見出し画像

36歳初産|絶叫絶句の出産備忘録

2020年4月27日。出産予定日を7時間弱過ぎて、普通分娩で男児を出産した。
不妊治療期間1年を経ての妊娠。パフォーマンスやキックボクシングのプロ現役生活、仕事と、人生色んなステージを体験しているけど、そろそろ家族を作るステージに突入し、年齢的には高齢出産枠での出産であった。

結論から言うと、入院後5時間半、分娩室に入って10分。助産師さんのお墨付き超絶安産だった。

しかし、声を大にして言いたい。「安産ってなに?」

【安産(あんざん)】《名・ス自他》無事にお産をすること。
対義語:難産

いやいや、「無事」ではなかったと。母子ともに健康に出産を終えたことが、何よりもの安産だったのだが、それは本当に実感しているのだけれど。
お産は想像を遥かに超えた命がけの行為だったし、「安産」だけでは語れない体験だった。

間違いなく、出産は36年の自分史上最も過酷な体験。

だったのだけど、あんなに心に刻み込まれた恐怖体験だったのだけど、記憶というものはどんな体験でも平等に薄れていくようで。恐ろしいことに息子の顔をみていると、まだ一ヶ月も経っていないのに、弟妹もいてもいいのではなんぞ考え始めている。

長男の出産は今回だけのこと、同じお産は二度とないのだし、出産の壮絶さと奇跡の記憶を、自分向けの記録に残そうと思いnoteを書いている。

そしてもうひとつ。
出産後、私はスマホで出産体験記を検索して読み漁った。あの体験は本当に普通の出産?安産だったの?・・世の中の母親たちの声を聞きたい・・お疲れ様と、届かなくても言いたい・・
見ず知らずの戦友を密かに讃えたいような、同志を探すような、自分を労ってあげたいような。

そんなわけで、産前でも産後でも、誰かの体験記が役に立つことがある。私の出産記録も、いつか誰かの何かになるなら幸いだ。もちろん、百人いれば百通りの出産があるし、陣痛の痛みから出産経過も人それぞれ。出産の方法も家族の希望や状況に合わせて最適なものが選択されるわけだし、出産に優劣があるわけではない。
親になることが必ずしも当然で偉いわけだってない。

ただただ、私個人の出産までの記録と記憶を残すnoteです。

4月24日 これは前駆陣痛?おしるし?

出産間近の兆候で有名なものが、おしるしと前駆陣痛。
4月24日、生理の終わりかけのような出血の残像のような、おしるし様のものがあり。前週にあった妊婦検診の日も当日〜2日間ほど出血があって「おしるしキター!」と思ったのだが、それは内診の影響による出血でおしるしではなかった。

なので、4月24日のおしるしについては「またか?ふむ、なるほど」程度の感想。おしるし以外には、前駆陣痛とまではいかないようなお腹の張りが頻繁にあり「陣痛時計」という陣痛間隔を測るアプリを使いはじめる。

そもそも初めての出産なので、前駆陣痛とただの張りの違いもわからない。
張りにも痛みがあるものと無いものがあり、「痛いかも?・痛い気がする・痛たたたた」と痛みの大小に関わらず痛みに関連したものを記録しはじめる。そのためか、間隔は1時間近く空いたり8分間隔だったりとマチマチ。

前駆陣痛なら数時間〜1日くらいで出産に至る兆候のはずではあるのだが、まだ出る予感がしないのでいつも通りに家事や散歩をした。

4月25日 39週ラスト。お腹の張りはあるが平常運転

39週と6日目。翌日からは40週。
1日中、痛みをともなう張りが頻繁にあり。しかし、痛みの間隔は相変わらず不定期だった。前回の検診では子宮口1cmで「まだまだのようですね」と言われていたので、出産の実感も緊張感もまだまだ無かった。

