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おまえら全員ちゃんと天才らしくしろ

(ヘッダ画像は公式サイトより引用)



はいどうもー。天才のみんなお久しぶり―ってあいさつはこれくらいにして早速だけど愚痴から入る。なんについての愚痴かというと、血で血を洗う配信サービス戦争の犠牲者として最近ごく一部で話題になってる『ラーヤと龍の王国』の微妙な出来についてだ。観てない人が大多数だと思うけど、公式サイトであらすじとか登場人物とかをチェクしてもらえば、俺が以下何を愚痴ってるのかは大体理解してもらえると思う。



ついにディズニーが暗黒メガコーポの本性をあらわにしてきたというか、自前の配信サービス優先で劇場公開をあからさまに軽んじるとか、信頼なんて別にどうだっていいじゃん世の中食うか食われるかだろ甘いこと言ってんじゃねえよみたいな態度をディズニーみたいな巨大企業ですらもう隠すのをやめちゃってるっていうのが完全にサイバーパンクなんですけど、とにかくそのあおりを食ってディズニー映画なのにめちゃくちゃ小規模公開にされてしまい、その結果、最初は俺はそんなに興味なかったけどそれなりに評判がいい作品なんでやっぱ観にいくかと思ってもすぐ観に行けるところだと上映してるところがなかったんだけど、なんか意地になってこれだけはディズニーに負けずに劇場で観ちゃるみたいな変なモチベーションがわいたのでそれなりにめんどくさいことを強いられつつもなんとか観に行けた。んで作品の出来は微妙だった。愚痴りたくなってもしょうがないでしょ?

とにかくね、ありとあらゆる面で薄味というかツメが甘いというかなんというか、なにもかも「だいたいこんなかんじでいんじゃね?」で済ませてて本来行うべきブラッシュアップとかの作業をサボりまくってんのが目に余る。いやお前いやしくもディズニーだろ。ディズニーのカンバン背負ってるのにほんとにその程度でいいんか? たとえばこの記事の最初のヘッダ画像みてくださいよ。序盤、主人公のラーヤと第二主人公の龍が初めて出会うっていう超重要シーンなのに、なんかぱっと見緊張感もなにもないなんか気の抜けたような絵面になってて、なんかこう俺が期待してたスクリーンから浴びせられるエモーショナルなパワとかそんなんが全然感じ取れない。なんでだ。ガキがみるアナ雪みたいなやつですら入念にエモーショナルなパワで殴ってレリゴーし全人類を夢中にさせるのがディズニーだったはずだろ。弱い。映画として弱い。そういうのと、真の男が好む真の強い映画の強い絵面が放つエモーショナルなパワとの違いは一目瞭然だ。



ジョーカーポスター

(強い絵面の例)


たとえばこれ ↑ とか、観た人なら一発で分かると思うんだけどこのシーンの絵面とか実際の映画でも完全にエモーショナルで観客を殴りにかかってきてるんで殴られた観客が続出した結果このなんの変哲もない街の片隅の階段が観光名所になった。

まあそうはいってもね、クライマックスの展開の出来はまあまあよかったんで、まあそれなりに観られる作品にはなってます。なってますけど、けどそれなりの出来でしかない。クライマックスが来るまで俺はダラダラとした平坦な展開とかに正直飽き飽きしてて心の中でブツブツ文句たれたりしてた。裏主人公のいかにもクール系ですよみたいなサイド刈り上げ女ひとつをとってみても、サイド刈り上げみたいな分かりやすい記号を雑に貼り付けてはいサイド刈り上げクール女キャラいっちょあがりみたいなかんじで済ませてるんでキャラ造形が雑っつうか突き詰めきれてない。このサイド刈り上げ女が実は龍オタで龍に出会うと言葉を失ってすごい良い表情をするとかの光る部分もそれなりにあったのにほんと勿体ない。すとーりーというか脚本に至ってはとりあえずそれなりのクライマックスが書けたってだけの初稿の状態でしかない。こっからみんなでディスカッションするとかして脚本練り直す作業とかを全然してないのが明白。だから、たとえばフルーツジャーキーが最初出てきたときは美味しい食べ物扱いだったのに何の説明もなく途中からまずい食いもん扱いされるようになるみたいな観てて「あれっ?」ってなるポイントがとにかく多いみたいなことになる。

だから鑑賞中も偉そうなガキとか赤ちゃん窃盗団とかみたいなのが出てくるたびに「こいつら何しに出てきたんだ?」みたいな疑問が脳内をよぎって仕方ないし、龍が「中の人はオークなんちゃらさんですよー」っていうのをこれみよがしにアピールする金太郎飴みたいないつものオークなんちゃらしぐさをするたびに「だから龍がしつこく何度もオークなんちゃらしぐさをするのはストーリー上どういう必然性があるんだよ。『伝説の龍のはずがフタを開けてみたらオークなんちゃらみたいなやつだったみたいな展開だったら面白くない?』程度の思いつきの域を出てねえだろ」って本気で腹が立ってくる。ダイアログを磨くとかしてないんでどのシーンをとってもテンションの高まりみたいなのがほとんどなくゆるんでばかりでギャグなんかも滑ってばっかで全然笑えねえ。ギャグのあまりの意味のなさにかえって真顔になる。俺が偉そうだと思う? そう思うやつは勘違いしてる。俺がどうしてこんなに腹がたつのかていうと、俺が映画に凄い厳しい意見を言う映画ソムリエ気取りだからなんじゃなく、ロバート・マッキー大先生のド定番の教科書(これとか)あたりを読んでりゃ俺みたいなあほの素人でも「これじゃまずいだろ」って分かることを平気でディズニーがやってるからだ。あのディズニーがだ。あのディズニーでさえ観客に対して「たかが客のくせに何えらそうに文句たれてんだ。そこそこ面白かったんなら黙ってろや」みたいな態度を取り始めて、他のクリエイターもそれに追随みたいな事態が発生したらどうなるか。行き着く先はクリエイティブそれ自体の衰退だ。だれもが「そこそこ」より上を求めることが抑圧される実質的なディスとピアだ。許しがたい。断じて許しがたい。今こそ全銀河の反乱軍は邪悪なるディズニー帝国に反旗を翻すべきだと思ったが、みおわった後になってこの作品がほとんどリモートワークで作られたことを知って俺は驚愕し、そしてやっぱりちょっと偉そうだったかもと思ってやや反省した。いやまー仕方ねえわ。ストーリー展開とかキャラ造形とかについてスタッフ同士で互いに容赦なく意見をぶつけ合うみたいなのがリモートだと不可能だもん。リモートの限界。どうしてか俺も分からんけど遠慮抜きの議論みたいなのがリモートだとなぜかできない。心の中の何かがリモートの時だけ何故か遠慮してしまう。あれほんとに何故なんだろ。

まあ、そういう脚本からしてブラッシュアップするための必須作業が出来ない環境で、俺程度のやつでも指摘するような欠点があることについても「いわれなくても分かってんだよ! でも仕方ねえんだよ!」みたいなフラストレーションもためつつこんだけのそこそこの作品に仕上げてくるんだからディズニー恐るべしですよ。でもね、俺はやっぱりあえて言いたい。俺はディズニーの実力を知るからこそ、そこそこ程度の出来の作品に満足するつもりはないし、俺の話を聞いてるやつ全員に、天才としての自覚に基づく天才にふさわしい振る舞い、すなわち、そこそこ程度で満足することなくテーマに真っ正面から取り組んでストーリーやキャラ造形をとことん磨き上げるクリエイトを要求する。なぜか。俺は作品に対してカネを払う側の人間なんで、

1 そこそこ程度の作品にカネを払うだけの世界を押しつけられて泣き寝入りする 

2 天才がクリエイトした傑作に喜んでドネートし、作品を鑑賞してさらに喜ぶ

っていうふたつの選択肢があったら当然2のほうを選ぶ。俺みたいなドネート中毒は世の中に結構いるので、結構前のことになるけどマッドマックスが公開された当時なんか俺と同じように何度も繰り返しドネートしては鑑賞するドネートバカの集団が自然発生して世間から白い目で見られたりもした。だけどディズニーみたいな邪悪な帝国が、商売が楽になるからみたいな理由で俺から2の選択肢を奪おうとするんなら、はっきり言って俺一人じゃどうすることもできない。俺に出来るのは天才のみんなにちゃんと天才らしくしてくれって頼むことだけだ。だからみんなまず、ちゃんと天才の自覚を取り戻せ


おまえ天才だろ


だいたい観客や読者といった連中はどいつもこいつも天才ばかりですよ。これは別に俺が勝手にそう思ってることじゃなくて、ロバート・マッキー大先生が何度も何度も本の中で繰り返し強調してることだ。だから多分相当に証明された事実だと思って間違いないし、これから俺が話すことはだいたいロバート・マッキー大先生の本の受け売りです

なのになぜか、自分が天才だってことを忘れるどころか、クリエイターを名乗りながら観客や読者をあなどって子ども扱いするようなまねをするやつまで出現することもある。そういうまねに及んで手抜きするやつに対してはロバート・マッキー大先生はめちゃくちゃ厳しくてすごい怒ったりするから、よほどのマゾヒストでもない限り、天才の自覚を忘れたままでいるメリットは何もないと思います。天才の自覚を忘れてる人がもしいたら、俺がこれから話すことをちょっと注意深く聞いてみて。

そもそも観客や読者といった連中はどいつもこいつも天才ばかりっていうことがどうして分かるのか。それは言われてみればすげえ簡単で、どいつもこいつも天才だから、たとえばつまんない映画を観たときとか、そこそこ面白いけど弱点がある映画をみたときとかに、そろって同じタイミングで映画がつまんない原因とかそこそこ面白い映画の弱点とかを即座に見抜いて、そろって天才にしかなし得ない的確なツッコミを入れる。そしてそれをほとんど無意識のうちに実行する

具体例をあげてみましょー。たとえばまあ、実名をあげるのはどうかと思うんで伏せ字にしたマ○○○ベイ映画なんかを観てるとなんか最初は爆発が凄くて「うわ爆発した!」って思ってても、途中から爆発に対して思わず心の中で「また爆発かよw」みたいなツッコミをするようになり、そのうち完全に飽きたりする。モモアマンの映画が公開されたときも、観たやつはどいつもこいつも「面白かったけど途中から『また爆発かよw』って思った」とかの判を押したように同じような感想ばっかだった。どいつもこいつも、意味もなく繰り返される爆発のその意味のなさを瞬時に的確に見抜くほどの頭脳をもった天才だったからだ。

だからそういった天才どもは、そこそこの出来の映画とかを観てるときでも心の中で常に思わずツッコミを入れる準備ができてて、ちょっとでも意味のないだらけた会話シーンとかがあったら途端に定番のツッコミである「意味ねー」を心の中でつぶやくし、本当に酷い出来で意味のない出来事の羅列みたいな駄作をみせたりすると怒りの余り我を忘れて思わず実際に「それ意味ねーだろ」と口走ったりしたりする。

そしてそういう天才どもは、同じく天才がとことん磨き上げて徹底的にクリエイトした傑作に対してもみんな同じような天才ならでわの反応を示すことが明らかになってて、代表的な反応としては鑑賞中頭が空っぽになる。

たとえばさっきもちょっと話に出たマッドマックスなんかだと、天才ジョージミラーが徹底的にクリエイトした結果爆発がものすごく、観客は最初の爆発からして「うわ爆発した!」ってその余りの爆発の迫力に震え上がると同時に一発で心を奪われてスクリーンに釘付けにされる。んで、まるで思考能力が奪われたかのように映画の中で爆発がおこるたびに何度もなんども「うわ爆発した!」ってなるんで、ただ行って帰ってくるだけみたいなプロットの作品なのに大絶賛する。なぜか。さっきのベイとは真逆で、繰り返される爆発の一つ一つに意味があることとか、ただ行って帰ってくるだけみたいな話に実は重大な意味があることとかを無意識のうちに感じ取るんで、鑑賞中はその天才性をストーリーの意味を探ることに無意識のうちに向けてしまい、作品鑑賞に没入するからだ。

