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真情あふるる軽薄さのために(番外公演Vol.1『絶触』に向けて)

 いつも人間の条件の活動を気にかけてくださり、ありがとうございます。主宰のZRです。このnoteでお伝えしたいのは「次回公演では作り方を変えてみる」ということです。具体的には、「稽古開始時点であえて脚本を用意しない。その代わりに音楽のプレイリストから劇を作り始めてみる」ということです。このような作り方を取るのは演劇というもの、そして演技というものについて私が以下のように考えるからです。少し長めの文章になりますが、ご一読くだされば幸いです。


◯演劇を支えるもの

 演劇は嘘っぽい。いわゆる写実性という意味でのリアリティにおいてはどうやっても映画には勝てない。いくらセットを作り込み、現実的な衣裳を着たところで、その人物が立っているのは作為を持って作られたどこかの舞台の上であることは否定できない。また、大きな劇場では、映画の演技に慣れた人には嫌われがちな「芝居がかかった」大きな声と身振りの演技をすることが多い。現代口語演劇が実践してきたような、小劇場でのナチュラルな(日常の身振りに近い)演技は確かに魅力的だが、結局それも芝居であって、嘘であることからは逃れられない。
 演劇はリアルである。これ以上ないほどにリアルである。なぜなら観客が見ることになるのは本物の人間であり、その人がまさに今ここにいることは絶対に否定できないからだ。観客はスクリーンに投射された光を見るのではない。スピーカーが電気信号を変換した結果としての音を聞くのではない。劇場では、今まさにここにいる人が反射した可視光線が直接観客の目の中に入り込んでくる。その声は電気信号に変換されることなく直接観客の鼓膜をふるわせる。

 私達はなぜ演劇を見るのだろうか。私は「起こりがたいことが起こるのを感じるため」だと思う。「起こりがたいこと」には、もちろん様々なスペクタクルが含まれる。ハムレットの狂気も、オイディプスの絶望も、日常生活には決して顕現しない「スペクタクル」だといえる。しかし、ナチュラルなもの、生活との距離の小さい演劇にも「起こりがたいこと」がある。それは、一つには空気の生成である。ある状況でしか出現しないであろう空気、それが意図的に作り出されて体感されることは劇場でしか起こりえない。そして、スペクタクルであろうとナチュラルなものであろうと、この「起こりがたいこと」は舞台上にあるものだけでは現前しない。観客の演劇的な想像力が必要である。冒頭に述べたように舞台上にあるのは演じる人間となんらかの物体の一群でしかない。そこに物語や感情、社会的な意味を見出すのは観客の想像力が働くからである。その意味で、演劇は観客の頭の中にある。そして、その想像力が強く働き、舞台上で起こっていることが自分の人生と無関係ではないことだと感じられたとき、そこにリアリティが生まれる。大人はおとぎ話を純粋におとぎ話として楽しむことはできない。フィクションの中に何らかの現実を見るからこそ、それを楽しむことができる。

「どこでもいい、なにもない空間―それを指して、私は裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる―演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ」

演出家ピーター・ブルックの主著『なにもない空間』の冒頭を飾るこの言葉は、必要十分と言えるほど正確ではないものの、演劇という行為が本質的に演者と観客の関係性の中でのみ成立するものだということを非常に簡潔に提示している。演劇という営みも、リアリティも、演者と観客の両者があってはじめて発生するのだ。舞台という嘘の空間は、想像力によって真実性を持つことが可能になる。


◯何が実在するべきか

 観客の想像力が演劇の要件であることはわかった。しかし、想像力の関与する以前の段階で劇空間の中に実在するものは何か。舞台空間、観客の肉体、演者の肉体がまずある。私は「演者の身体感覚」というものも実在すると言ってよいと思う。そして、身体感覚の中にはいわゆる「感情」というものが含まれるとする。私はこの身体感覚の中に嘘偽りのない本物の感情、すなわち「真情」が存在することが私の作る演劇において最も重要だと考えている。嘘と制約ばかりの劇空間において、この「真情が生起すること」が、私が起こしたい「起こりがたいこと」である。もちろん演者の内側に起こることを、観客は想像力を介してしか知覚できない。演劇における台詞あるいは台詞の集合としての物語は、演者の内側に起こることを想像させる手助けとなる。しかし同時に、これによって演者は起こっていない感情があるかのごとく振る舞うことが可能になる。それは嘘なのだ。嘘でもいいと思う人もいるだろうが、私は嘘であってはならないと思う。なぜなら私が作品を作るのは作品という嘘を通して、それを実在させたいからだ。決して知り得ない他人の心と知悉した自分の心の中に同じものが存在しているという確信を得たいからだ。
 劇空間においては簡単に嘘をつくことができる。ある男が、自分がハムレットであることを推察させる形で舞台上に現れたら、観客は彼がハムレットであることを容易に受け入れるだろう。演者である彼はデンマークとは縁もゆかりもないのにだ。彼が悲しみを感じさせる動作をすれば観客は「彼は悲しいのだ」と判断する。もちろん、この「彼」は演者ではなく役としてのハムレットを指す。私はこの悲しみが演者の中にも実在していてほしいと思うのだ。見かけが全く同じであれば演者がその感情を抱いておらずとも良いという人もいるだろうが、私はそう思わない。上に書いたような、ナイーブなロマンチシズムが自分の中に避けがたく存在するからだ。逆に、真情を持っていてもそれが観客に伝わらないこともあるかもしれない。もちろんそれは伝わってほしいと思うが、必ず伝わらないといけないわけではないとも思う。この真実は内的でいい。ただし、私はそこに真情があるとき、観客はそれと無関係ではいられないだろうと思う。私的な経験を除けばこれに根拠はない。私は作品をこの予感に賭けている。
 演劇は嘘だ。嘘は軽薄だ。しかしその軽薄さの中に真実の感情が存在しうる。故・清水邦夫氏の作品名を借りて名付けるなら、私はそんな「真情あふるる軽薄さ」をこそ追い求めたい。私はそんな作品を作りたい。

