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慰安婦 戦記1000冊の証言23 人身御供

暴れるソ連軍

 昭和20年8月、日ソ平和条約を一方的に破り、ソ連軍が満州になだれ込む。彼等も女性を求めて暴れまくった。そのとき、人身御供にされた慰安婦もいた。各地の証言をまとめてみよう。

 満州・ハルビン近郊の方正。満州開拓団で入植した男性の証言。
 敗戦後収容された方正収容所の治安は日ごとに悪化、ソ連兵らによる人さらい、略奪、強姦が横行した。日本人女性の被害は相当数に達した。
「難民本部は彼らの悪行に苦肉の策を考えた。収容所の一棟を改良し、過去において経験のある慰安婦をそこに集めたのだ」
「避難民の女性の中にも『収入が得られるんだったら、死ぬよりもましだ』と言って、家族を救うため、この道に身を落とす人もいた」
「屋外で順番待ちをしている彼らが『まだか、まだ終わらんのか』と大声でしきりと催促しているのが、俺達不寝番には聞こえてきた」
 敗戦前の慰安所風景の再現だ。
「あまりのしつこさに耐えきれず、部屋から助けを求めた女性もいた。寒い夜、しかも素足で泣きながら外に飛び出し、俺達に助けを求めた女性もいた」(1)

婦女子の奉仕を

 満州・通化からの引揚げ女性の証言。
 通化市にソ連軍駐屯司令部が置かれ、「しばらくしてから日本人会に対し、男子の使役と共に“婦女子の奉仕”を申し渡してきた」
「当時、偶然にも元慰安婦だった人たちが、通化で足止めを食っていた。その人たちが犠牲になってくれたのである。
 私たちは、犠牲になってくれる人のために大切にしていた訪問着や晴着を感謝しながらできるだけ提供した。ある日、駐屯司令部前を通りかかった時、着物姿の元慰安婦の方々の姿が見えた」(2)

 慰安婦とは明記していないが、娼婦・芸者も人身御供とされる。

 満州・吉林の龍潭にある満州電気化学工業の理事で敗戦を迎え、吉林日本人会の役員だった男性の証言。
「ソ連軍が龍潭地区に進駐した目的は、工場警備のためであった」「財物はまあ目をつぶるとしても、婦女子の純潔は何とかしてこれを死守せねばならぬ」
「そこで密哈站から、この社宅街に逃げ込んだ玄人筋に納得してもらい、警備犬訓練所跡の空屋を利用して、キャバレーと自称する怪しき店を開いた」
「玄人といっても、やはり日本人である。焼酎をあふった一人に『わたしの気持ちがわかる』と反問されたのを、今に忘れることが出来ない」
「果然キャバレー政策は図に当たった。吉林市内がかなりの犠牲を出しているというに、龍潭の一般婦女子は被害もなく、最後まで身を全うし得た」(3)

女子特攻隊編成

 満州・錦州の満州国陸軍軍医学校卒業生の証言。
「錦州市におけるソ連兵の日本婦人に対する暴行は入市と同時に始まり、貞操を犯され、夫の前、子供の前で暴行を加えて憚らなかった。
 このため、日本人居留民会は在留婦人の中から三業関係の犠牲的志願者を募り、『女子特攻隊』を編成し、国兵会館を利用して『七海』と称し、ソ軍慰安所を開設した。彼女たちの犠牲によって婦女子の恐怖は一応減少し、感謝された」(4)

 満州・安東の昭和通商社員の証言。
 慰安婦をどのようにして集めたのか不明だが、ここにもソ連軍用慰安所が設置された。
「10月に入ると、それまで安東に駐留していた国府軍が奉天方面へ後退し、入れ替わるようにしてソ連軍と中共軍が入り、彼らの軍政下に置かれるようになった」
「わたしたちの住んでいた松月は中共八路軍に接収された。わたしたちは止むなく、近くのイロハ楼に引き移った。ここは元女郎屋、三階建ての木造家屋だが、かなりいたみの激しい建物だった」
「イロハ楼の隣には日本人会が特設したソ連兵用の慰安所があり、昼間から無粋なソ連兵が出入りしていた」(5)

 満州・態岳場から引揚げた女性の証言。
「ソ連兵対策には悩み通しでした。男性が5、6人で相談の結果、大連の遊廓から女性を数人連れて来て、ソ連兵を呼びパーティーを開きました。
 大連から来た若い女性をソ連の将校と軍曹にパートナーとしてつけ、今後は仲良くするように握手させました。将校のパートナーとなった女性は独立した住居をあたえられ、略奪品と思われる豪華な毛皮などをプレゼントされました」(6)