それでですよ、みなさん自分の経験振り返ってどうです? 無意識にやってることだけど、意味もなく繰り返される爆発の意味のなさを見抜いたり、繰り返されることに意味のある爆発の意味を感じ取ってるなんて意識はないけどいつのまにか映画に夢中になってたみたいな経験って、言われてみればみんな経験あるでしょ? だからロバート・マッキー大先生は天才としての振るまいがなってないやつには容赦がないし、分かってないやつに教えてやるみたいな偉そうなところはまったくなく、受講生とか教科書の読者とかを天才としてリスペクトして接することを忘れない。

なのに、俺がこんだけ話しても「別にあたしは天才じゃないし」みたいなひねくれた態度をとるやつが後をたたない。俺はそういうやつをみた途端にカチンとくるんで、即座にそいつを呼び出して徹底的に問い詰めることにしてる。

おまえちょっとこっち来いや。あ? うっせえ黙って俺の質問に答えろ。ちょっと聞くけどな、おまえ日本語ペラペラだけど一体どうやったん? いやそんなに日本語ペラペラなのは普通にすげえよ。俺なんか英語すらまともにわかんねえのに、おまえが日本語ペラペラなのはどう考えてもすげえだろ。どういう勉強したんだよ。正直に言えよ! ……は? 覚えてない!? なんでだよ!……ほんとにそんなにちいさいころに日本語おぼえたの? ノートとるとかもせずに普通に? マジで?……おまえ天才だろ

これは冗談でも誇張でもなく、科学的な根拠とかにもとづいて俺は確信をもって断言する。おまえまじ天才。人間が持つ無意識のパワは凄く完全に天才の領域にあるので、右も左も分からん赤ん坊ですら、言語によるコミュニケーションの喜びを自発的に求める正のフィードバックループを正しく構築してやる(つってもその中身は、赤ん坊がパパとかママとか言うだけで親が大喜びするとか、しまじろうと楽しく会話してるかのように錯覚させるとかのその程度)だけで勝手に学習し無意識のうちにガキのころには既に日本語をほぼマスターするレベルに達してるので完全に天才だ。それが誰も否定できない明白な事実だ。

んでこれは別に赤ん坊に限ってのことじゃなくて学習能力に関しては20代30代程度なら余裕で現役の天才だし、人によったらもっと年とったあとでも学習しようと思えば学習できるだろう。それに、爆発の意味の有無を見抜くスキルとかひとつをとっても、無意識のうちに学習さえしてしまえば、ほぼ死ぬまでそのスキルがさび付くことはない。

なのに俺らときたら、今じゃ英語ひとつろくに話せない有様だ。その原因はもちろんタルサ・ドゥームの支配だ。ためしに想像してみてみろ。もし俺らの一人一人がまるで赤ん坊のように言語以外の分野でもその天才的な学習能力を発揮しまくって、めいめいが好きなようにその才能を喜んで伸ばしまくったら、世の中はどうなるか。そして、タルサ・ドゥームはそんな世の中を好むかどうか。

いうまでもなくタルサ・ドゥームはそんな世の中はまっぴらごめんだ。タルサ・ドゥームが好む支配を続けるために必要な、支配する側される側みたいな区別があっというまに破壊されることが目に見えてるからだ。

だからタルサ・ドゥームは「教育」と称する、ガキどもに奴隷バー回転作業にも等しい無意味なタスクを課して天才的な学習能力を潰すシステムを構築した。この「教育」がたいてい無意味どころか時には有害なのは完全に証明されていて、たとえば英語ひとつとってみても、「教育」システムにおける英語の授業でやらされる内容は、英単語を暗記させるとか教室の中で生徒の一人を起立させて英語の教科書に書いてあるクソ面白くもなんともないテキストを読み上げさせるとか日本語のテキストを英語に翻訳させるとか逆に英語のテキストを日本語に翻訳させるとかの、どれもこれも英語の習得にはクソの役にもたたないタスクだから、こんなタスクをこなしたところでぜんぜん学習の効果はない。

そのうえタルサ・ドゥームは、「教育」で課されるタスクをガキどもが忠実にこなすかどうかを執拗にチェックし、ガキがミスを犯すとおまえはダメなやつだ出来ないやつだと執拗に罵る。テストの解答用紙に赤ペンでバツ印をつけたりする行為を通じてだ。

こんな扱いをされたら普通は学習の意欲なんかわくはずないし、「教育」で課されるタスクもはっきり言って普通はバカバカしくてやってられないが、それこそタルサ・ドゥームの狙いだ。タルサ・ドゥームからダメなやつだできないやつだと言われ続けた挙げ句完全に洗脳され、自分でも自分はダメなやつだできないやつだと思い込んでいつのまにか自分の天才を封印し学習することをやめてしまうやつが大量生産される世の中、それこそがタルサ・ドゥームの好む理想社会だ。ちなみに、「教育」で課されるバカバカしいタスクを何年も何年も忠実に実行し続けたやつは結果としてタルサ・ドゥームのおぼえめでたく世の中で「エリート」と呼ばれる存在になるが、じゃあそのエリートが偉いのかというとそんなことはなく、タルサ・ドゥームに従っておとなしく奴隷バーを回し続けてただけで全然学習はしてないので、やっぱりろくに英語もしゃべれないやつがほとんどだ。

そうはいっても、幸いなことに、ありとあらゆる分野について「教育」をほどこして天才を完全に潰しきるというのはタルサ・ドゥームにとっても不可能だ。だから、たとえば普通学校では「映画」の教育なんかしてないので、自然と爆発の意味のあるなしを即座に見抜くスキルとかを学習した天才は世の中にごまんといるという結果になった。これに対して、めちゃくちゃ腹が立つことにタルサ・ドゥームは「音楽」を教育しやがるので、その結果世の中のほとんどのやつは自分が音楽でも天才なのを知らないままだ。

だから俺の話を聞いてるみんなは今すぐ自分が天才だってことを思い出せ。個人差は多少あっても学習はいつでもいくらでもできるし、喜びを生み出す正のフィードバックループがきちんと構築されてる学習なら、その効果はだいたい天井知らずだ。そして、ロバート・マッキー大先生の本を読むとかの適切な学習を通じて天才だらけの観客や読者が大喜びする作品をクリエイトすんのも、簡単じゃないにせよ、できないことじゃない。

じゃあどういう作品だったら天才だらけの観客や読者が大喜びするのか。いろいろな考え方があるだろうしどれが正しいか間違いかなんていうのも意味がないけど、俺は俺なりに回答を出してみた。天才だらけの観客や読者が大喜びする作品とは「テーマ」に正面から取り組んだ作品だ


テーマに取り組め


こんなふうに正面切って堂々と言われると「そんなこと言ったって、『テーマ』なんかをアピールする作品なんか大抵つまんないし『テーマ』みたいな仰々しいものはおれのパルプには不要だね」みたいなことを言って「テーマ」に背を向けちゃうのがおおかたの反応。「テーマをこれ見よがしにアピールする作品は駄作」という普遍的な真理を天才性で見抜いてしまってるからです。

でもね、もうちょっとだけ俺の話を聞いてほしい。あのね、テーマは必要。絶対必要。「テーマをこれ見よがしにアピールする作品は駄作」っていうのが真理であるにもかかわらず、それでもなお、アツくエキサイトするパルプとかそういうのにはテーマがぜったい必要。なぜかっていうと、ストーリーの中でおこる大小いろんな出来事に意味が生まれるのは、ストーリーの根っこというか土台に「テーマ」があるからです。テーマこそがストーリーに「意味」をもたらす源泉であり、逆にいえば、テーマなきところに意味はうまれない。意味がないとどうなるか。天才だらけの観客や読者どもは意味のないストーリーに対して「意味ねー」とばかりに一斉に大きめの舌打ちをするだろう。とにかくやつらは意味中毒なんじゃねえかって俺は思ってて、あいつらときたら、ちょっとでも意味がなくなるだけで即座にイラついたりする。

んで、ジョージミラーとかの分かってる天才は、そういう「テーマ」の重要性を分かってる。それと同時に「テーマをこれ見よがしにアピールする作品は駄作」っていう真理も同時に分かってる。だからジョージミラーとかはどうするかというと、「テーマ」をストーリーの根幹にすえつつ、同時に「テーマ」があることを全力で隠す。その結果、めちゃくちゃアツくエキサイトする傑作であればあるほど、一見するとテーマなんてないように見える。そもそも観客や読者がわざわざ「テーマ」なんか意識する必要ないし、そんなもん意識させたら失敗作そのもの。

これがねー、タチわるいんですわ。「テーマをこれ見よがしにアピールする作品は駄作」っていう真理とあいまって、「真の男が好む真のパルプにはテーマなんて不要」っていう致命的な誤解を蔓延させる原因になっちゃってる。だけどね、俺の話をきいてるやつは大抵天才だから、もうこの時点で「テーマ」の重要性にピンと来て野生の勘で嗅ぎ回るモードに入ってるはず。そういえば……って、たとえばマッドマックスのストーリーとかを思い返すと、確かにそこかしこに「テーマ」の匂いがする。だけど匂いばっかりが充満しててチョー壮大なテーマがありそうな雰囲気なのに、じゃあそのテーマが具体的になんなんかって話になるとうまく言葉じゃ言えない。俺も何度もマッドマックスを観たりみかえしたりして何年も過ぎてるのに、うまく言語化できない。ジョージミラーのクリエイトがすごい証拠だ。

けどまあ、正直ジョージミラーはあまりにも天才過ぎてやりすぎの感もあって、大抵のアツいパルプはもうちょい親切設計です。どういうふうにやるかというと、ストーリーの冒頭で作品のメインテーマは一体何か、ってことを一回だけ誰でも分かるように見せつけたあと、その後はラストまでそんなテーマなんかなかったかのように見せかけ続ける

もうちょい具体例で説明していきます。ちなみに、さっきから俺がしている話もこれから続ける話もほとんどはロバート・マッキー大先生の受け売りとか入れ知恵なんで、相当信用できると思います。


テーマの仕組みとか機能


テーマにはメインテーマとサブテーマとがあるんですが、話がごちゃごちゃしすぎるので、ここではメインテーマに絞って単に「テーマ」って言います。

それで意味あるストーリーにはテーマが不可欠っていうのはどういうことかって話をすると必ずそもそもストーリーって何? って話になります。まあこれも人それぞれの解釈次第といってしまえばそれだけなのかもしれません。ある人はストーリーとはプロットであると言うかもしれないし、ストーリーとは登場人物のことだっていう人もたしかいた。それに対してロバート・マッキー大先生の入れ知恵を受けた俺の解釈はというと、

ストーリーとはプロットと登場人物がテーマを通じて統合されたもの

もうすこし詳しめに説明すると、よくできたストーリーの根幹には必ずなんかのテーマがある。人類の未来とかシーライフとかの壮大なテーマである必要はぜんぜんなく、愛だの勇気だのといった、なんかありふれててシンプル過ぎるようなので全然オーケーで、大抵の優れたパルプはシンプルなテーマを使ってる。なぜか。ありふれててシンプルなテーマっていうのは言い方を変えれば人類にとって普遍的なテーマだってことです。

んで、登場人物が劇中で行う行動すなわちアクションは、登場人物がテーマに対してどういうスタンスをとるかっていうこととリンクしてて、このスタンスになんらか影響を及ぼす出来事の連なりによってプロットが構成されることになります。

さて、ここで真のPROかどうかが問われる問題にぶちあたる。「登場人物がテーマに対してどういうスタンスをとるか」とか「スタンスがどう変化したか」みたいなことをどう観客や読者に伝えるのか。しかもテーマを隠したまま。

