見出し画像

慰安婦 戦記1000冊の証言24 女の要求

女郎屋の主人

「国府軍から女の要求」には、俳優の森繁久弥。敗戦時、満州の新京放送局に勤務していたが、引揚途中の錦州引揚者収容所に入り、「渉外班」を引き受ける。
「さしあたっては、錦州からコロ島までの鉄道を指揮する、蒋介石軍のごきげんをとり結ぶことです」
「まず、(収容所の人たちで)演芸班を組織しました」「簡単な練習をして、馬車2、3台を仕立てて、ぼくが駅近くにあった中国軍部隊へ連れていって慰問演劇をやるんです」
「終ると、将校連中の酒席に呼ばれて酌をして行けという段取りになる。演芸班の中には女の子もいますからね、あの女がいいって兵隊がいい出すんですよ。これには困っちゃうんですよ。
 そのとき出て来てぼくたちを助けてくれたのが特志婦人でしたよ。引き揚げを円滑にやろうと思えば、どうしてもだれか人身御供に出さねばならぬ。これは何もここばかりじゃない、ずうっとここまで引き揚げてくる道中にも、同じようなことがしばしばあったわけです」
「だから、辺境からやってくる引き揚げ団の団長は、かならず2、3人の特志婦人を手もとに確保していたものです。
 ぼくは汽車がはいってくると、団長のところへ行って、ひそかに特志婦人の有無を聞いて、もしあれば、いやかならず何人かいたけれど、その人たちを預かって帰りました。
 そして所長室の隣の10畳ぐらいの一番いい部屋にいれて、衣類から食事から全部、ぼくは自分でお世話しましたよ。
 あなた方は団から離れて団とはいっしょに帰れないが、しかしつぎの船には、きっとぼくが責任をもってお乗せしますから、とお願いしたものです。
ぼくはただひとりの渉外班員、といってもなんのことはない、悲しいかな、興行係兼女郎屋の主人となり果てたわけです」
「それらの人々は、かつてその道のくろうとであった人は少なく、大方は頼みとする夫や子どもを失った奥さんで、中には国境近くにいた日本軍将校の未亡人もおられた」
「ぼくは慰問隊を連れて行くとき、馬車のうしろにかならずおめかししたこの人たちをしのばせて行きました」
「ぼくの劇団が相手のごきげんをとったあと『あの女』と目をつけられたら、そこでさっとすりかえちまうんです。
 こうして、演劇隊の女の子たちを無傷で収容所へ連れて帰ったあと、ぼくは深夜再びとって返して、町かどにひとり馬車をとめて特志婦人の帰りを待つんです」
「特志婦人は、同じ人にそう何度もお願いしたわけじゃないんですよ。少したつと、『もうあなたはお疲れになったでしょうから、これで結構です。どうぞつぎの船でお帰りください』とお帰ししたが、すると、その代わりが、また引き揚げ団といっしょにはいってくるわけで、まあ、いつも7、8人はおりました」
「特志婦人たちのおかげで、ぼくの顔も中国軍の中に売れて来て、ひとつお願い、と頼みに行くと、翌朝にはだあーっと汽車を出してくれる」(1)

 ソ連軍に引き続き、国府軍にも「人身御供」が必要だったのである。
 敗戦時、広東総領事だった米垣の証言がある。米垣は、現地の日本軍司令官、参謀長とともに、終戦処理業務を担当する。
 交渉相手の新一軍(国府軍)のある幹部が、米垣に、こう非公式に要求したそうだ。
「日本が勝っていた時代には、占領した町や村で、女性の提供を強要した。われわれは涙をのんで、それに応じた。このような悲劇は敗者の常であるからだ。いま、日本は敗者であり、われわれは勝者である。日本側はわが軍のために、女子青年団を提供すべきである」(2)

 そう言われると、「勝者日本」、こんな要求をしたものだ。従軍記者の証言。
 昭和13年5月ごろ、日本軍、中国・江蘇省のある村を占領。
「村の有力者たちによって治安維持会がつくられると、(日本軍の)隊長から、さっそく『姑娘はいないか』という申し入れが行われた。
 治安維持会の代表者たちは、『この町には商売女はいない。しかし素人娘でもよければ、近在の村々から探してくる』とこたえた。
 日本側は『素人で結構、至急よびあつめてくれ』といい、数日後、十数名の姑娘が治安維持会の手で集められ、日本軍のために慰安所を開設した」(3)

「敗者日本」の広東の米垣は憤然として拒否するが、それから間もなく、米垣は戦犯容疑で逮捕され、広東で2年、上海で2年、さらに日本帰国後、巣鴨で1年余り服役することになった。

満州開拓団では

 ある満州開拓団では、もっぱら女性団員の中から、ソ連軍への人身御供を選び出したらしい。
「数え年14歳から21歳の乙女がA開拓団本部の裏によび出されたのは9月下旬だった。50代の副団長が低い声でいった。
『女子挺身隊としてソ連軍宿舎に行ってほしい』。20歳になったばかりの××さんは、挺身隊の意味がわからなかった。
 どんな仕事をするのかたずねると、しばらくして、『兵隊の慰安だ』と答え、『団を救うために挺身すべし』。あとは押しの一手という感じだ」
「結局19人の乙女が指名された」
「A開拓団から応召し、敗戦で帰って来た男たちが、『戦争に負けたら、女はやられるのが当たり前だ』と彼女にいった。
『おれたちも中支の戦場でいっぱいやったよ。朝鮮ピーも抱いた。朝鮮ピーは若くてよかったよ』。彼らは悪意やからかい口調でなく、当たり前の顔でいった」
「『ピー屋の朝鮮女や姑娘はお前より年下なのに、日に何十人も乗せていた』と男たちは軽くいったが、その人たちはどんなにつらかったことか」(4)

