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『桜の森の満開の下』演出に臨んで(書き手:ZR)

美しいものは、恐ろしい。

この命題は、その意味を理解するのが簡単な一方で、それを現実のものとするのは全く簡単ではないと思います。
しかし、僕はこれを見てみたい。
今回の『桜の森の満開の下』では、舞台の上にこの風景が現れることを目指します。

この作品での「美しいもの」とは桜のことです。ただし、原作では「桜の森は涯てがなくて恐ろしい」ということは繰り返し語られますが、直接的に「桜は美しい、それゆえに恐ろしい」とは語られません。頭の中にある桜の美しさをあまりに自明に感じてしまう僕が勝手に作り出した命題です。しかし、日本という国家の象徴となり、『義経千本桜』をはじめとして日本人の精神性を物語る際にしばしば用いられるこの花に「美」という言葉をあてがわなかったのは、安吾の作家としての矜持であり、「いき」を表すものであって、「桜は美しい」という一文がそれ自体で否定されるようなものではないでしょう。したがって、「桜は美しい」ということを前提としてしまうことに問題はないと思われます。この「美しさ」の質を、安吾は問うています。

人間の条件は「ドラマを抱えた美しい風景」を作り出すことをひとつのテーマとして作劇を行っています。しかし、この「美しい」とはなんだろうか、ということを考えます。もちろん、「美しい」という感覚は創作物の経験の中に頻繁に組み込まれています。美術館に展示された絵の壮麗さに、スクリーンに映る俳優の容姿の端正さに、あるいは推しのキャラクターの身振りの中にそれを感じる人もいるでしょう。
しかし、それは効率的に文化・芸術・創作物を提供するシステムの中にあてがわれ、ごく大衆化された美の表れではないかとも思われます。『桜の森の満開の下』は、本当に美しいものとは、こちらの身を脅かすもの、気を変にしてしてしまうものではないか、ということを突き付けています。本当の美とは人間を狂気で殺す毒であり、私たちが普段いうような「美」は、体に害を与えないよう透き通るほどの薄さに希釈されたものではないか、と。

これは別に実証的に考察されたものではなく、安吾が示した世界観であり(三島由紀夫もどこかで同じようなことを言っていた気はします)、僕が共鳴するひとつの仮説にすぎません。しかし、僕はこの仮説をフォローしなければならないという直感を抱いているのです。もっとも美しいものというのは、非人間的であり、つまりちっともfamiliarな存在ではなく、こちらに「美しい」とも思わせないような、「美しい」という感興が芽生えたのと同時にこちらの五感を奪う、超越的なものとして夢見られるべきではないでしょうか。というのも、そのテーゼが魅力的なのは、「はぁ~、今回も美しいもの作ったなぁ」なんて思わせないような峻厳さを創作者に突き付けるからです。「ドラマを抱えた美しい風景」なんて言ってますが、この仮説を取るならば、そう簡単に自分が創作したものを「美しい」などと評価することはできなくなります。その想像によって、その不可能性を引き受けることによって、その創作者は次のステップに進めるように思われます。

したがって、おいそれと「俺が本物の美を見せてやる」などと啖呵を切ることはできなくなってしまうのですがしかし、それを演劇において希求することには非常に大きな成果を見込めると思うのです。というのは、演劇はこのような、身を脅かすような美の探究に最も適したメディアだからです。
ここで夢見られるような「美しいもの」は「聖なるもの」という概念と近似するところがあります。「ヌミノーゼ」という言葉でルドルフ・オットーが定式化したように、我々を救い上げるはずの神、あるいはその片鱗である「聖なるもの」は畏怖と魅惑という相反する経験の中で感知されることがあります。「聖なるもの」とは共同体が作り出すものであり、演劇と観客というのも同じ時空間に集う一つの共同体です。この点と点を結ぶ線の延長上に、上に書いたような「美しいもの」と演劇の交わるところがあるのではないか。そして、これは事物の存在の仕方がいっそう電子化していく現代、特に都市の中では、宗教を除けば演劇以外に担うことの難しいものではないだろうか、という予感があります。

もっと詳しい話は、各新作試演会(11日18時、12日14時・18時半)の最初に行われる構想発表会にてお話しさせていただきます。

この困難な上演に向けて、いまできる限りのことをお見せします。
ぜひ足をお運びいただき、その「美しいもの」の領域へと足を踏み入れようとする瞬間をご覧ください。

演出 ZR


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