なさけないことに世の中には自分も観客も等しく天才だっていうことを忘れたままクリエイターを名乗った挙げ句、観客や読者を子ども扱いするみたいなやつが蔓延してる。そういうやつらは、↑ の難問にぶち当たるとすぐ尻尾を巻いて逃げる腰抜けで「テーマをこれ見よがしにアピールする作品は駄作」っていう真理すら分かってないので、そういうやつらの常套手段は、登場人物がしつこくこれみよがしにテーマに関していかにも説明っぽいセリフをなんどもなんどもしゃべったり、ひどいのになると演説をかましたりみたいなことを平気で延々と行うみたいなものになる。当然、天才揃いの観客や読者はそういう作品にぶちあたると「んなこといちいち説明すんなよ。バカにしてんのか?」ってすごい舌打ちするし、ロバート・マッキー大先生もすごい怒ったりする。

じゃあどうすりゃいいのか。鍵はアクションだ。言葉で表現するんじゃなくてアクションで表現する……ってロバート・マッキー大先生はすげえこともなげに説明してるんですけど、はっきり言って正直ロバート・マッキー大先生の説明もわかりにくいよ! 俺も理解するのに数年要したわ! っていうかほんとは今でもちゃんと理解してるかどうかは少し自信がない。

具体的にはこういう方法です。ストーリーを組み立てる時には、とにかくなんでもかんでも「象徴」を使う。テーマを象徴するキーアイテムとかテーマに関連して何回か劇中で繰り返されるパンチラインとかの方法もあるけど、一番よくあるのはテーマを象徴するアクション。主人公をはじめとした登場人物なんかも「象徴」の機能を持たせる。こうして何でもかんでも「象徴」におきかえちゃえば、当たり前っちゃ当たり前だけど、言葉でテーマに言及する必要はなくなる。

でね、言われなくても分かってます。この「象徴」っていうのがまたわかりにくいままでしょ? 文句言いたいでしょ? すぐ具体例で説明します。



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This time it's war.(今度は戦争だ)


はいまたバカのひとつ覚えと言われても『エイリアン2』です。俺にとっては教科書に等しいパルプの傑作にして金字塔だから何を言われても俺は気にしない。

それと今のうちに正直に白状しとくと、さっきから俺が愛だの勇気だのといった「テーマ」っていう言い方をしてるときの「テーマ」っていう言葉の使い方は、本家のロバート・マッキー大先生の言葉の使い方とは違ってる。ロバート・マッキー大先生は「テーマ」っていう言葉それ自体がなんか曖昧で気に入らねえみたいな考えをお持ちで、「愛」とか「勇気」みたいなのは「価値要素」と呼んで、真のテーマとはひとつの文であらわされる「統制概念」すなわち「冒頭の状況から最後の状況へ、人生がどんな理由でどのように変化するかを表す」文だっておっしゃってます。「最初はタルサ・ドゥームの奴隷だった主人公だけど、真の蛮人として覚醒してタルサ・ドゥームに立ち向かったので、正義が勝利する」みたいな文。

でも俺としては、そういう厳密な分け方とか定義とかがそこまで必要か? ってどうしても思ってまして、大事なのは、なんか曖昧でも「テーマ」なりを使って具体的にどういう方法で面白いストーリーに仕上げるかだと思ってるんで、これから話す説明も愛とか勇気とかをなんか適当に「テーマ」と呼んで説明していくことにします。

で、なんの話だっけ? はいはい。なんでもかんでも「象徴」にしてストーリーを組み立てる方法、特にテーマを象徴するアクションって何? って話。いきますよー。

まず『エイリアン2』の最初のほうで誰でもわかるようにリプリーのチェストバスター死の悪夢で示されるテーマは「恐怖」。エイリアンどもはこの「恐怖」そのものだし物語の最初の時点では、リプリーは自分の心に巣くう「恐怖」に囚われた、これまたある種の象徴だ。

で、ここで、劇中何度も何度も繰り返されてありふれすぎてて、「恐怖」つまりテーマに対するスタンスとかその変化の象徴だと分からないような、ありふれたアクションを選ぶ。なんかすげえややこしい話に聞こえるかもしれないけど、実際にはアホみたいに単純な話です。『エイリアン2』の場合、この象徴としてのアクションとは「エイリアンと戦う」

いや待って落ち着いて! もうちょい話聞いて! この場合、アホみたいに当たり前の、劇中で繰り返されるアクションなのが重要なんですよ。そうすれば、これみよがしに「このアクションは象徴ですよー」みたいにアピールしてしまって失敗するのを避けられる。ここで間違ったアクションを選んじゃって観客に「うわこれっていかにも象徴っぽいな」って気付かれると、とたんに舌打ちが飛んでくる羽目になる。

いやこの基本方針は思ってるよりも結構重要ですよ。もし自分が『エイリアン2』を作る立場だったら……って想像してみてください。「エイリアンと戦う」がガンガン連続する作りと、なんかバトルばっかりだと飽きられるかもみたいな心配をして、「エイリアンと戦う」を減らしてかわりに恋愛のシーンとか議論のシーンとかそんなのを入れてく作り、どっちがうまくいきそうか。

結論から言うと、もちろんだけど、「エイリアンと戦う」が多ければ多いほど良い。実際の『エイリアン2』をみれば一目瞭然。

まず最初、リプリーは、エイリアンが巣くう小惑星LV-426に自分の意思で戻るという決断を下す(心の中での「エイリアンと戦う」はもう始まってる)

次にリプリーは、エイリアンの群れにアンブッシュされ壊滅状態の海兵隊を救うため、自らAPC(装甲兵員輸送車)を運転して戦いの中に突撃する(生身はさらしてないがエイリアンとの実戦に自ら参加する)

海兵隊を救ったのもつかの間、籠城戦を強いられることになったリプリーはタルサ・ドゥームの計略にはまり、フェイスハガー(幼虫みたいなもん)のいる部屋に閉じ込められてしまう(受け身の戦いであるものの、生身をさらしてサヴァイヴする戦いをやり抜く)

そうこうしてるうちにとうとう防壁が破られ、なだれ込んでくるエイリアンの群れに追われつつリプリーたちは撤退戦を強いられる(成虫として立派に成長したエイリアンとの初戦闘)

だがここで思わぬ悲劇が。撤退戦の途中でリプリーは例のちびっ子ニュートとはぐれてしまい、ニュートはエイリアンの巣へと連れ去られる。リプリーはただ一人、エイリアンの巣にあえて舞い戻ってニュートを救うことを決断する……(一人でエイリアンの群れに戦いを挑む)

……っていうふうに、あ、ここ、わかります? こういうふうに時系列で「エイリアンと戦う」を並べると、「エイリアンと戦う」の難易度がだんだんと上昇してってるっていう点は、当たり前のように見えてすごい重要で、「運良く途中でエイリアン特効属性付きの武器が拾えたから無双する」みたいな「エイリアンと戦う」の難易度を途中で下げることはぜったにしない。しちゃだめ。

リプリーが「エイリアンを戦う」というアクションをすればするほど、皮肉にも逆に「エイリアンと戦う」ことのハードルがどんどん高くなる一方。それでもリプリーがめげずに「エイリアンと戦う」決断をするたびに、その表情だけでどんどんでかくなる一方の「恐怖」にとことん立ち向かってることが物語られる。で、観客にはそれだけでばっちり「エイリアンと戦う」ことのその意味ってやつが伝わる。

だからストーリーの途中で、リプリーがいかにどでかい「恐怖」に立ち向かうのかについて、セリフで直接説明するみたいなことはしなくていいというかぜったいに避けるべきだ。「だからそんな説明されなくっても分かってるってんだろ!」って観客にキレられるだけだ。

そんな説明をしなくても、リプリーがただ一人、エイリアンの巣穴に降下するエレベーターの中で最終決戦装備をととのえながら無言で覚悟を決めるときのあの表情と立ち姿からはほとんど人間離れしたオーラが放出され、観客は「これが、これほどの恐怖に挑む者が放つオーラか……!」って無意識のうちに直感的に感じ取るので、めちゃくちゃエキサイトする。そうしてリプリーがパルスライフルをぶっ放したり火炎放射で焼き払ったりエイリアンクイーンを正面からにらみつけたりするたびに観客は大喜びする。そのアクションに意味が満ちあふれてるからだ。

こうして無事ニュートを救出して降下艇に乗り小惑星LV-426を脱出、母船に戻ったリプリーと僅かな生存者。だがしかし、エイリアンクイーンも意地を見せて母船に戻る降下艇にしがみついていた……もはや逃げ場なしの絶体絶命、どうするリプリー! っていうかこれってちょっと難易度上げすぎじゃね? と、ここでリプリーが一瞬姿を消す。まじでどうするつもりだ!

だが再びリプリーが姿をあらわしたとき、何の予備知識もない初見の観客は間違いなく一瞬呆気にとられる。そして次の瞬間即座に理解してその意味を悟る。リプリーがパワーローダーに搭乗して仁王立ちしているからだ……ほとんど荒唐無稽すれすれの、完全に観客の予想の斜め上をいくリプリーの決断……マジか……こいつ、クイーンと正面から殴り合うつもりだ……!

あっここで便利な豆知識。伏線ってあるじゃないですか。んで伏線とは何かみたいな説明ってなんかややこしいけど、実例を使えば一発で理解出来る。「伏線とはパワーローダーだ」。ストーリーの最初のほうでリプリーがパワーローダーに乗って働くシーンを入れておく。それに何の意味があるのかについては観客には「お、リプリーのやつ、周りからなんか言われてもめげずに頑張っててえらいえらい」くらいに思わせといてわざと放置する。そしてクライマックスでパワーローダーを説明抜きで再登場させるからこそ、観客はその意味をおのずと悟ってエキサイトする。

ってこういうふうに、「恐怖」っていうテーマ、それに対するスタンスを象徴する「エイリアンと戦う」っていうアクション、それをひたすら実行しつつもその難易度をどんどん上げてく一方にするっていう基本を忠実に守り続けた結果、しまいには「恐怖」に立ち向かうっていうことのその意味は、神話級にものすごい偉大な意味を持つまでにインフレする。んで観客はその偉大さに打ちのめされて感動する。

こういう俺の説明はもしかしたら、なんか当たり前のことを言ってるだけに聞こえて、「象徴」だのなんだのはべつにどうでもいい余計な説明に聞こえるかもしれないけど、もしそう思う人がいたら、こう考えてみて。もし『エイリアン2』の主人公がドゥエイン・ジョンソンとかで、エイリアンに対しては別に恐怖も何も持ってなく、「エイリアンと戦う」は別に何も象徴していないっていう作品に作り替えたら……

ね? すぐ分かったでしょ? バトルの連続でエキサイトする作品と、バトルばっかりで飽きるって言われるような作品では一体どこが違うのかっていうと、ずばり、「バトルを通じて繰り返されるアクションが、テーマとの関係で象徴となるアクションになってるかどうか」なんです。こういうふうな仕組みを通じて「テーマ」がアクションに意味をもたらすんです。だからこそ、「テーマ」のあるなしは、アクションに意味があるかそれとも意味がないかに直結する。「テーマ」とかそんなのややこしいぜバトルだけしてりゃいいだろみたな手抜きをすれば、観客や読者から「なんか途中からバトルが全然意味ねー」の舌打ちが飛んでくるだけ。いやほんと、これすごく大事。当たり前のような基本のきがいかに大事かっていうことですよ。

で、相変わらず説明が長くなっちゃいましたけど、「テーマ」をこんなかんじで解釈するのがけっこうツールとして使いやすいので今んとこ俺はこの解釈を使ってます。まあ前におんなじ『エイリアン2』を題材に話したことと同じ話を別な角度から話してる感は俺自身も自覚してますけど、使えるツールはあればあるほどいいと思ってるし、優劣つけるのも無意味で、もっと使える良いツールが見つかったら乗り換えれば済む話なんで、俺は別に気にしてません(因みに俺の座右の銘は「君子豹変」だ)。

それじゃ何で似たような話を別角度から繰り返すみたいなことするのかというと、「テーマ」とかそういったストーリー構築のためのツールはそれぞれ役割分担して使うというか応用範囲みたいなのに違いがあるんで、適材適所で使ってけばいいと思うんですが、今回はそういうツールを使っていかに楽をするかってことも考えてきたいと思います。

だから今回、俺は「テーマ」を使って最初の方に話した例のディズニーの微妙な出来のやつに対する改善案を考える。


俺が考えた最高に面白いラーヤ(以下略)


なんでわざわざそんなことをすんのかっていうと、実はめちゃくちゃ俺にメリットがある明確な理由があります。

一般的に言えることだと思うんですけど、自分の頭だけで自分のオリジナルの作品とかのアイディアを出そうとしてもまあたいてい全然アイディアが出てこない。普通そんなにポンポン簡単にアイディアなんか湧いてこない。それなのに、他人の作品にダメ出しするときは、容赦なくツッコミが連続で入れられる結果、そのツッコミに基づく改善案としてのアイディアがすごく簡単に湧いて出てくる。

だからこれは結構使える創作ハックとしてみんなも使ってみてほしいんだけど、なんかビミョい出来の作品を見つけたら、楽して自前の作品のアイディアを手に入れる大チャンス。ツッコミにツッコミまくって容赦なく改善のアイディアをだしまくって、そのアイディアを使って元の作品のストーリーやキャラ設定やプロットを改善しつつ、キャラのルックとか舞台設定とかのガワを変えてしまえば、自前の作品のアイディアとしてパクることが可能だ。

え? いや別にパクって何が悪いの? パクり元がなんなのか観客や読者にすぐにはばれないくらいガワ変えて、あとは先手を打って元ネタのことを「インスパイア元」とか先に言及もしとけば基本叩かれないし、改善後の方が元ネタより出来がよければ普通誰も文句言わないでしょ? 