時には線香の一本も

 満州・北安省二龍山在満国民学校の校長で、ソ連軍により北安の収容所に収容され男性の証言。
「10月19日 今日の使役は、ソ連兵舎のくそのしまつだ。うず高く盛り上がった彼等のくそを、十字鍬でくだいて運ぶ。運んでいるとき、5人の日本人娼婦が、ソ連兵と一緒に通り過ぎた」
「彼女らは、厚い化粧をしていた。が、一人の娼婦のえり首におとろえた素肌を見て、けざむさを覚えた。
 異国に逃げ惑う日本女性の後に残って、追いかけてくるソ軍の魔手の犠牲になった話を数々聞いていた私は、彼女らの後姿に手をあわせておがんだ」「『あいつは黒河にいた女郎だよ』と、Ⅴ氏は自慢そうに話したが、この心ない言葉を、私は心から憎んだ」
 しばらくして、収容所生活から解放され、宿舎にいると、「Ⅴ氏が『先生、これ使いなさい』と、赤いロシアの百円軍票2枚をだす。
 わけをきくと、『さっき黒河にいた娼婦と偶然あいましてね。声をかけたら「無事に内地へ帰ったら、私を思い出して、時には線香の一本も立てておくれ」と言って、お金をくれたんですよ。先生や団員の方に厄介になりっぱなしで、お礼もできませんので……』という。
 この間の娼婦の顔を思い出そうとつとめる。生きて内地へ帰れまいという彼女等の悲しみが、この軍票にひそんでいるように思われて、胸がしめつけられる」
 翌朝、一輪車にトルポ(粟餅)を積んで売りにきた満人から全部買い上げて宿舎にいる人たちに分ける。
「『Ⅴがなじみから貰った金で買ったんだ。これを食べたら、何かの因縁と思って、10月25日には、彼女のために線香ぐらいたててやれよ』とおどけて話す。おどけて話さねば、涙がこぼれてくるような気がしたからだ」(5)

 このような苦しい状況でも、「人身御供」を出してはならないと、決死の抵抗をした人もいた。
「岡山医科大学学長のZには、娘を嫌いな軍人に嫁がせようとして、自殺されてしまった辛い経験があった」「Zはのちに、旧満州の佳木斯(チャムス)の病院長となった。
 降伏の直前にソ連軍が侵入してくると、Zは看護婦の提供を要求された。Zはソ連の将校たちの眼の前で服毒自殺して、大勢の娘たちを救った」(6)

 昭和20年9月、中国・海林での「人身御供」騒動を、日本赤十字従軍看護婦が証言する。
 満州の虎林陸軍病院から牡丹江野戦病院を経て、「昭和20年9月始めに、ハルピンから汽車で海林へ移され、救護活動を始めました。
 ここには大勢の日本人が収容されており、女は私達だけでした。ここで私達はもう一つの戦いがあることを思い知らされました。
 ある日本軍の部隊長が、私達に『貞操を捨てろ』と言うのです。『俺達は軍人の魂である軍刀を捨てた。あんた達には貞操を捨ててもらう。ソ連兵の元に行け』と。何という理屈でしょう。
 だが、負けてたまるかと、私達は、『我々は慰安婦として来たのではない。もし、どうしてもというのなら、あなたの奥さんから差し出しなさい』と。
 その将校には家族がありました。私達も必死だったからすごい見幕だったと思います。この話はこれでご破算。しかし、早速食糧の配分が減らされました」(7)

 満州同様、朝鮮北部でも、ソ連軍の「女の要求」は激しかった。高松宮が日記にこう書く。
「(昭和20年)9月28日」「北鮮 強姦〔南下の途上『ソ』聯兵に1日数回姦せらる。1人は妊娠、1人は罹病せる2人娘を伴い辛くも京城に着せる母あり〕。
 くぢ引で性交提供、日本内地人のみ強制。
『せつ元(原編者注・清津と元山か)』にて女すべて監禁、10人中すでに4人死、『平壌』女60人慰安婦として空輸、幼児死亡数十人」(8)

《引用資料》1,読売新聞社「昭和史の天皇・5」読売新聞社・1968年。2、林茂他「日本終戦史・中」読売新聞社・1965年。3、小俣行男「戦場と記者」冬樹社・1967年。4、林郁「新編大河流れゆく」筑摩書房・1993年。5、深田信四郎・深田信「二龍山」柏崎日報社・1970年。6、真継伸彦「男あり」筑摩書房・1983年。7、元日赤従軍看護婦の会「日本赤十字従軍看護婦」私家版・1985年。8、高松宮宣仁「高松宮日記・第八巻」中央公論社・1997年。

(2021年12月25日更新)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?