ちなみに元プロキックボクサーのプライドも働いてか、妊娠期間を通して体重管理と運動を徹底的に意識していた。今までの体づくりと運動のおかげもあってか、妊娠期間を通して+5.5kgの増加に留まり、血圧や尿糖などの妊娠経過も優良ではあった。
日課にしたウォーキングは妊娠後期で週平均5km、出産直前週は平均3.9km。

この日も変わらず、お腹の張りの隙をみてウォーキングに行った。
ゼエゼエハアハア言いながらヨチヨチ歩く。完全に平常とは異なる衰弱を感じたが執念で動いた。家に帰ってからも日課のスクワット30回×3セット。

4月26日  出産予定日。ウォーキング最中も痛い

ついに出産予定日。
前日よりお腹の張りの痛みが強くなっていた。確実に出産に向けて進んでいるな、という予感はあったが、これが今日なのか来週なのかはたまた5月突入なのか。検診時に医師から言われていた「予定日をすぎると思います」の予言もあり、平常運転で過ごすことに決める。

流石に痛みが気になるので、散歩を短縮坂無しコースに変更。近所の緑道をお腹の痛みに立ち止まりながら完歩。今思えば、これが最後の散歩だったんだなあ。

ちなみに、お腹の張りがあるときや体調が思わしくないときに散歩はおすすめしない。途中で破水したら場所によってはすぐに病院に行けるかもわからないし、何があるかもわからない。
私のはただの執念ですから。

里帰りしなかったので毎日家事も行っていたが、この日は身体が重く痛みもあったため、ご飯を作るのが億劫になりランチはテイクアウト。近所の有名なトンカツにトライした。これも、最後の晩餐だったんだなあ。いろんな最後が感慨深い。

4月26日  17:00 迷いながら病院に電話

徐々に強くなっていく痛みは、「太めの千枚通しでツンツンツン、ツーーンとゆっくり押しつけられる」感じ。生理痛と似て非なる痛み。これは、結構痛いんじゃないか?と自覚し始めていた。が、我慢できる。どうしよう。おさまった。痛い。の繰り返しで日中をまんじりと過ごす。

陣痛時計ではかっていた痛みの間隔は5〜10分の間をいったりきたり。
痛みが6分間隔になったら病院に連絡する手筈だったので、少し迷ったが助産師直通ダイヤルに電話した。
痛みの状況や痛みの間隔などさまざまなことを問診され、結果、まだ前駆陣痛だろうとのことで自宅待機。割りに出産が進んでいると思っていたため、自宅待機となり少しがっかりした。
その後の、助産師さんの「喋れなくなるくらい痛くなったらもう一度電話してください。」の言葉に震えた。

4月26日  19:00 映画鑑賞で気をまぎらわす

電話したことで安心したのか、やや気持ちも落ち着いた。こういう効果もあるので、心配なことがあったら悩まずに早めに病院に電話するといいと思う。

痛みは相変わらず。間隔を測りながら、夕食を食べ、気晴らしに映画を観ることにした。スピルバーグ監督トム・ハンクス主演の「ターミナル」をamazonプライムで観賞。無思考で観れる2時間未満のハリウッド映画、最高。思えばこれも最後の観賞になったのだなあ。

観終わった頃には21時過ぎ。お腹の痛みも、もう知らないふりはできないくらい強くなっていた。
が、まだ我慢できる。まだ喋れる。
助産師さんの言葉を忠実に守り、電話しません、喋れるうちは。

もしかしたらお風呂も最後かもなあ、と思いながら湯船につかった。入浴途中も痛みはきていたので、風呂のフチをギュッと握り締めながら耐え、早々にあがる。その後、いつまで待てばいいのかもわからないので布団に入る。痛くて眠れる気はしなかった。