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◯演技を構成するもの


 さて、真情の生成のためには演技とは何かを知る必要がある。
 演出家の鈴木忠志は「俳優の演技の本質とは身体感覚の多様さを遊び楽しむことである 」と述べている。また、同じく演出家の岡田利規は役者の仕事とは何かという問いかけに、「豊かなシニフィエを捏造すること 」だと答えている(ここでのシニフィエという言葉には、記号論における一般的な意味とは別にかなり特殊な意味付けがされている)。詳しくはその著作に譲るが、両者に共通するのは、俳優の身体の中にこそ演技の源泉があるということだ。
 私は、稽古場で内的イメージ外的イメージという言葉をよく使う。ここでのイメージとは、イマジネーションの産物として生まれてくるもののすべてを指し、何らかの事象に対して持つ偏見や何かを写す画像としてのイメージとは意味が異なる。内的イメージとは、演技をする時に俳優の体の内側で生起するイメージをいう。これは身体感覚と言い換えても良い。例えば、熱さや寒さの内的イメージとは、熱で体が膨張するような感覚、体が震えてうまく動けなくなる感覚などのことである。また、その時に内側に生まれてくる感情というものも内的イメージに含まれる。俳優はこのような内的イメージを想像(imagine)して演技する。外的イメージは、俳優の外側にあるイメージのことである。岡田のいうシニフィエもこれにあたる。役が居合わせている場の視覚・聴覚をはじめとする知覚情報、あるはモノローグの時に思い浮かべている情景などである。外的イメージは内的イメージを生成するし、内的イメージが演技の具体化のためにそれにそぐう外的イメージを要請することもある。
 これらは特にスタニスラフスキーシステムの中では「情緒的体験」と「与えられた状況」と言われるものだ。演技の全体性を考えるためにその呼称を変えたに過ぎない。いずれにせよ、今ここ(舞台上)にないものに突き動かされるためにはこれらのイメージが豊かに存在している必要がある。
 そして、身体がある。いくらイメージを豊かにしてもそれは身体がなければ表現されない。ポーランドの演出家、イェジュイ・グロトフスキは自身の劇場における俳優教育の目的は、肉体の抵抗感の排除であると述べている。つまり、それは「衝動がすなわち外的リアクションであるといったふうに、内的衝動と外的リアクションとのあいだの時間経過から自由になることである―すなわち、肉体が燃え尽きて姿を失ない、ただ一連の目に見える衝動だけを観客は見る」 のが理想の状態である。そこに至る方法については、書籍から得た知識だけでは限界があり、また生の体験へのアクセスが難しい現状では探求の途上であるが、イメージの身体化という意味で舞踏の中にそのヒントがあるのではないかと考えている。中嶋夏氏のワークショップに参加して、演劇との本質的なつながりを感じているが、まだ語れるほどの言葉を持っていないので、これについては稿を改めたい。
 内的・外的イメージがあり、それらは相互作用する。そして、それらイメージと身体があり、それらも相互に作用する。自分の中にある演技の図式は現在こうなっている。そして、俳優と演出の仕事はそれぞれを豊かにして滞りなく相互に作用させ、上演するごとにそれを舞台の上で生成変化させることである。もちろんこれで完成であるはずがないので、実践の中でより深く自己批判を進めていきたいと考えている。


