履歴書・第18集」日本経済新聞社・1963年。5,東京12チャンネル社会教養部「新篇私の昭和史4・世相を追って」学芸書林・1974年。6,渡辺実「銀座・壹番館物語―老舗テイラーがつづる、もう一つの昭和史」主婦の友社・1990年。7,徳川夢声「夢声戦争日記(7)」中公文庫・1977年。8,大森実「戦後秘史4・赤旗とGHQ」講談社文庫・1981年。9,創価学会婦人平和委員会「シリーズ平和への願いをこめて6・基地の街(神奈川)編 サヨナラ・ベースの街」第三文明社・1982年。10、小林大治郎・村瀬明「新版・みんなは知らない国家売春命令」雄山閣・2008年。11、高見順「敗戦日記」中公文庫・2005年。

(2021年12月26日更新)





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