見出し画像

ビニールシートに促される観劇態度:人間の条件『絶触』評(書き手:岩下拓海)

人間の条件番外公演Vol.1「絶触」を拝見した。

滑り落ちそうな傾きの階段を気をつけて20数段降ると、暗くてジメジメした場所に辿り着く。その地下劇場は、地上の光と音から隔絶された場所にあって、ほの明るい照明が照らすのみだ。受付で靴を脱ぐよう指示され、涼しい足で席に座る。


「絶触」は、人間の条件の番外公演として位置づけられた公演で、恋人を失った男が黄泉の国まで追いかけて彼女に会いに行くという物語である。道中、水先案内人とともに生前の記憶を回想し、最後には恋人に会うことができる。
とてもシンプルで清潔な物語だけれども、このお話をストレートに上演するのではなくて、上演時間の大部分を占めるのは、日常的な動きを大きく外れた身体表現、特殊なダンスである。
Twitterに投稿されたステートメントによると、役者・作演出・音響がそれぞれ持ち寄った音楽からイメージを作り、身体に表出するという方法をとっているそうだ。音楽によってイメージが異なるので、時に舞踏のようであったり、ヒップホップダンスのようであったり、もっと役の感情に寄り添った演技のように見える時もある。

特筆すべきは、終盤の息を呑むような男女のまぐわいの描写である。やっとのこと再開した2人の恋人は、限定された照明の中で、お互いの姿を確かめあうように、指やまぶたや唇を使って輪郭をなぞる。この時、会場内の誰もがみじろぎせずにその行く末を見守っていた。ZRの劇には毎回、どこか破滅的な、一瞬だけの夢の時間が設計されている。

さて、「絶触」で最も強く、支配的な演出は何かというと、観客席と舞台面の間にビニールカーテンが吊り下げられていることである。観客はそれをスクリーンのようにして、一枚の壁越しに役者の姿を見、声を聞くことになる。
このシートは、コロナウイルスが舞台芸術にもたらした歪みと制約のなれの果てでもある一方で、タイトル「絶触」の象徴でもある。つまり、舞台上を観客席から絶対に手の届かない領域として区切っている。

この文章はこのビニールカーテンという挑発的な演出がどのように作動したのかについて記述する。

画像1

視界がぼやける

前述の通り、舞台と観客席の間にはビニールカーテンが吊り下がっている。ビニールカーテンははっきり言って、とても邪魔である!役者の顔は見えないし、舞台上におかれているものも見えない。どの低い眼鏡をかけた時とか、ちょっとだけより目にしてみた時のような視界だ。
シートの向こう側が「本当の姿」で、シートによって「歪んだ姿」がこちらに伝わってくるような感覚になる。もどかしい。

ただし、没入を欲する観客としての欲望を脇に置くなら、この演出は単に制約だけをもたらすものではなかったようにも思える。
というのも、ビニールシートは舞台上に上がってこい、というメッセージとして受け取ることができるからだ。

舞台上に上がる

私が、この劇を見ている時の状態のうち特徴的なものは3つに分けられる。
① シートを気にせずに舞台の進行を楽しんでいる(没入)
② シートでぼやけてよく見えないので、全体の構図を見ている(静的な鑑賞)
③ 舞台上に上がったかのように役者の感覚になりきる(役者の知覚への接近)

①の状態で見ている時が一番何も考えずに見ていられるので楽だが、実際にはずっと没入できたわけではなく、時に②へ、それから③へ移行した。中でも観劇経験として新しく、楽しいなと感じたのは③だった。

① シートを気にせず舞台の進行を楽しんでいる(没入)
物語の進行をただただ見守っていた。シートのことは気にせずに舞台上の事象に釘付けになっている。
前述した男女のまぐわいのシーンなどが代表的で、何も考えずに劇の中にいられた。

② シートでぼやけてよく見えないので、全体の構図を見ている(静的な鑑賞)
一方で、ビニールシートは基本的に観客が楽に観劇することをゆるす装置ではない。透明なシートには所々にまだらな歪みや透明度の違いがあって、役者の細部をみようと思うと邪魔である。

観客が細部に注目することをやめた時、前がかりになっていた重心を背もたれにあずけ、舞台空間全体の構図を一枚の絵画を見るように俯瞰することになる。
つまり、役者を視界の中心におきつつも、周辺視野にある情報を積極的に取り入れて、全体の構図を自ら作りにいく。視覚的要素が役者の動きだけでなく、役者と空間との位置関係に及ぶようになる。

その視線はシートよりも向こう側にはいってなくて、シートの上で止まっている。この時、たとえ役者がセリフを喋ったり動いても、その意図や感情を解釈したいという欲望へは結び付かず、単に位置関係の変化として受け取る。

初めは①のように没入することを望んでいるのだけど、それを諦めた時に②のように静的な鑑賞へと移行する。静的な鑑賞するのは一歩引いて受動的な鑑賞をしているから、楽である。
しかし、一方でシートの向こうには3つの身体がお互いに影響を与えながらいきいきと躍動していて、その「本当の姿」を感じ取りたいという欲は残っている。そこで想像力を働かせて擬似的に舞台上へと移動してみようとする見方へ発展する。

③ 舞台上に上がったかのように役者の感覚になりきる(役者の知覚への接近)

役者の動きを自分の目線から見て解釈することをやめて、役者の身体の状態に想像を巡らしている。役の感情というよりも、もっと低次の、単に知覚レベルの体験でいいから、役者に想像・共感しようとする。
どの筋肉に負荷がかかってるのか、触っているものの柔らかさはどうか、どんな景色を見ているのか。汗をかき始めたら、どうして汗をかいてるのかを考える。

この鑑賞態度をとっているときにほんの一瞬、私は①の時と同じように役者に没入し、客席にいる自分の身体を感じなくなる瞬間があった。まるで、自分が役者の身体を借りて舞台上にいるかのように、役者の感覚と共鳴する瞬間があった。
この一瞬の新しい没入は、今まで感じたことのない初めての体験だった。

画像2

ちなみにこの文章を書くために記録映像をいただいたのだが、個人的には舞台で見るよりも映像の方が①の時間がより長く、楽に見れるように思えた。実空間をフレームで切り取って、「ここから見よ」という補助線があるから見やすい。どちらの方が良い、というわけではないが。

(文・岩下拓海、画像・6D, 奥村直樹)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?