4月27日 0:39 これは間違いなく陣痛だ!と病院に電話

気づけば、目がしばたくような痛みがやってきていた。痛みの波は5分〜10分間隔でやってきて、座ったり横たわったりしていることができず、ベッドの横に立ち膝になり土下座風の格好をするポジションで痛みを耐えた。
しかし、その体制でもすぐに耐えられなくなってくる。
痛みの間は喋れないキターーーー!!
ということで、これは、もう、間違いなく陣痛でしょう。助産師直通ダイヤルに再度電話。
開口一番、名前も名乗らずに「喋れない痛みがきました・・」と訴えると、夕方の連絡時のダイヤル表示で先方もわかったのか、「それでは病院に来てください」と、すぐ話が通じてよかった。電話中に痛みがきたときは本当に喋れなくなっていたのでね。

4月27日 01:30 病院着→無事に入院

あらかじめ登録していた陣痛タクシーに夫が連絡。
タクシー到着を待つ間の10分が長く、まだ来ないの?とイライラ夫に八つ当たる。ようやくきたタクシーに乗るまでも、途中で立ち止まりながら。乗車中に痛みがきた時にはシートベルトを握り締めて耐え、病院についたのが午前1:30だった。

コロナ禍の影響で入院病棟に付き添い者立ち入り禁止のため、深夜外来入り口で夫と別れ、重い荷物を引きずって入院病棟にたどり着く。

この時点で、痛みの強さは家をでるときとそこまで変わらず(とはいえ激痛)、自分で歩くこともできた。しかし、確実に痛みの間隔が狭くなっている。恥骨の部分、下半身前側に激しい痛み。鋭利な鈍器で複数人から同じ箇所を一点集中同時責めされている感じ。
このやばい痛みはお産の兆候だろう、すぐ分娩室に入っちゃうかも、なんて勝手に思いながら。
病棟の陣痛室に到着後、すぐに助産師さんによる内診。子宮口3cmでめでたく入院になった。実は1週間前に破水を疑って、これまた助産師直通ダイヤルで病院にきているのだが、そのときは破水でもなく尿もれ、かつ子宮口も1cmで帰宅となっていた。そのため、今回も子宮口の開きによっては帰されるかもなあ、そしたらやだなあと思っていたので安心した。

助産師さんからは
「子宮口の開きが進むように、歩いたり階段登ったりするといいんだけど、まあ今は深夜だから休んで、明るくなってから動くといいですよ」
え、すぐ出産じゃないの?朝まで痛いの続いちゃうの?と、愕然とした。

ちなみに、陣痛タクシー(事前に電話番号や到着先などを登録しておき、連絡した後は余計な手間がかからずに病院に連れてってくれるサービス)は使わなくてもよかった。ドライバーの当たり外れだと思うけど、プラス数千円の料金を払う付加価値は特に感じられず。
破水しても安心の防水シートなどと謳われていたけど普通の車がきたし、救急の入り口は知らないし。救急の入り口を教えてくださいと言われたときは、「自分で調べろ!」と叫びそうになった。普通の配車アプリでよし。

4月27日 入院直後から約4時間。地獄をみた。**

入院決定後、お産着という前開きのワンピースパジャマのようなものに着替え、産褥パッド(特大ナプキン)に特大おむつを履かせられる。このときは、痛みの最中は身動きできないが、まだ通常の会話が可能だった。
そして、NST検査という赤ちゃんの心音を測るモニターを装着。この間も痛みは増しているので、されるがまま、なされるがまま。

病院の陣痛室はベッド3つが隣接し、カーテンで仕切られていた。分娩施設の見学時には、隣の人がいたら声や気配が聞こえるのはいやだなあと思ったものだけど、その日は幸いにも私1人だった。これ、ほんと幸い。結果的に大絶叫だったのでね。
思い返すと、痛みで隣のことなんて気にならなくなるものなのかもしれない。でも、やっぱり隣に人がいるとやだなあ。

NST検査が終わると、お産までまだまだとみた助産師さんはどこかへ。陣痛室のベッドに横たわり独りになる。

ここからがつらかった。本当につらかった。
断っておくが、私は人並み以上に痛みに耐性がある自負があった。過激を謳ったパフォーマンスでもキックでも、いろんな痛みを体験してきていたし、それなりにメンタルも鍛えられていた。心のどこかで、私は意外と大丈夫なんじゃないか?と思っていた。