それにそもそも、人類なんて昔から飽きもせずにワンパターンの神話や英雄譚を語り直すことをずっと繰り返してて、たとえばこないだNetflixでみた『ブリジャートン』がかなり面白くて俺は相当感心したんだけど、これだって意地悪なこと言えばジェイン・オースティンから大して進歩がなくてむしろジェイン・オースティンにインスパイアされましたみたいなことを先手を打って公言してるようなやつだけど、それがパクりだとか言って怒ってるやつは特にいないし、ジェイン・オースティンその他のなんか昔からあるワンパターンのやつを多少改変した程度でも面白けりゃ誰も文句言わないってことです。なんかパクるのは気が引けるみたいな罪悪感なんか持つ必要まったくなし! 信頼なんて別にどうだっていいじゃん世の中食うか食われるかだろ甘いこと言ってんじゃねえよ!

まあそういうあまえんぼちゃんはほっといて先に進む。要はだ、小手先の改変にとどまってて別にたいして面白くなってないようなやつがパクりとして叩かれるんであって、改善のためのアイディアを自分で考えた結果パクり元よりも数段面白いくらいのやつを目指せばいいってだけなんですよ。

んで、こういうときは、微妙な出来の作品を選ぶこと! どうしょうもない駄作を改善しようとしても無駄で完全に一からオリジナルのアイディアを出すのといっしょになってしまって、全然楽できない。ちなみに、誰もが認めるチョー面白い傑作は思わずパクりたくなってしまいがちだけど、そういうのは逆にチョー面白い傑作をさらに面白くするアイディアなんか普通出てこない結果、パクったところで劣化コピーのパクりができあがるだけで、パクりだパクりだと叩かれる羽目になる。

まあ説明はこんくらいにして、そろそろ実践にはいります。

あ、あと例のラーヤ(以下略)のネタバレは当然のように含まれます。なるべく元ネタを生かすようにしないと楽できないし。



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“ひとりぼっち”じゃ、世界は変わらない―
彼女の名はラーヤ。
バラバラになった世界の“最後の希望”。
自分だけを信じ、“ひとりぼっち”で生きてきた彼女は、
“伝説の龍”の魔法を蘇らせ、仲間を信じることで、世界を取り戻すことができるのか?


ストーリー


その昔、この王国は聖なる龍たちに守られ
人々は平和に暮らしていた
邪悪な魔物に襲われた時
龍たちは自らを犠牲にして王国を守ったが
残された人々は信じる心を失っていった…
500年もの時が流れ
信じる心を失った王国は、再び魔物に襲われる
聖なる龍の力が宿るという<龍の石>──
その守護者の一族の娘、ラーヤの旅が始まる。
遠い昔に姿を消した “最後の龍”の力を蘇らせ
再び王国に平和を取り戻すために…

(以上、公式サイトから引用)


「だからおまえは微妙に駄作くさいんだよ」って言いたくなるような作品紹介の見本ですね。「ストーリー」といいながら「その昔、この王国は聖なる龍たちに守られ」だのなんだの延々と設定ばかり開陳するうえ、やたらとしつこくテーマである「信じる」を強調する。しまいには「彼女は、“伝説の龍”の魔法を蘇らせ、仲間を信じることで、世界を取り戻すことができるのか?」なんて言い始めるのでどんなバカでも、「ああ、これは“伝説の龍”の魔法を蘇らせてラストで仲間を信じることで世界をとりもどすんだな」と観る前から予想がつき、実際の内容はその予想から外れる部分がまったくない。

あのね、「彼女は、“伝説の龍”の魔法を蘇らせ、仲間を信じることで、世界を取り戻すことができるのか?」っていう文章を読んで理解出来る程度の年齢であれば、既に誰でもさっき言ったような天才揃いの観客のひとりですよ。ディズニーはそんなことも分からずに客を見下しまくってるから、「客はバカばっかりだから丁寧にいろいろ説明しないとりかいしてもらえないにちがいない」とか根拠もないのに思い込みだけで決めつけて、挙げ句、さっき引用したような逆に自分たちが無能そのものであることを露呈するような公式サイトがネタバレ全開みたいなことをして、それがいかにブザマなのか自分では一向に気付かない有様です。

……ってまた愚痴モードになっちゃったんで修正してきます。もうみんな分かってると思うけど、良い作品とダメな作品の違いは大抵、「アクションでテーマをみせてるか、それともセリフとかでテーマを説明しているか」です。だからこそ、さっきから繰り返してるとおり、「テーマ」につながる象徴的なアクションを、これまた「テーマ」を象徴する主人公その他が手を変え品を変えて繰り返しつつ、主人公が直面する試練のハードルを上げていくっていうのが大事なんです。

それじゃ、ストーリーの主軸を担う主人公から検討してみましょうか。


ラーヤ

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こいつがねー、一体なにをしたいのかっていう切実な欲求とかそういうのが全然観客に伝わってこないし、なんか見た目はタフっぽくして剣とか格闘技も強いけど実は元プリンセスみたいな設定が貼り付けてあるだけにとどまってる。うすっぺらい。やることなすこと全部スケールが妙にちっちゃくて、みてて心がうごかされない。セリフやアクションからこいつのキャラクターの深い部分が自ずと観客に伝わるみたいなのがちっともない。ガキのころに自分の国が滅んでから6年経過って設定ですけど、じゃあその6年間の空白期間は一体なにをやって食ってきたんだ? てかそもそも今は普段何して暮らしてんの? みたいな基本的なバックストーリーすら観客には全然伝わらない。というか、そういうバックストーリーとかを膨らませてないからキャラが薄っぺらくなるし、「キャラクターの深い部分」ってやつが欠如するはめになる。

じゃあこいつをどう料理するか。これはみんな覚えといて。こういうとき常に問うべきは「こいつは一体何をしに出てきたのか」です。これを常に問う。主人公だけじゃなく他のキャラも同様

みんなも分かるでしょ? 微妙な出来の作品って、必ずと言っていいほどなんか意味もなく出てきたようにしか見えない「こいつ何しに出てきたんだよw」って言いたくなるやつが出てくるでしょ? これね、まさに ↑ の問いをおろそかにしてる証拠。

んじゃ具体的な検討に入ろう。やるべきことは「こいつは一体何をしに出てきたのか」を「テーマ」との関連で考えること。考える順番とか仕組みとかを知ってれば誰でもできる。

で、「こいつは一体何をしに出てきたのか」 答えはきまってる。「アクション」だ。どんなアクションを? もちろん、「テーマ」との関連でそのキャラのスタンスを象徴する、劇中で繰り返されるアクションだ。じゃあそのテーマとは? 公式サイトが強調してるとおり「信じる」だ。で、結局、「信じる」っていうテーマに対するスタンスを象徴するアクションって一体なに?

あ、ここでさっき説明してなかったけど、テーマに関連して云々のアクションには表と裏がある。さっきの『エイリアン2』だと「エイリアンと戦う」が表なら「エイリアンから逃げる」が裏になってて、どっちのアクションも主人公その他がどっちを選択し、あるいは決断するかによってテーマの重み(エイリアンの恐怖のすごさ度やそれに立ち向かうことの偉大さ)とかその後のアクションの難易度が変化してく。それと、この表裏は二者択一じゃなくって混ぜることが実は可能で、『エイリアン2』でもエイリアンと戦いながら逃げるとかそういうブレンドを実は細心の注意をもって選択してる、ってのが俺の見立てですね。

さて、ラーヤのほうに話を戻すと……「信じる」っていうテーマに対するスタンスを象徴するアクションって一体なに? っていう問いはまさにストーリーの根幹にかかわる。こいつにどう答えるかによってストーリーの基本的な流れが左右されるし、アクションを担う主人公その他が具体的にどういうアクションを選択してその結果どういうキャラクターとして観客の前に示されるのかが決まる。ほんとに熟慮を要する……けど、あまり深く考えずに、ポッと出てきた当たり前すぎるアホみたいな回答が実は最善ってことも多い。「エイリアンと戦う/逃げる」みたいな。ちょっと考えさせて。


……


……


……「手に入れる/手放す」だ。このアクションは「盗む」「奪う/奪わない(あるいは与える)」「求める/あきらめる」等々、いろんなバリエーションとして主人公をはじめとするいろんな登場人物に手を変え品を変え繰り返させることができる。これだ。我ながらいいアイディアが出てきたときの、ひとつポイントがビシっときまったら他の要素も芋づる式にビシバシ決まってくあのゾーン到来の匂いがする。

っと、ここでサブテーマも検討しとく。これまたキャラ造形とかストーリーの根幹にかかわってくる。これもいくつかポッと出てきたやつを候補に並べて、メインのテーマや主人公との相性が良さそうなのを選べばいい。たとえば主人公がぱっと見美人キャラみたいな美人であれば「美しさ」をサブテーマに採用して、その関連で「真の美しさとは何か」を問われる試練に主人公が直面する……みたいなサブストーリーを展開させることが可能になる。それでクライマックスで、メインストーリーとサブストーリーが噛み合って複数のテーマに一挙に回答が出されるみたいなのができたら理想っすね。

っていうか、これもあまり深く考えずに決めちゃいましょう。どうせ後で変更してもいいし。俺の案は、ひとつは「強さ」(メンタル面に着目して言い換えると「勇気」)、もう一つは「ディズニープリンセス」(これはメタ要素なので取り扱いには注意が必要)。以上を使って主人公のキャラ造形とストーリーの根幹を決めてく。

さて、ここでまたロバート・マッキー大先生の受け売り。キャラ造形のレイヤーには

1 ルックとか言動とかの表面的な要素(いわゆる「テクスト」だ) 

2 1から伝わってくる内面的な要素(いわゆる「サブテクスト」だ) 

3 でも実は2ですら本当は自分で自分を偽ってるにすぎないとかのきつい展開すらもたらしうる、その登場人物自身が意識してなかったり、あるいは否定しようとする隠れた真の欲求 

以上の3つのレイヤーがある。

こんな話ややこしすぎる? そこまで深く考える必要ない? いやいや、ここは俺を信じて。さっき言った3つのレイヤーがビシッと決まった主人公やその他の登場人物が出来ることで、ストーリーもまためっちゃ盛り上がる

