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なぜいま『やまゆり園』なのか?

2020年3月16日、植松聖被告に死刑判決が言い渡された。「計画的かつ強烈な殺意に貫かれた犯行であり」「動機の形成過程を踏まえても酌量の余地は全くなく」「死刑をもって臨むほかないと判断」された。
19の命を奪った者に対する判決としては、現行の刑法上これ以外の判決はあり得ないだろう。裁判で議論された責任能力についても、疑いなく「あった」のであり、被告当人もそう判断されることを望んでいた。

「頭がおかしければ無罪という理屈は間違っています。心神喪失者こそ死刑にすべきです」

判決後、彼は弁護団による控訴を自身の手で取り下げた。


2016年7月26日、相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」において、19の命が奪われた。「意思疎通ができない重度障害者は人間ではない」「彼らは国の財政を圧迫する」という考えのもと、言葉による呼びかけに応じられない入所者たちが刃物によって次々と殺されていった。

事件の後、その過激な思想がセンセーショナルに報道され、それは我々を不安にさせた。彼が何か我々が大事にしていたのものを脅かすものであるような気がしたからだ。しかし、死刑判決によって、我々は彼との間に明確な線を引いてその不安を鎮めた。線の向こうにいる彼は凶悪な反社会的思想を持った死刑囚で、我々は命の価値を知っている善良な市民なのだと。塀でぐるりと囲ってその内側に押し込めることで我々の生活圏から切り離し、我々は無関心にただ死刑が執行される日を待てばよい、いや、忘却しておいて執行の報せが届いたときにまた思い出せばよいのだ、と。

しかし、それでよいのだろうか?

私は彼に同情したいのではない。しかし、私が彼でないということに自信を持てずにいるのである。高校生だったころに、素朴な動物と人間の比較から、「人間とは、言葉によるコミュニケーションが取れる者のことではないか?」と考えた私がいた。中高一貫の進学校にいて、知的障害を持った人のことなど頭の片隅にもなかった私の素朴な考えは、何の悪意もなく植松の考えと重なっていたのである。そのことを、「高校生の幼い考えだから」と処理することが、私にはできずにいる。
彼は「異常者」ではない。「人間」の範囲を人間社会が「健常な個人」に求めるものと同一のものとみなし、「意思疎通がとれること」「周囲を不幸にしないこと」「生産を通じて国家に貢献すること」「責任能力を有すること」などの基準を設け、それに該当しないものは人間ではなく、生きる価値がないとした。そしてその基準を自らにも当てはめて、自分が人間であることを証明するために死刑を望んだのである。
私はその一貫性に眩暈がする。もちろん、彼の主張それ自体は容易に否定できる。言葉によるコミュニケーションが取れない人もそれ以外のやり方で意思疎通を行いうることがほとんどだし、重度障害者に国がかける予算など割合で言えば微々たるものに過ぎない。その意味で彼の論理は稚拙だ。しかし、「能力を持たないものは価値がない」というその価値観において、私は彼を心から拒絶することができないでいるのである。彼の一貫性はそこにあるのであり、また、それは我々が自他に向けて当てはめてしまわざるを得ない、強力な基準なのである。
もちろん、私たちが「重度障害者のように『できない』人たちは死ぬべきだ」と考えている、と言いたいわけではない。そうではないし、そうではないことを祈っている。多くは自分たちと異なる他者を殺したいなどとは思っていないだろう。しかし、「できること」により人間の価値を測り、「できないこと」に生存価値の危機を見る、この価値観は広く共有されているはずだ。

私がこの事件の突き付けた問題の広さと重さを認識し、心から離れさせなくさせたのは、死刑判決後に牧師の奥田知志さんに対してなされたインタビューだった。植松氏と接見した奥田さんは彼のことを「時代の子」と呼ぶ。「役に立たない人間は殺すしかない」という植松氏に対して、奥田さんは「あなたは役に立つ人間だったのか」と問いかけた。彼は「僕はあまり役に立たない人間だった」と答えたという。植松氏の犯行の動機、入所者のことを「かわいい」と言っていた彼がなぜ殺戮に至ったのかは明らかにされていないし、それを単一の理由に求めるのも単純化が過ぎるが、私はここに根源があるのではなかろうかと思っている。彼もまた、「人の役に立つこと」を人間の生存の価値とするプレッシャーに晒され、それから逃れるため、つまり、自身が価値ある人間であることを証明するために、「国家の害を誅した」のではないだろうか。
「彼もまた時代の被害者だった」などと同情的に書くつもりはない。そのようなプレッシャーにさらされても他者を害さずに生きる人がほとんどであり、どのような事情があろうと命を奪った罪は消えない。しかしそれは、そのことについて考える価値がない、ということを意味しない。

私たちは今一度、この事件が起こったこの時代について考える必要がある。「事件を振り返るには早すぎるのではないか」という声もあるだろう。しかし、私たちが真に振り返るべきは事件そのものというより、その前から存在してこの事件を引き起こした時代精神であるとするならば、事件が起こってしまった今、遅すぎるともいえるのである。事件が起こって以降も、「ホームレスの命はどうでもいい」「高齢者は集団自決すればいい」などと、「役に立たない命」「死んでいい命」を選別し、公に発する声がある。私たちが向き合わねばならないのはこの精神である。

最後に、私たちが団体の名前として掲げる「人間の条件」という言葉と、この題材の緊張関係について書かねばならない。植松氏にこの言葉を与えれば「意思疎通が取れることが人間の条件だ」という使い方をするだろうが、今回の作品制作において問いたいのはこのような排他的な意味での「人間とは何か?」ということではない。この文脈でその問いに答えるのは簡単すぎるからだ。「ヒトゲノムを持つもの」で足りる。それで足りないとするならば、それは「人間とは何か?」ではなく、「殺していい命・切り捨てていい命はどれか?」を問いかけているに過ぎない。そのような問いは立てる必要も答える必要もない。
もともと、団体名の由来となったハンナ・アーレントの『人間の条件』においてもそのようなことは問われていない。これは「Condition」を「条件」と訳したことにより生まれた誤解で、Conditionとは、人間の環境となって人間を縛り付け条件づけるもの、人間の被制約性を指す言葉だった。これから制作される『The Human Condition』において問われる人間の条件は、能力主義というConditionなのである。

この作品は祈りではない。世界のために、現代に生きる私たちのために、遺族のために、そして何より失われた19の命のために作られることに間違いはない。しかし、天に捧げる祈りや祭り、儀式ではない。私たちがこの時代精神に抗するために必要な物、それ自体になるような演劇作品を生み出すことを目指している。


人間の条件 ZR

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