そしていよいよ本格的に、全く大丈夫ではない時間が過ぎていく。

痛みの波と波の間は痛みが無いと通常言われるが、私の場合は、痛みの余韻なのか波の間も痛かった。つまり、痛みの程度は変わるけど基本的にずっと痛い。時計の12時と3時の方向ベッドの手すりを握り締めて耐えたり、ベッドのマットレスを抱き抱えて耐えたり。

よくある出産知識本には、ひっひっふ〜で有名なラマーズ法などの呼吸法や瞑想法のソフロロジーなどが痛み逃しに有効、などと書いてあり、人並みに事前練習していたが、ひっひっふ〜している余裕ある実在するの?
痛みの前には知識も事前練習も全く役に立たず。この頃には冷や汗が吹きでて、唇を噛んで血がでてきていた。

ちなみに、私は準備を万全に行いたいタイプなので、事前に用意していた入院グッズにも陣痛対策グッズを完備。
・ストロー付きペットボトルキャップ
・つぼ押し用のテニスボール
・保温で血行を良くし痛みを和らげるためのレッグウォーマー、ホッカイロ
・乾燥対策のリップクリーム
・汗拭きタオル予備含め2枚
・小腹が空いた時用にチョコやゼリー
などなど。

これ、ひとつも使いませんでしたから。というか、痛みで起き上がれずカバンから取り出せないまま終了しましたから。
水分補給用の水やポカリすら取り出せなかった。この時ばかりは、たった一人でのお産を呪った。

病院で用意してくれたベッドサイドの飲み物もとれない。
今が何時なのかもわからない。
何時間経過したのかもわからない。
いつまで一人で放置されるのかもわからない。
次の展開がどうすれば訪れるのかもわからない。

痛みのときには「んんんんふう〜〜ああああ〜〜」と声を荒げるのに誰が来るわけでもないし、痛みが消えるわけでもない。本当に孤独だった。もちろん、コロナ禍だからというわけではなく、世の中の妊婦が全員誰かに立ち会ってもらえるわけではない。
そんなときはきっと、助産師さんが付き添ってくれるのだと思うので、全妊婦さんは安心して欲しい。ただただ、私の担当助産師さんはスパルタだったのだと思いたい。

記憶が正しければ、誰かに届いてとばかりに唸り声をあげたときに、一度だけ様子をみにきてくれた。そして「痛いのは陣痛がすすんでいる証拠ですよ」と、何の励ましにもならないことを言われたのは覚えている…。

途中から、正座して腰をさすれば少しだけ痛みが軽くなるという技に気付き、必死で腰をさするが自分の手ではうまくいかないわ、すぐ疲れるわ、痛みは増してくるわで。

なんで妊娠してしまったのだろう。と本気で思った。

時間も深夜帯だし、体力の消耗も激しかったのか、うつらうつらしたと思ったら痛みで目が覚める。そんなことの繰り返し。
どれくらい我慢しただろうか。もはやこれ以上の痛みでは動けない、呼吸ができない、というところでナースコールを押した。

4月27日 05:45 子宮口5cm…何かの冗談?

瀕死のナースコールで助産師さんがやってきて内診。

「5cmですね、いい感じ。進んでますよ。」
陣痛期間最大の死刑宣告。
まだ5cm。体感では、もう赤ちゃん出ちゃってる痛みなんですけど。分娩室に行くのは全開10cmだから、私の計算が間違いでなければまだ半分ということか?と朦朧とした中で思った。

そして、不謹慎かもしれないが、五分五分でここで命尽きると覚悟した。
衰弱死、もしくは痛死。

何をどう思おうが、非情にも痛みは止まらない。ダンプカー時速30kmくらいで何度も何度もゆっくり轢かれているような感じ。平気な時間は一度もなく常に痛い。私の唸り声もフルボリュームになり、流石に助産師さんが腰をさすってくれる。
「トイレ行きますか?入院してから行きましたか?」
「今、行かない。2回、行った。」
常日頃、他人への敬語を忘れないで有名な私もタメ口かつ片言。