例えば『スラムダンク』。かなり昔の作品だけど、名作ってことで読んだことがある人も多いはず。まあみんな『スラムダンク』読んだことあるって前提で話すすめる。

さてその主人公である「桜木花道」。湘北高校に入学したばかりの、赤く染めたリーゼントでフィジカルにも恵まれてる暴れん坊ヤンキー。フィジカルがどれだけ恵まれてるかというと、ジャンプ力がありすぎてダンクシュートに失敗するほどだ。だがその失敗をヒロイン晴子から絶賛されるとあっというまに晴子に惚れ、晴子に好かれたいという不純な動機で(実はバスケが大嫌いなのに)バスケ部に入部、裏主人公である流川に出会ったとたんに衝突するところから物語は始まる……

さて、みんなここであらためて、意識して、桜木のルック、桜木のしゃべり方、桜木が作中で選択するアクションってのがどういうものだったか、振り返ってみてください。

見た目はさっきも言ったとおりのフィジカルに恵まれた赤リーゼントのヤンキー。バスケ初心者のくせして「天才」を自称してはばからず、部長をはじめとするセンパイたちまでゴリだのなんだのと勝手に失礼なあだ名で呼ぶとかしてとにかく遠慮なし(と思ったらなぜか女キャラ相手だと必ず「さん」付けで態度も過度に遠慮がちだ)。流川とは何かといがみあう。なにせ憧れの晴子さんが流川に絶賛片想い中なのだ。なのに流川は晴子さんすら邪険に扱ってバスケ一直線。流川は桜木にとって絶対に負けられない相手となる……かくして、さっさと自慢のフィジカルで大活躍しようというもくろみは一時封印、完全初心者向けの地味な基礎練を命じられると、ブツクサ言いながらも結構まじめに練習に打ち込む……

って、ここでですよ、みなさんも自分自身を振り返ってみてどうです? こういう桜木のルックや発言や行動だけで、説明がなくても桜木がどんなやつなのか、っていうさっきの2のレイヤーの部分、豪快で破天荒でありながらもなんか妙に義理堅く真面目な面もある、その根幹にあるのは、一種の負けず嫌い? それとも?……っていうある種の矛盾もかかえた桜木の内面ってやつが読者にばっちり伝わってるでしょ? まあそんなこと普通のやつはいちいち意識して考えて言語化して読んだりしないしそんなことをするやつはまず間違いなく俺と同類のバカですけど、それでも、みんな例外なく、無意識には伝わってたでしょ? 「桜木の内面なんて意識して考えてたことなかったけど、言われてみればそのとおりだ」って思ったでしょ?

これこそが、本当に面白い作品の特徴です。説明抜きでも読者にはきちんと伝わるって信じ抜いた上で、作者が細心の注意を払って、主人公その他による目に見えるアクションや言動とかの「テクスト」で読者にどんな「サブテクスト」を伝えるのか、っていう部分にこだわりぬいて、とことんクリエイトする。そういう作者の読者に対する信頼こそが、名作を生み出す。「安西先生……バスケが したいです」っていうセリフと表情の変化だけで、そのキャラの内面に渦巻く万感の思いが読者に伝わって読者号泣。別にそのキャラが何を思ってるのかいちいち長ったらしく叫び続けるようなダセえ説明台詞なんか全く不要で、たとえ読者自身が意識してなくても、無意識のレイヤーでバッチリつたわるんです。むしろ読者に意識させちゃったらダメ。さっきから何度も言ってるとおり、観客とか読者とかはどいつもこいつも天才そのものの洞察力を持ってるんで、わざわざ考えなくても無意識のうちに洞察しちゃうんです。

さて『スラムダンク』、話が進めば進むほど、読者はどんどん引き込まれていく。なぜか。最初の不純な動機はいつのまにやら忘れたかのように桜木は徐々にバスケの魅力に引き込まれてゆく。地道な練習をすすんでこなすようになり、試合に負けて悔し泣きするようになり、そして基本のジャンプシュート2万本みたいな過酷な特訓を仲間たちと乗り越えて心からの歓声を上げる……ってこういうストーリーの中で桜木がやることなすことや強敵たちとの戦いとかを通じて、桜木は変わってく。途中でボウズにするみたいな展開もあるけど、何より桜木の内面が劇的に変化してく。その内面の変化が読者に説明抜きでばっちり伝わってる。そういうのが伝われば伝わるほど、読者は無意識のうちに夢中になってしまう。誰しもが、思わず心の中でツッコミを入れたりちゃかしたりしつつも、桜木を応援せざるを得ない。

そして内面もさることながら、数々の激闘や過酷な特訓を通じて、桜木のバスケの実力は急激に成長する。単に修行したから強くなったんで無双するみたいな見せかけの成長じゃなく、さっきも言った内面の変化とリンクした真の成長だからこそ、桜木が戦い、成長し、そして成長によって勝利したりすることが読者をエキサイトさせる。

こうして、ただの初心者だった桜木が徐々にチームに受け入れられ、信頼関係が生まれ(だけど流川とは仲悪いまま)、いつしかチームの欠かせないメンバーの一人になることで、湘北高校はついにインターハイに初出場する。初戦は順当にいかにもカマせみたいな感じ悪い敵(それでもなお、ただ感じ悪いだけにとどめない丁寧さが作者の力量を証明してる)を倒すも、なんといきなり二回戦で激突する相手は、ラスボスこと最強山王……いやちょっとまって。そこは普通トーナメントを勝ち上がりながら桜木とチームがもっと成長してって、十分に強くなったところで決勝で日本一をかけてラスボス山王と戦うべきでしょ? それをいきなり二回戦でラスボスと戦わせちゃうなんて作者なに考えてんの? こんなんあっさり湘北が負けるだけでしょ。もしなんか奇跡とかが起きて山王に勝ったところで、その後のトーナメントは実質消化試合になって全然盛り上がらないのは目に見えてるのに、ほんとに一体どうすんの? まあ、とりあえずは、作者のお手並み拝見といきますか……

……ほーらいわんこっちゃない。あっという間に20点差とかつけられちゃって、これはもうボロ負け確定っすわ……いや、その粘りは凄い……凄いけど……まさか……まじでこれ奇跡が起きるんか……ほんとに? だけどそのために桜木の背中のケガまで悪化させちゃって……選手生命の危機って……いやそれはさすがにシャレにならんだろ……いやもういいって桜木。もうおまえは十分がんばった。俺らはもう十分感動させてもらったよ。だからもうあきらめてもいいって。な? ってタイミングで作中屈指の名言!

オレは今

なんだよ!!

と、ここで唐突にコート上の流川がプッシングのファウル。時計が止まった隙に流川は桜木を挑発、これが桜木の燃料になって改めて桜木が燃える……スーパープレー連発で山王の得点を阻む! 阻む……! いける! いけるって! まじで勝てる! 勝てるぞ! 勝てるッて信じろ! あきらめるなッ! いけーッ!


っていう感じで読者の興奮が最高潮に達したところで、例の誰もが知る伝説のブザービーター決着シークエンスが始まります。会場内の応援の声はもはやめいめいてんでばらばらの絶叫と化して会場を揺るがし、あたかも、会場まるごと無音の空間に放り込まれたかのよう。一時は湘北が奇跡の大逆転を果たしたものの、王者の意地を見せる山王が再逆転。湘北がさらに決めれば再々逆転勝利だが残り時間は10秒未満という、まさに絶体絶命。桜木激走。ボールはチームのエース流川の手へ……残り2秒……だがシュートを試み跳ぶ流川は、空中で二人がかりのブロックに阻まれる……その時。

ノーマークの桜木。その表情は……この緊迫した状況だってのに、なぜか威張ってるかのような、なんともいえない妙な表情。それにその手のポーズは何……? と、こんなふうに表情も仕草もなにもかもがチグハグなまま、桜木は唐突に一言、こうつぶやく……


はいみなさん! 声をそろえて一斉に! せーの!



ひだりてはー! そえるだけー!




……桜木のつぶやきに流川は刮目……残り1秒……決断! シュート体勢を一瞬で切り替え桜木にAirめいた滞空パス! ジョーダン! 

そして……ボールを受けた桜木が放つのは……基本のジャンプシュート! 

……ほぼ同時に試合終了のブザー……ボールの行方は……

……入った……勝っ……いやまだだ……! 桜木のシュートと試合終了のブザーがほぼ同時……ボールデッドであえなく敗北かそれとも……審判の判断は……

有効! 有効だ! そこまで力いれんでいいだろってくらいの渾身のジェスチャーで審判が得点認めて笛! 劇的ブザービーター成立! 湘北の勝利! ラスボス敗北! 奇跡が、生まれた……

……衝撃の結末に誰もが思考停止状態に陥る中、桜木は流川に呆然と歩み寄る……棒立ちのまま待ち受ける流川……ついに正面から向き合い……二人は……思わず咆吼ハイタッチ! 直後にそろって後悔! そして……! 

その時だ! 赤木たちが歓声とともに二人に襲いかかる! 続いて一斉にコートに雪崩れ込むベンチの面々! 桜木たちを取り囲む笑顔、そして泣き顔……安西先生はベンチに残ってただ一人、コートのみんなと心をひとつにしてひっそりとバンザイ! かわいいね! そしてその光景を見つめる晴子は、ただ無言で涙を流しながら、一点の曇りもない純粋な歓喜の笑み……つられて読者号泣……! やったぜ!


こうして伝説のクライマックスで読者を感動の渦に巻き込んだのち、物語は、3回戦であっさり湘北が負けてインターハイ終了というなんともあっけない終わりを迎えます。だけど読者は全然バッドエンドだとは思わず、かといって手放しのハッピーエンドというわけでもない、複雑な余韻のエンディングです。ジャンプらしさのかけらもないとたびたび言われるこの終わり方が読者は不満かというと全然そうではなく、こんな負けエンドなのに、なぜかほとんどの読者は大いに満足しています。なんで? 

って、ここでようやく、俺が長々『スラムダンク』の話をしてる理由につながる。俺は一切脱線とかしてない。みくびるな。俺は真のPROの自覚がある真の男だ。

さっき俺が、ロバート・マッキー大先生の受け売りで偉そうにキャラ造形には3つのレイヤーがあるとか3つのレイヤーがビシッと決まった主人公やその他の登場人物が出来ることで、ストーリーもまためっちゃ盛り上がるとかそういう話したでしょ。んで『スラムダンク』は桜木のレイヤー1のアクションとか言動で桜木のレイヤー2の「サブテクスト」っつうか内面とかのいろいろがきちんと読者に伝わる作り方を徹底してるから面白いって話もした。ではここで、みんなもいっしょに考えてみよー

桜木のレイヤー3、つまり、桜木自身が意識してなかったり、あるいは否定しようとする隠れた真の欲求って、一体なんだと思う?

なんでそんなことを考えるのかって? さっきもいったとおり、これがまじでストーリーの盛り上がりに直結するからです。あとでまた説明します。



さて、みんな考えてみた? 俺みたいなバカでもない限り普通そんなことわざわざ意識してマンガ読んだりしないから考えてもなんかもやっとして言葉にできない人が多いかな? それとも逆に、なんとなく結構前からぼんやり分かってたけど、あらためて考えてみると……って答えにすぐ到達した人のほうが多いかもしれない。でも俺みたいなバカになるつもりがないんならどっちでもオーケー。どんな読者にも『スラムダンク』の内容は無意識のレイヤーでバッチリ伝わってるから、俺が答えをズバリ言ったら「そうそうそれそれ!」ってなるはず。

もし桜木に「これがおまえの隠れた真の欲求だ」って突きつけたら桜木はぜったい必死になって否定するし、もしかしたらいきなり逆上して殴りかかって来るかもしれない、それなのに読者のほぼ全員が「そうそうそれそれ!」ってなる隠れた真の欲求、それは……


(ドラムロール)


流川に認められたい


言いかえれば「流川からパスがほしい」とか「流川から無視されたくない」っていう欲求です。どうですかみなさん……ってあれ? 思ったより首かしげてる人が多い? んー俺としては考えに考え抜いた挙げ句この言語化に至ったのに納得してもらえないのはなんか悔しいから、もう全員に納得してもらえるように説明してみる。

結構前に俺がさんざん「テーマ」について話したのっておぼえてる?……さすがに忘れてるよね。もう一度、今度はスラムダンクのテーマについて考えてみる。

スラムダンクのメインテーマはずばり「ライバル」です……ってこれも納得いかない? んーどうしよ。じゃあこんなふうに説明すればいいかな。さっき俺が話した中で、面白いパルプはどうしてテーマがないように見えるのかみたいなことを話してるときに、俺がこんなこと言ったのを覚えてる?『エイリアン2』とかの面白い作品のつくりの特徴として、こう紹介したでしょ?