身代わり芸者

 大連といえば、見るに見かねて身代わりになった芸者もいる。佐世保の引揚者婦人健康相談所の問診日記の一節。
「3月9日(昭和22年)」「3月7日上陸の遠州丸Gさん(27歳)は、17歳で渡満しハイラルで芸者となって働いておりました。そして現地で軍人と結婚しましたが、夫が海南島で戦死したため、7月13日新京に出てきました。
 敗戦をきき毎日日本へ船が出ている大連に大急ぎでやってきました。その時泊まった大連のホテルには新京から女学生が20人ばかり避難してきておりました。ちょうどGさんはその隣室におりました。
 ソ連軍が進駐して来て、隣室にやってきて16歳の女学生をソ連の司令の所へ連れて行きまして、あやうく凌辱を受ける所でした。Gさんは見るにみかねて、その部屋に飛び込み身代りとなりました」(7)

 満州・奉天では、昭和20年8月19日、ソ連軍先遣隊、翌20日、本隊が進駐する。
「当初(奉天の)居留民会が最も苦心したのは、ソ連軍将兵の暴行に対する予防措置であった。まず柳町、十間房界隈の三業・遊廓組合長と相談し、補助金を出して店を再開、娘子軍を侍らした。
 しかしそれでも需要に応じきれず、中国側の平康里(遊廓)の建物を借り受け、商売女のほか避難民からも希望者を募り、市民から衣裳の供出を受け、店舗をふやした」(8)

 敗戦時、満州の遼陽造兵廠に勤務していた技術将校の証言もある。
「(遼陽)造兵廠は、軍人軍属の家族のほかに、南満の各都市から派遣されてきた学徒勤労奉仕隊の女子生徒や、日本からはるばる徴募されてきた女子挺身隊の独身の娘たちも抱えていた」
「都市で(ソ連軍の)兵隊たちがほしいままにその野望を遂げているのを聞き知ると、造兵廠の(ソ連軍の)兵隊たちも女を求めて動き始めた」
「私たちは、やむなく“特攻隊戦法”をとらざるをえなかった。それは特定の婦人を犠牲として敵にささげる戦法であった」
「中尉が、遼陽市から芸妓の経歴のある日本婦人を一人探し出してきて、ソ連の守備隊長と一軒の宿舎に同棲させた。思わぬ贈物によろこんでいる隊長に、交換条件を出した。
 兵隊たちのためにも特設の慰安所をつくるから、一般の婦女子を凌辱することは絶対に取締ってほしいと申し入れた。隊長は確約した。
 隊長の専属となった婦人はよい人で、隊長をうまく内部で操縦して、私たちのために蔭でよく尽くしてくれた。しかしこれも長くは続かなかった。
 2週間もたたないうちに、局部の裂傷のため入院して治療を受けなければならなくなった。日本婦人の接待の味を覚えた隊長は、さっそく代りの婦人を要求してきた」(9)

国府軍から女の要求

 吉林市郊外龍潭のソ連兵の要求については前述したが、吉林市内にもソ連兵があらわれ、その後、共産軍に引き継がれ、共産軍の撤退にかわって、国府軍が登場する。
 昭和21年に入ってからのことだろうが、当時、吉林日本人会の文化部長の証言。

「進駐して来た国府軍が慰安婦を出せと言ってきた。それも素人のお嬢さんを出せというので、これには弱ってしまった」
「吉林神社の闇市に店を出している飲み屋を回って、それとなくかつてのそうした女性たちに事情を話し、日本人のために犠牲になってくださいと口説いて、何とか彼らの要求を満たした。
 次に、吉林の国府軍司令官が同じ要求をしてきた。これにも困ったが、窮すれば通ずるで、自ら進んで、私が行きましょうといってくれた婦人があった。
 それは吉林でも一流の芸者さんで、日本舞踊の名手」
「その後も時々その人と連絡を取っていたが、それからの消息は聞かなくなった」(10)

 奉天では、昭和21年3月、国府軍が進駐し、5月から引揚列車の運行を開始する。
「引揚げ途中、国府軍から女の要求があるので、(引揚集団)一個大隊(約1000人)に商売女5人くらいを付けた。彼女らは居留民会民として登録し、持帰金の限度千円のほか生活費一切面倒を見ることとし、一般婦人の身代りとしてサービスに出てもらった」(8)

《引用資料》1,熊谷秋穂「大陸流転ー敗戦そして抑留8年」私家版・2005年。2,朝日新聞社「女たちの太平洋戦争」朝日文庫・1996年。3,渡辺諒「大いなる流れー満洲終戦実記」私家版・1956年。4,白楊会「満州国陸軍軍医学校」私家版・1979年。5,山本常雄「阿片と大砲」PⅯC出版・1985年。6,浅見淑子他「凍土からの聲ー外地引揚者の実体験記」私家版・1976年。7,上坪隆「水子の譜ー引揚孤児と犯された女たちの記録」現代史出版会・1979年。8,福田實「満洲奉天日本人史」謙光社・1976年。9、辻薦「月は光を放たず―満洲敗戦記」北洋社・1978年。10,村松道彌「おんぶまんだら」芸術現代社・1979年。

(2021年11月12日更新)




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