◯次回公演は結局どうなるか


 長い前置きが終わったので、結局次回公演では何をするのかという話をしたい。
 冒頭に書いたように、次回公演では稽古開始時点であえて脚本を用意しない。その代わりに音楽のプレイリストから劇を作り始めてみる。
 演劇では上に書いたようなイメージはテキスト(戯曲)を起点に膨らんでゆく。しかし、イメージの源泉という意味では、それはテキストである必要はない。音楽もまたイメージを喚起するものである。
 テキストを起点にする場合、当然ながらまず最初にテキストがある。これが発声されて身体化され(読み合わせ)、それに体の動きが加わる(立ち稽古)というのが一般的な受肉の仕方である。イメージは戯曲を読み込み、体を動かすうちに生まれてくることもあるし、生まれないまま上演に至ることもある。つまり「テキスト→声→身体→イメージ」という順番である。
 音楽を起点にする場合、この順序を変えることができる。「音楽→イメージ→身体→声(台詞)」という順番である。俳優と演出家は共に音楽を聞いて豊穣なイメージを身体の中に展開させてみる。俳優はそれを身体化する。もちろんイメージをそのまま身体化するのは茫洋としていて難しいだろうから、何らかの枷をつける。そこに作家を兼ねる演出家が言葉を加えていくという順番である。
 このやり方に期待されるものは二つ、①イメージを先取りすること②意外性のある身体を引き出すことである。
 ①イメージについて、言葉はどうやっても抽象的である以上、情報量が少ない。ここからイメージを積み上げて舞台上という具体性の世界に豊かさを生むには、想像する、あるいは考えることによってイメージを追加していく必要があるが、それも結局は言葉であり、世界をさらう網の目であることには変わりがない。また、期待する内的イメージが発生しないこともありうる。音楽の場合、まずイメージが生まれる。それは言葉ではない。言葉によって縮減される前の感覚である。実在する感覚、真情である。これを起点にシーンを立ち上げたい。
 ②意外性のある身体について、普通にやれば日常のテキストからは日常的な身体しか引き出されない。何らかの工夫をすればテキストからでも様々な面白い身体が生まれてくるだろうが、真情は生まれにくいのではないかという懸念がある。この懸念はおそらく誤りなのだろうが、日常を離れた身体から真情を生むプロセスが現在の自分には想像がついていない。音楽は体を動かす。そこに日常の動きは現れないだろう。どこかで身につけた身振り、ダンスの振り付けのような動きがでてくるかもしれないが、見たことのない動きもまた生まれるはずだ。
 もちろんこれだけでは机上の空論である。実際上の困難が計り知れないほどある。稽古を通じてそれに対峙しながら、何か面白いことができないかと考えている。


◯なぜ身体か

 イメージの先取りの意義については真情という言葉で上に説明したが、私はなぜ身体にこだわるのか。
 身体とは演劇のもっとも重要な構成要素である。演者の身体がなければ演劇は成立しない。観客が主に見たいのは物語や役の感情などの目に見えないものであり、そこに価値があるのは確かだが、それを認識するのは演者の身体を通してである。意味の入り口である身体にこだわらない演劇が面白い演劇であるはずがない。
 日常の動きで日常の台詞を喋るだけでも面白い演劇作品は星の数ほどある。しかし、そうではない身体があってもいいし、そうではない身体は日常の身体とは別の面白さがある。その身体が語る言葉は日常というコードで捉えようとすると訳のわからない小難しいものに見えるかもしれない。しかし、おそらくそこに何か深い理由があるわけではないのだ。明確な答え、正しい解釈の用意されたクイズではない。抽象的な絵画を見てなんとなく「いいな」と思うように、ある身体をみて「いいな」「面白いな」と思えればそれでいいのである。ただ、やる側はなぜそんなことをするのかを説明できなくても良いのだが、説明できないよりは説明できたほうが良い。そんなシンプルな気持ちでこの文章を書いている。
 身体について、私が範とするのは先日鑑賞した大駱駝艦の公演である。かつては言葉なき世界を理解する自信がなかったことから舞踏の世界には寄り付いていなかったのだが、演劇的なアプローチを取るという話を聞いて好奇心が湧いたので鑑賞してみた。実に豊かな身体があった。もちろん大駱駝艦の外連味(金粉、白塗り、異性装など)や演劇的な演出(舞台美術、舞台転換、屋外上演など)があってこそあれだけ楽しめたのだとは思うのだが、それらすべての根底にあるのは踊る身体だった。身体というものの面白さを今までで最も強烈に感じた。


◯真情あふるる軽薄さのために

 このように、次の公演では今までとは異なる作品の作り方をしようと思う。とはいえ、最終的に私が探求したいと思っているのは、舞台という軽薄な空間の中で現実に生起する感情である。そして、私が好きなのはこれまでの作品で描いてきたようなドラマチックなもの、つまり劇的なものである。そこは変わっていない。次の公演でも、それを描くつもりでいる。ただ描き方は少しだけ異なっているかもしれない。


最後までお読みいただきありがとうございました。こんなことを考えながら次の公演を作っています。どうかご観劇いただき、その成果をご確認いただければと思います。


引用文献

ピーター・ブルック(1971)『なにもない空間』高橋康也・喜志哲雄訳, 晶文社, p.7.
鈴木忠志(1988)『演劇とはなにか』岩波新書, p.77-78.
岡田利規(2013)『遡行―変形していくための演劇論』, 河出書房新社, p.203.
イェジュイ・グロトフスキ(1971)『実験演劇論』大島勉訳, テアトロ, p.45.

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