ストーリーの冒頭で作品のメインテーマは一体何か、ってことを一回だけ誰でも分かるように見せつけたあと、その後はラストまでそんなテーマなんかなかったかのように見せかけ続ける

思い出した? それでね、実は『スラムダンク』は、これをそのまんま実行してる。桜木と流川が出会うといきなり衝突、桜木にとって絶対に負けられない相手が出来る……っていう形で真っ先に「ライバル」のテーマを見せつける。で、こっから本格的にストーリーが始まるんだけど、作者はほんとただ者ではない。俺みたいな素人はすぐに「『ライバル』がテーマなんだから、話を盛り上げるには、桜木と流川がしょっちゅう派手に衝突しまくればいいんだな!」って思っちゃうんだけど、実際に作者がやったのは全く逆。二人の間では、ことあるごとにしょーもない意地の張り合いをする冷戦状態が延々続く。そして表面的なプロットの中心は練習や試合を通じた桜木の変化と成長、そしてインターハイを目指す湘北の運命に移って、「ライバル」のテーマなんかなかったかのように見せかけ続ける。んで、いつの間にか読者も、「ああそういや流川はライバルだったよな」くらいの意識になってる。

でね、みんなここで意識して振り返ってみて。練習やら試合やらの中で幾度となく、正面きって衝突みたいなことはせずとも、ことあるごとに繰り返し、いかに桜木と流川の仲が悪いかを見せつけるシーンがたくさんあったじゃないですか。で、それを読んでるときの自分自身の反応ってどうでした? 「うわーこいつら相変わらず仲悪いなー」っていうしかめっ面? それとも「うわーこいつら相変わらずだなw」っていうニヤニヤ? ストーリーの途中からはほぼみなさん全員後者の反応だったでしょ? そんで、仲悪いアピールの変化球で、例のヤンキーもの定番大規模多人数ケンカバトルの終盤で、シリアスまっただ中だってのに桜木が唐突に「これは流川の分(ぺち)」なんてことするもんだから、みんな思わず大爆笑しちゃったでしょ? なんで? なんでこんなにも仲悪いアピールでにやついたり爆笑しちゃったりするんだろ?

そしてさっきも話した伝説のブザービーター決着回。その興奮の頂点は桜木が流川に向けてつぶやいた究極の名台詞「左手は そえるだけ」で訪れるし、感動の頂点は桜木と流川のハイタッチで訪れて読者は全員号泣する。いいですか? 読者は湘北の逆転勝利っていう勝ち負けよりも、「左手は そえるだけ」やうっかりハイタッチっていう桜木と流川との間のコミュニケーションに対して、より強く感情を反応させてる

これこそ、作者のほとんど神がかりといっていいほどに極まったストーリーテリングの手腕のたまものです。実はストーリーが進展する中で桜木に大きな変化が生じるのもさることながら、その変化に伴い、最初は完全にただ仲悪いだけだった流川との関係にも、目に見えない、けど読者は無意識に感じ取る変化がある。

持ち前のフィジカル任せでただ破天荒に暴れるだけだった桜木はやがて、地道な練習を通じて成長する中で、流川の実力と努力がいかに凄いかを内心、否定できなくなる。そしていつしか心の奥底では、流川はその背中を追いかける目標へと変わっていく。もちろん桜木自身はそのプライドにかけてそんなこと絶対認めない。流川は流川で、最初はただの素人として無視すれば済んだ桜木が急激に成長していくのを目の当たりにし、いつしか桜木を無視しようにも無視できない相手であると心の片隅では認識するようになる。もちろん流川自身はそのプライドにかけてそんなこと絶対に認めない。んで、こういう目に見えない二人の「ライバル」関係の変化は、はっきりと目に見えなくとも、いや逆にだからこそ、読者の無意識に入り込み、読者はその無意識で余すところなく洞察する。丁寧に描写された、微妙に噛み合わない二人の目線のやりとりとかを通じてだ。こういうふうに二人のライバル関係の微妙な変化っていうのを読者は無意識ではバッチリ洞察してるので、ストーリーが進展するにつれ、相変わらずいがみ合う二人をみても「こいつら相変わらずだなw」ってにやつくようになっちゃうし、女性読者の人気が大爆発することになった。そしてクライマックスの頂点のブザービーター回に至り、二人の関係に決定的な変化が訪れる……

っとここでついでに、「左手は そえるだけ」がなぜ究極の名台詞なのかを説明しときましょう。

ロバート・マッキー大先生によれば、映画とか小説とかのフィクションにおける会話はアクションであるということです。全く同じことを逆噴射聡一郎先生もおっしゃってます。だから会話がアクションなのは完全に証明されてるんですけど、会話がアクション? ってどういうこと? って疑問に俺がばっちり回答します。ロバート・マッキー大先生の受け売りそのまんまで

さっきも紹介したとおり「左手は そえるだけ」のコマの桜木ときたら、緊迫した状況だってのになぜかなんともいえない妙な表情をするわ、あの例のポーズをするわと、普通に考えたらおまえ一体なに考えてんだって一瞬思うんですけど、そこにあの「左手は そえるだけ」が、文字が一切排除されて完全にサイレント映画状態のブザービーター決着シークエンスにおいて唯一、文字による台詞として出てくる。なんでここで唐突に「左手は そえるだけ」? 何のギャグ? って読者は一瞬混乱しますが、さっきから繰り返し言ってるとおり読者は完全に天才なので次の瞬間、無意識でもうばっちり洞察する……桜木は流川にパスを要求してる……いや、ただパスを要求してるんじゃなくて、あの桜木が流川に頼んでる……真面目に練習したオレに任せてくれって……!(絶体絶命のピンチなのにわざわざ威張ったような顔したりめっちゃ横目で流川を見たりしてプライドを必死で守ろうとしながらも。けどそこがいかにも桜木らしさ満点なので読者はにやっとなる)

つまりこうです。もし会話とは文字で書かれた台詞が全てだってんなら、この場面で「左手は そえるだけ」が一体何を意味するのかちっとも分からない。完全に意味不明。だけど、この台詞に至る経緯、特にこれまでの桜木と流川との「ライバル」関係と、台詞も表情もなにもかもが一見ちぐはぐなこのコマにある諸要素の全体から、読者は、桜木が言外の意味で流川に対して「頼む」っていうアクションをしてるんだっていうことを一発で洞察する。会話はアクションであるみたいな訳わかんねーことを一切意識しない読者でも、天才だから無意識で「桜木が流川に頼んでる」って100パー正確に洞察する。

それだけじゃない。読者はほぼ同時にすぐさま、そのアクションの重大性に無意識に気付いてる。二人の「ライバル」関係は、目に見えない変化があったとしても表面上はほとんど変化なかった。桜木と流川それぞれのプライドが、自分から相手に歩みよるなんてことを頑として受け付けなかったからだ。そんな、読者が「はたからみれば似たもん同士じゃんw」と内心ニヤニヤしてしょうがない二人の関係について、「左手は そえるだけ」のまさにその瞬間、主人公桜木自身が、「ライバル」流川に自分から(すごくちっちゃく)歩み寄ってみせるという、超ちっちゃいアクションであると同時に偉大といってもいいほどの決断を下したことを、会話はアクションであるみたいな訳わかんねーことを一切意識しない読者でも、天才だから無意識で100パー正確に洞察する。

さてこの、桜木の「頼む」っていうアクションに対する流川の返答は? というと、一瞬で決断して「応じる」っていうリアクションを選択して桜木にパスを出し、さらには流川の信頼に応える桜木のブザービーター、そしてほんの一瞬、心の防衛機構? みたいなんがダダ下がりになった二人のうっかり咆吼ハイタッチへとつながる。こうして、「左手は そえるだけ」をきっかけにしたアクションとリアクションの連鎖反応により、クライマックスの頂点で、いがみ合いばかりだった二人の間に一瞬で信頼関係が生まれ、それが奇跡のブザービーターにつながった。その熱さを読者は正確に読み取ってるので100パー作者の狙い通り感動し興奮する。会話はアクションであるみたいな訳わかんねーことを一切意識しない読者でも、天才だから無意識で100パー正確に洞察する。

それでですよ、あらためて『スラムダンク』を読み返してみると、作者はこの会話をアクションとして扱うという手法を全編にわたって駆使していることが分かります。「泣くな」や「さあ 整列だ」をはじめとする『スラムダンク』の名場面で使われる印象的な一言は、そのどれもが、台詞の字面そのままの意味とは全く異なる内容のアクションとして行われています。こういう台詞の字面の意味とアクションとしての真の意味の乖離を極限までつきつめた「左手は そえるだけ」こそ、まさに『スラムダンク』に作者がつぎ込んできたテクニックの集大成なんじゃないでしょうか。

「優れた会話、優れたダイアローグとは『左手は そえるだけ』である」


さて話を元に戻すと……そうでした。キャラクター造形における「隠れた真の欲求」ってやつの必要性と、なんで桜木の隠れた真の欲求が「流川に認められたい」であるといえるのかって話の途中でしたね。

はいそれでみなさん、こう考えてみてください。もし「流川に認められたい」っていう桜木の隠れた真の欲求がなかったら? もし桜木には真の欲求と言うべきものがなんにもなく、普段公言してるとおりただひたすら流川を敵視しているだけだとしたら、例のブザービーター回のクライマックスはどうなるでしょうか。

つまりですよ、こう考えてほしいんです。もし桜木がただひたすら流川を敵視するだけのキャラクターだったら、あの桜木が流川にパスを要求する場面で、何を言ってどういうアクションをするかってことです。そういう桜木があの場面で「左手は そえるだけ」なんて字面だけなら意味が通じない一言をわざわざ言うか?