「赤ちゃんがまだ下がってきていませんね。少し起き上がれますか」
「できない。だめ。いま。」
と片言で答えながら、なんとか体を土下座体制にしたとき、お尻の奥から神の力のような逆らえない痛みの波がきて、「うわあ〜〜あ〜〜」といきんで唸った。

そして、腰全体に生暖かい感触が広がった。
この感じは昔記憶にある、失禁だ…。やってしまった…。

4月27日午前6:45 大失禁で着替えたら頭が見えていた

「おしっこ出ちゃった…いっぱい出ちゃった…」
と、助産師さんに呟く。文字で書くと完全に卑猥だがこっちはマジだ。
さらにもう2回、大きな痛みの波がきて追加のいきみと放尿。シーツはびしょ濡れだし、お産着もびしょ濡れ。(いまから考えると完全破水だが、このときはおしっこだと思い込んでいた。)

助産師さんに「トイレでパンツ変えてこれますか?」と言われたが、もう何も返事ができずうずくまっている私を、他の助産師さんもきて2名体制で手取り足取り着替えさせられた。その間も大きな痛みの波はやってきて、私はいきんでいた。

死んだカエル状態の格好で仰向けにされながら服を変えてもらっていたら、助産師さんがふいに「内診しますね」と私のパンツをめくった。

そして、「子宮口全開ですよ!頭みえてます!」助産師さんが喜びの声をあげたのは覚えている。

4月27日午前6:50 子宮口全開 分娩室へ

待ちに待った子宮口全開。ここからが本当に本番の分娩だが、もはや子宮口全開で達成感と疲労感で、意識はあるけど思考停止状態だった。

「ここ(陣痛室)で出していい…?」
「だめです、分娩室にすぐいきましょう、立ち上がって」
「あ…あああ〜…」
「いきまないで!(赤ちゃんの)頭おさえて!」

スリッパも履かずに裸足で引きずられていく分娩室はすぐ隣だったが、その2mが長かった。

4月27日 入室後は10分足らずでスピード出産**

分娩室で慌ただしく助産師さん2名が準備にはいる。その間にも私のいきみの波はきていた。私がうああああ〜といきみだすと、「まだですよ!」と助産師さんが私の股ぐらにコブシを突っ込んで、赤ちゃんが出ないように押さえていたことを覚えている。

NSTモニターをつけ、点滴を刺し、パンツを脱がされ、足に紙を巻きつけられ、着々と準備が進められていったが、私の方はいきみの波がもう耐えられなくなっていたので、次の波がくる前に臨戦体勢に入れるかどうかの勝負だった。
そういえば点滴を刺すときに「アルコールでかぶれたことはありませんか?」「医師からお子さんの性別は聞いてますか?」と聞かれてすごくイラッとしたことを覚えている。必須確認事項なのだろうけど、返事する余裕ないでしょ。

体の内側からせりあげて来る波の直前に、分娩台で準備ができたようで思いっきりいきんだ。余談だが、「いきむ」とは不思議なことで、間違って大が出てしまうんじゃないかということは全くなく、「ふんばる」と「いきむ」は別物だということが身体は知っているのだなあ。

最初のいきみでは、赤ちゃんはでてこなかった。すぐに酸素マスクを装着させられた。いきむときに呼吸が止まるので赤ちゃんに酸素が行き渡らず苦しがっているとのこと。
酸素濃度はMAXで。会陰切ろう、すぐに先生呼んで。吸引しますか?などのやりとりがかすかに聞こえていた。

その後、身体の奥から突き上げるいきみの波がすぐにやってきた。
「いくいくう〜〜でるう!!」と、これまた卑猥な感じだが、助産師さん方に自己申告して思いっきりいきむ。