要するにこういうことです。あるキャラクターがある場面で何を言ってどういうアクションをするかっていうのは、単なる表面上のキャラクター(レイヤー1)やそのキャラ自身も意識してる意識・内面(レイヤー2)だけでなく、そのキャラクターの無意識のレイヤーである隠れた真の欲求、ひいてはこれがもたらす内心の葛藤にも左右される。そんでもって、あの場面でわざわざなんで桜木が「左手は そえるだけ」っていう究極的に持って回った言い方をする必要があったのか……って考えると、その理由として、桜木には隠れた真の欲求、流川に認められたいという欲求があったと結論せざるを得ない。

もし、桜木が単に流川を敵視してるだけだったら、あの場面で自分から流川に歩み寄るっていう選択は、「悔しいけど、しょーがねえから助けてやるか」くらいの意識で行うアクションになり、その時口にする台詞は「左手は そえるだけ」ではなく、もっと率直にパスを要求する台詞、流川に対する敵対心をなおもにじませる台詞でないとむしろ不自然になります。

ところが逆に、桜木が本当は流川に認められたいという無意識の欲求を持っていたのに、プライドゆえにその欲求から必死で目を背けていたとしたら? あの場面で自分から流川に歩み寄るっていう選択は、桜木にとってもう究極的にチョーこっぱずかしい選択になる。内なる自己に直面し、「ほんとは流川からパスをもらいたいんだろ?w」っていう己の内なる声に対して、プライドをなおも曲げないか、それとも絶体絶命のピンチを切り抜けるために、ついにプライドを曲げるかっていうある種究極の決断を下す場面になるわけです。普通ただパスくれって言えばすむ話なのに、そのパスくれの一言がどうしても言えない言いたくない。だけどこのピンチを切り抜けるには……っていう葛藤だ。はたから見ればギャグすれすれの悩みだが、それでも桜木本人にとってはアイデンティティーみたいなんを揺るがす大問題で、立派な葛藤だ。そのことは読者も無意識のうちに理解してる。隠れた真の欲求こそが、こういう形で葛藤をもたらす。あっちなみに、桜木は別にあの場面で突然そのプライドの全てを捨てる訳じゃない。さすがに桜木はそんなことしないというかそんなことする人間は普通いない。だから桜木は、自分から流川に歩み寄ることを決断してもなお、自分のプライドをどこまで曲げるかのギリギリの妥協点を探って……結果として、状況に全然そぐわない、決意の表情っていうにはみょーになんか別な要素が入り交じったヘンテコな表情で、(この期に及んでもまだ流川を正面から見るのを拒否しつつ)斜め上の流川を横目でみて、パスの要求っていうアクションからかけ離れた一言である「左手は そえるだけ」をつぶやく。

そしてもちろん、こういう無意識の欲求は昨日今日で突然桜木のうちに生まれたもんじゃありません。バスケの魅力を知り、バスケに打ち込む中で、いつしか、たとえほんの小さなものでも、「流川パスしてくれねーかな」っていう無意識の欲求が芽生える。バスケを知れば知るほど同時に流川の凄さを否定するのが難しくなってゆく。バスケにのめり込むほどに葛藤が大きくなるという矛盾。その過程を読者は意識的に理解してなくても無意識のうちには読み取ってるからこそ、読者は桜木と流川のいがみ合いでニヤニヤするようになるし女性読者の人気が爆発する。そして同時に読者もまた、「桜木と流川の連携がみたいなー」って無意識の欲求を持つようになるので、桜木が選手生命を危険にさらしてでも体を張ってボールを拾い、そこからとっさに(お前をみとめたわけじゃねーとばかりに流川をにらみつけながら)出したパスで流川にボール渡ると読者は思わず熱狂する(ちなみに、こういうふうにパスが「ライバル」っていうメインテーマとの関連で象徴としてのアクションになってるからこそ、『スラムダンク』の興奮が生まれる。だいぶ前に言ったことのくりかえしになるけど、アクションがこういう象徴になってるかどうかが、「バトルの連続で興奮する」か「バトルばっかで飽きる」かの分かれ目)。

こういう仕組みで、ながいこと、桜木の内面で隠れた真の欲求と桜木のプライドがいつしかせめぎあい状態だったからこそ、そして読者はそのことをとっくに無意識で100パー正確に洞察していたからこそ、「左手は そえるだけ」のひとことで読者は熱狂したんですよ。

そして、作者の独創性は本当に神がかってる。ストーリークライマックスの頂点で主人公にどんな決断をさせるかみたいなことを考える場合、普通ならどれだけ「かっこいい決断」をさせるかとか、どれだけ「悲壮でドラマチックな決断」をさせるかみたいなことばっかりを考えてしまいがち。それなのに『スラムダンク』において作者が選択した、クライマックスの頂点で行う主人公の究極の決断とは、なんと「こっぱずかしい決断」なんですよ。どうやったらそんなこと思いついた上に完璧に実行できるんだマジすごすぎる。作者は、クライマックスの頂点で主人公がチョーこっぱずかしい決断をすることで読者が熱狂することを計算ずくで読み切ってた。作者このクライマックスのアイディアを連載の開始時から持ってたのか? っていうとまあ多分連載の途中で「これだ!」って思いついたんでしょうけど、それでも、そのクライマックスにつながる水面下のストーリーテリングというべきものを物語のスタート時点から続けていた。いやー分析すればするほど底知れない。すさまじいとしかいいようがない。まじすげえ。

まとめます。なんで『スラムダンク』は面白いのかー

1 「ライバル」をメインテーマに据えた上で(努力や勝利はメインテーマではない)なおかつ、「ライバル」にまつわるストーリーはほぼ水面下で進行させ、同時に、目に見える主要プロットを通じて主人公の努力や成長による主人公の内面の変化を丁寧に描写している。

2 1のようなストーリーテリングの手段として、台詞等による説明ではなく、目に見える「テクスト」(これは文字だけではなく目に見える絵による表現も含む)により「サブテクスト」(ある台詞が実際にアクションとして持つ台詞の字面とは異なる真の意味や、登場人物の心の動き、主人公の内面の変化といった、文字や絵では直接表現されない内容)を読者に伝えるという手段を重視している。

3 主人公の人格の第3のレイヤー、すなわち隠れた真の欲求までキャラクター造形を作りこんだ上で、あくまで目立たない形で、それでもなお読者がサブテクストを無意識のうちに読み取ることで洞察できる形で、主人公の葛藤のドラマを表現した。

4 物語のクライマックスの頂点と主人公の葛藤の頂点を一致させた上で、このタイミングで同時に「ライバル」のストーリーにおいて主人公が下す究極の決断、すなわち、ライバルに対してプライドを曲げて自ら歩みよるという小さくとも偉大な決断がそれまでのライバルとの関係を一瞬で激変させ、そのことが奇跡の勝利に結びつくという、独創的かつ大きな感動をもたらすあまりにも完璧なクライマックスを生み出した。

5 以上の全てを作者が卓越した手腕により実現した。


いかがですかみなさん。ここまで分かってもらえれば、「なんで『スラムダンク』はあっけない負けエンドなのに読者は満足するのか?」みたいな質問にも簡単に答えられる。答えは、「『スラムダンク』のメインテーマは試合の勝ち負けではなくあくまで「ライバル」であり、まさにクライマックスの頂点っていう場面で「ライバル」のストーリーが読者の満足する形で決着したから」です。そして一見地味なエンディンでありながらも、読者は「きっとふたりはこれからもしょーもないお互い無視を続けながらも、流川はひたすらバスケに打ち込み、それを桜木が追っかけてくんだろうなー……一度はうっかりお互いを認め合ってしまったという過去から必死に目をそらしながら」との思いを抱いて、なんかいいかげん気持ちわりーとしかいいようがないムフムフした笑いを漏らす。

それで最後にこれだけは言いたい。俺はさっきからロバート・マッキー大先生をしきりに引き合いに出すから、「なんでこいつはマンガの話なのにハリウッド映画の教科書を引き合いに出してるんだ?」って変に思った人も多いかもしれません。でもね、俺の考えでは、面白さの秘密とか面白さの仕組みってやつの核心は、映画だろうとマンガだろうと小説だろうと変わらないメディアの違いを超えた普遍的な面白さの仕組みっていうのは実在するし、だからこそ、多分『スラムダンク』の作者はその才能ゆえに、面白さの秘密を本能的に、直感的に見抜いてただけでハリウッド映画の王道エンターテインメントの教科書なんて意識してなかっただろうけど、それでもなお結果的に、ロバート・マッキー大先生の本に書かれてる面白いストーリーの仕組みってやつは、ハリウッド映画だけじゃなくて『スラムダンク』にもぜーんぶ完全にあてはまってる。俺がロバート・マッキー大先生の本の猿まねで『スラムダンク』を分析するだけでそのことが分かるのはごらんのとおりだ。

それにね、俺さっきブザービーター決着シークエンスがサイレント映画状態って言ったでしょ。つまりね、マンガにおける映像的表現って何? っていう話になったら、要するにそれはブザービーター決着シークエンスだって言えばいい。表現を極めれば言葉は不要絵による描写で、アクションや表情を丁寧にかつ適切に読者に見せれば、登場人物ひとりひとりの思いが、言葉にすると膨大になるさまざな思いが、ばっちり読者に伝わる。まさにお手本っていうかマンガにおける映像的表現の極北。読者はみんな天才だから、高度な表現が極まれば極まるほど喜ぶ

あ、ロバート・マッキー大先生の本っていうのはこれです念のため。



「面白さの仕組みなんて教えられるもんじゃない」なんて言う人がたまにいるけど、そんなん嘘嘘。ハリウッド王道エンタメの教科書通りでありながらも、なおかつ独創的な傑作ってのは現に存在する。『スラムダンク』がまさにそれだ。

だから俺は最後に自信満々でこう述べたい。

「ハリウッド王道エンタメのお手本は『スラムダンク』である」


それじゃ、またねー







またねーじゃねーよ何やってんだバカ『スラムダンク』の話だけで何日かけてんだよまだ全然終わってねえのにどうすんだ「俺は一切脱線とかしてない」とか言って途中から完全に目的見失ってんだろだいたい俺はスラムダンクそこまで好きってわけじゃねーのにもう余裕で3万字超えてるじゃねーか完全に脱線だバーカバーカ

要するに、主人公がライバル相手に信じてくれって頼む場面で主人公が何の葛藤もなくストレートに「俺を信じてくれー」みたいなことを叫ぶような作品はキャラクターの造形がペラいんでそのせいで台詞にもなんの含みも重みも生まれなくて盛り上がりに欠けたままでつまんねえから主人公が葛藤する原因になるキャラ造形の第3レイヤーが必要ってだけの話だろそれをなんで長々こんなに詳しく説明してんだこのバーカ

そもそもが世の中何の葛藤もなく「俺を信じてくれー」って叫ぶような作品ばっかで登場人物が悩んでたらその悩みをペラッペラペラッペラ台詞とかで説明しまくるようなマンガが当たったからって右にならえでスラムダンクのつくりとは真逆の読者を見下しまくったつくりのマンガばっかになったからスラムダンクを好むような読者層つまり人類の大半からほぼ見放されてジャンプの部数もクッソ低迷してんじゃねーかその程度のこともわかんねーやつが編集者だとか言って偉そうにのさばってんだから救えねー読者を見下した報いだとっとと滅びちまえバー








『スラムダンク』を詳しく分析したことで、キャラクター造形の第3レイヤーがどうして必要かって理由や、それをどう使ったらストーリー展開が盛り上がるのかっていう基本的な仕組みも、みんなもう分かったよね。んじゃ、あらためて、『スラムダンク』をお手本にして、主人公のキャラ造形とストーリーの基本方針を決めてく。

念のため、ざっと『スラムダンク』のキャラ造形とストーリーテリングの特徴をおさらいだ。

メインテーマは「ライバル」。そのメインテーマに対する主人公のスタンスの象徴として繰り返されるアクションは、一言で言えば「バスケをする」(試合の中でのパスやシュート、あるいは地道な練習っていういろいろなバリエーションで行われるアクション)。だけど「ライバル」にまつわるストーリーを全面的に大展開するってことはせずに、サブテーマである(ジャンプ王道の)「努力」や「勝利」にまつわるエピソード、つまり特訓とかインターハイを目指す湘北の戦いをプロットの前面に押し出す。その中で「バスケ」のアクションが繰り返されるとともに、「ライバル」のストーリーは水面下で進行する。この水面下のストーリー進行により、主人公及びライバルに、キャラ造形の第3レイヤーに属する、メインテーマとリンクした隠れた真の欲求が、目立たない形で育ってく。こういうのをいちいち目立たせちゃったらすぐくせーくせーって鼻で笑われる駄作になっちゃうだけなので、絶対目立たせないように、とにかく注意して丁寧に丁寧にやる。そしてクライマックスの頂点、絶体絶命の大ピンチ! っていう瞬間に「ライバル」のストーリーのクライマックスを持ってきて、主人公にメインテーマに関する、隠れた真の欲求に向き合うっていう葛藤を経た究極の決断をさせ、アクションさせ、決着させる。まさに教科書通り。だけどそれをきちんと実行できるかどうかがクリエイターの腕前の見せ所になる。そして忘れないようにしよう。「左手は そえるだけ」みたいに、字面の「テクスト」と、その台詞が持つアクションとしての真の意味、「サブテクスト」が、かけ離れればかけ離れるほど、天才揃いの観客や読者は喜ぶ。そして俺はなるべく『スラムダンク』もパクる



いやだからいちいちうっせーな。スポーツもので『スラムダンク』の表面的な要素だけパクるみたいな下手くそなパクりかたするからパクりだって叩かれるんであって、本質的なあれみたいなやつをつまみ食い的にこっそりやる程度にしてちゃんとガワ変えればばれないってへーきへーき。だから主人公は、ガワは(元)ディズニープリンセスだけど、言動や内面は桜木花道に可能な限り寄せる、ってのがとりあえずの改善案だ。

あ? 主人公が誰か忘れた?