そして、「ぎゃーーーーーー!!」漫画みたいだけど、文字通りの言葉で叫んだ。

「目をつぶらないで!助産師の顔をみて!」
「声を出しすぎない!」
「腰は浮かせない!」

そして、医師が入ってきたと同時に「会陰を切りますね」という言葉のあとに、ザクっと大振りのステーキ肉くらいの厚みの肉を切る音がした。会陰切開は痛くない(陣痛の痛みでわからなくなる)とよくいったものだが、ほどほどに痛い。あと肉を切る音がリアルで怖い。

その後、まだつづくいきみの波に力を入れていたらふいに、「出てきましたよ、いきまないで!」の言葉をかけられ、気づかないままいきんでいた私の肩をユサユサ揺さぶられた。

我にかえると、ふぎゃふぎゃと声が聞こえた。産まれていた。

4月27日午前6:59 誕生。ただただ、ホッとした。**

我が子が誕生したことを知った私の最初の感想は、
終わった……終わりがあった…
ただそれだけだった。

感動の対面で涙がホロリ、なんてことはなく、あの痛みから解放されたのだという気持ちが全て。タオルで拭かれた我が子を渡されても、ただ茫然と、ホッとしていた。助産師さんたちからは、元気な子であることやお祝いの言葉と笑顔をかけられた。
そして私の第一声。「出産なめてました…」

もうあの痛みを感じなくていいんだ、生き残った(私)、生きてでてきた(息子)、そんな気持ちのループ。正直、我が子への愛情と嬉しさがでてきたのは、産後2時間以上、分娩室を出た後だった。

ちなみに、立ち合いのお医者さんの第一声。「おめでとうございます!10万円ゲットだね、親孝行なお子さんだ」で笑える。
注)コロナ禍の特別定額給付金の対象は4月27日中に出生していること

4月27日午前7:00 後処理もまあまあ痛い 

私にとって最大の苦難は子宮口が開くまでの数時間で、正直、分娩室に入ってからのいきみは、痛いは痛いが比では無かった。これは間違いなく腹筋と体力のおかげだと思う。
いきみが最もつらい方もいるだろうし、何がつらいかは人それぞれ。しかし、いくら体を鍛えようが何してようが、平等にお産は命がけのものだった。

子供がでてきたら、後産期といって胎盤やへその緒をだす。これが実は地味に痛い。山場を乗り越えて完全に甘えモードに入ってしまった私は「痛い〜痛い〜」とアピール。また、私は会陰切開したので、切れた会陰を縫うのだが、この時も麻酔のおかわりを要求。
陣痛と比べると無いに等しい痛みではあるのだが、針で粘膜だらけのアソコをチクチク縫うわけで、まあ痛く無いわけはないか。甘えモード全開の後処理も無事に終わり、出血もほとんどない、いわゆる「安産」で終わった。

その後、胎盤をみせてもらった。自分の内臓をみる機会なんて人生そうないですからね。
重さ約580g。パイナップル大のグロテスクな血肉の塊ではあったけど、コイツがトツキトオカ息子を育ててくれていたのだと思うと感慨深かった。へその緒は思ったより太く短かった。

出産は過酷で非情で、そして忘れゆくものだった。

とてもとても長くなったが、以上が私の出産体験である。もちろん出産後も後陣痛で苦しみ、初めての尿意の激痛、円座クッションに涙する、など色んなことがあり、全てを含めて出産ではあるが。

冒頭でも書いたが人は忘れゆくもので、この痛みに耐えることは二度とできない、決して2回目はない、と思っていたのに、不思議とまた産むことを想像している自分がいる。この体験記だって、読み返すと事実がだいぶ薄まっているようにも感じる。

それでよかった。忘れることができる生物でよかった。あの恐怖を忘れられなかったら、もう二度と出産しようなんて思わないだろうから。

もし、また妊娠の奇跡に恵まれることがあったら、とりあえず自分の記憶を読み返そう。そして、きっと妊娠を喜び楽しむだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?