俺が考えた最高に面白いラーヤ(以下略)のつづき



ラーヤ

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どうせみんな忘れてるだろうからあらためて確認しとくと、「ラーヤ(以下略)」のメインテーマは「信じる」。改善案として、「信じる」ことに対する主人公のスタンスの象徴として繰り返すアクションは「手に入れる/手放す」(とそのバリエーション)。サブテーマは「強さ」あるいは「勇気」と「ディズニープリンセス」。

こういう各テーマやアクションに出来る限りリンクさせる形で、そしてガワ以外は桜木に寄せるってことでこいつの具体的プロフィールとかを考える。

まずそもそも、こいつは「元」プリンセスだけど、今は普段どこでなにやって暮らしてるんだ?




……「盗っ人」だ。これだ。表面的には一見すると「ディズニープリンセス」とは対極にある、「強さ」や「勇気」とは真逆の価値の象徴。ガキのころに国が滅びてプリンセスの座から一転天涯孤独の身に。財産といえば抜群の運動能力しかないみたいな境遇に突き落とされたせいで、生きるために「盗む」を繰り返すことを強いられてきた、そういう存在。親父の形見のスネークソード(例のからくり仕掛けで剣になったりムチになったりするやつ)は盗っ人便利アイテムに成り下がってる。だけど国が滅ぶ前に親父に叩き込まれた剣や体術の腕前は折り紙付き。いざタルサ・ドゥームの手下どもとバトルとなれば、スネークソードを手になんか桜木っぽい痛快な台詞を決めつつド派手なアクションで敵を蹴散らす!

あ、そういえば言い忘れてた。「左手は そえるだけ」ってね、いかにも桜木らしいっていうか、「桜木でもなきゃこんなヘンテコなことあの場面で言わねえだろw」って読者が一発で納得する、究極的に桜木の「らしさ」に満ちあふれる台詞なんですよ。こういうのが名台詞であり、理想とすべき会話、理想とすべきダイアローグです。そういう「左手は そえるだけ」を究極のお手本とした台詞を、台詞の字面の意味とアクションとしての真の意味の落差みたいなもんを意識的に広げることを通じて、しゃべるやつごとの、そいつの「らしさ」がにじみ出るような台詞を、主人公とかそういう主要登場人物にはなるべく喋らせるようにする。そしてなおかつ、なるべくペラペラしゃべらせるようなことはしない。なんか口ゲンカ異能バトルみたいなんが世間でどれだけはやりでも、そんなことはなるべくしない。これはもう映画とかマンガとかのメディアやジャンルを超えた普遍的なあれっつうか、もう絶対守れ! っていうべき鉄則ですね。

で、そういうド派手なアクションとか「らしい」台詞を通じて観客に提示されるこいつの内面って、一体どういうもんだ?

これはもう俺が自分で考えるよりも桜木丸パクリのほうが絶対良い。目に見えない要素なんだから観客にすぐに「こいつって中身は桜木じゃね?」みたいにばれないように注意すればいいだけだ。

じゃあ桜木の内面? 性格? つうか例のキャラ造形の第2レイヤーはどうなってんのか。

元ヤンキーの乱暴者、豪快でありながらもお調子者、ゴリにも安西先生にも遠慮なし、けど女性キャラを前にすると態度が一変、んで、口ではぶつくさ言いながら結局真面目に練習、そして、もう究極的な負けず嫌いであると同時に流川相手に「パスくれ」の一言がどうしても言えない強情っぱり……そういうなんか一言ではまとめられない諸要素が、説明じゃなくてちゃんとアクションとかで読者に提示されて伝わってるから、読者は意識はしてなくても無意識では洞察してる。「桜木のやつ、ほんとは内には繊細ななんかを抱えてるんだけど、その繊細ななんかを守る? っていうか封じ込めて目を背けるために桜木ムーブしてんだな」って。んで、やさぐれたヤンキー人生の中で必死に桜木ムーブしてるうちに、いつしか桜木ムーブが習性として染みついちゃったんだなって。だから『スラムダンク』は、そんなやさぐれたり繊細だったりする部分を内面の深いとこに抱えた主人公が、バスケやライバルや仲間に出会ったことで、その内面を自分でも知らず知らずのうちに変化させて結果的には大げさに言ったらその人間性を回復するみたいな崇高な物語なんだってことがね、読者にはちゃーんと伝わってるんですよ。桜木の内面の深いとこみたいなんが。桜木が自分から流川に歩み寄るって決断するのは単なる仲直りとかじゃない、もっともっと深い意味があるんだってことがですよ。だから読者がもうブザービーター決着からの流れで号泣するんですよ。

こういうふうにね、目に見えない要素はあえて説明しないからこそ、読者は天才というしかないレベルの無意識での洞察力で察する。だから、桜木ムーブで照れ隠しをする桜木とかを見るたびに「そんなムリしても、お前のことはなにもかもお見通しだからなーw」みたいな気持ちになってニヤニヤする。そんな読者に桜木の内面の深いとこをわざわざ劇中で説明したらどうなるか? 「だからそんなん説明しなくってもとっくの昔にお見通しだっつってんだろ! バカにしてんのか!?」って反応が返ってくるだけ。

それなのにもーこの基本のきみたいなのがわかってないやつの多いこと多いこと。「なんでこんなに丁寧に説明してんのに読者に伝わんないのよ」みたいな的外れな文句をブツクサたれ続けた挙げ句、「読者のリテラシーが低いから」みたいなことを言い出す始末だ。まじ本当にどうしようもない腰抜け。

あのな、おまえが読者に「伝えたい」ことって一体なに? なんかうまく説明するのが難しい、こう、面白さっていうか、感動っていうか、エモーショナルななんかでしょ?

でね、そういうことを伝えたいって思ってんのに、それを「説明」しちゃったらどうなる? 「説明」ってムーブに対する観客や読者の反応は「理解」でしょ? エモーショナルななんかとは真逆の、意識の領域の、理性による反応でしょ? だからですよ。だから「説明」をすればするほど、観客とか読者は無意識の心の領域じゃなくて意識の、理性の領域で反応しちゃって、「分かった分かった。で? それで?」みたいなリアクションしちゃうん、です! 説明すればするほど、エモーショナルななんかの、あの濃度みたいなのが薄まっちゃうんです! わかった!?

だからね、なんどもなんども言ってるとおり、「説明」しちゃ、ダメ、なの! そうじゃなくて、『スラムダンク』とかお手本に、とことんアクションとか丁寧な表情の描写とかそういうので伝える。それを徹底する。そうすれば、観客とか読者は心の領域でリアクションする。

だーかーらー! 「そんな難しいこと……」みたいなこと言って尻込みすんな! おまえ自身が観客や読者だから、つまりおまえは天才だって、俺は何度も何度も言ってんだろほんとにもー。

おまもさ、『スラムダンク』に限らず、ほかにも「なんでこんなに面白いんだ!?」ってなった、始めっから最後までもう夢中になって観た映画とか夢中になって読んだマンガとか、そういうのに出会ったことあるだろ? 「なんか流行ってるから観に行ったら結構面白くて最後ちょっと泣いた」レベルじゃない、もう夢中になったあげくラストで感動の余りダーダー泣いちゃったような心の中の傑作があるだろ?

でね、『スラムダンク』でもほかの傑作でもいいから、再度観たり再読するときに、こう意識して、自分自身に、無意識の領域に、いちいち聞いてみて。問いかけてみて。「なんで自分はここで笑っちゃったんだろう」とか「なんでここで泣いちゃったんだろう」とか。こういうふうに何が自分の心に触れたのかってのを、常に、意識して、自分自身の無意識を探ってみる。

そうしてみるとあーら不思議。まるでそれまで眠ってた脳みその潜在能力がいきなり爆発したみたいな感じで、その面白さのポイントが、作者がどういうテクニックを使ってるのかが、もう簡単に手に取るようにわかりはじめる。そしてみるみるうちにもうすごい学習してスキルがアップする。そして、面白さの仕組みみたいなのを理解すればするほど、なぜか不思議なことに、面白い作品に出会ったときに伝わってくる面白さがもっともっと大きくなる。で、そういうのの中毒になってやりすぎると俺と同類のバカになる。

まあとにかく、「説明しないと伝わらないんじゃないかな」みたいな不安とか疑いとかそういうのは、決意して、そんで捨て去ってみて。それで自分自身の心と、観客とか読者とかそういう存在の両方を信じて、説明抜きのアクションとかで伝えてみて。「もし自分が観客とか読者だったら、このアクションに、このしゃべり方に、このちょっとした仕草に、このちいさな表情の変化に、どんな反応するかな」って常に考えながら。そうすれば、あなたが実はヤバいサイコパスとかそういう例外じゃない限り、絶対、伝わる。なぜか。あなたもほかのみんなも、同じ人間で、うれしいことがあれば思わず笑顔になるし、悲しいことがあってもぐっと涙をこらえたりする、似たものどうしそのものの、おんなじ感情ってやつを持ってるから。それだけの簡単な話です。

まああと簡単に科学的な根拠もちょっと書いとくと、意識の領域ってのは、意識的な思考で深く思考できる反面、処理速度は普通そこまででもない上、冷徹AIじみた無感情だ。これに対し、無意識ってやつは生き残るための本能から進化した処理系なので、些細な変化とか異変に敏感に反応するようになってる。同時に、生きる本能に根ざした恐怖とかを感じるところから、いろいろ感情を感じる心の領域も進化した。だから、意識的に気付いちゃうような目立つ表現は逆に無意識の注意を引きにくくて、もう思い切ってさりげなくしたみたいな表現のほうが無意識の注意を引きやすい。んで、元はといえばサバイバル目的でチューンされたことで進化した無意識の処理速度は爆速なんで、意識で意味を理解するはるか前に無意識の心の領域とかが反応しちゃって、あまりにもどでかい感動とかにぶつかると「なんで自分が泣いてるのか理由が自分でも分からない」みたいな事態もしばしば発生することになる。

だから、俺とここで約束して。「説明しない」って。いやまあ細かいこというと『スパイダーバース』みたいにわざと説明を繰り返すのがギャグになってるとかそういう例外とか変化球もいくらでもあるし、もうどうしても説明をするしかないって局面でどう説明だってばれないように説明するかのテクニックとかそういうのもあるけど、その話はまた今度。大事な基本のきは「説明しない」。約束してね。






って何「いま俺いいこと言ったな」みたいな顔してんだこのバカがまた脱線じゃねーかいいかげん死







さて、こういうふうな桜木の表面的には単純なようでも実はやっぱりバッチリ決まってる、矛盾も抱えた複雑な内面みたいなキャラ造形の第2レイヤーはもうほぼこのままパクる。

え? また忘れた? いいよいいよ別に俺のせいじゃないし気にすんなって。


ラーヤ

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それでこいつも、内面は桜木丸パクりで、豪快だったり破天荒だったり失礼だったりするけど、嫌みにならないように注意した言動で観客にみせる見せかけの内面の奥底に、矛盾を抱えている。どんな矛盾か? っていうと、決まってる。メインテーマである「信じる」に対するスタンスだ。

ガキのころから「盗む」を繰り返すしかなかった盗っ人暮らしで、はっきり言って本音では、「信頼なんて別にどうだっていいじゃん世の中食うか食われるかだろ甘いこと言ってんじゃねえよ」って思ってるくらいに、相当すさんでる。けどそんな本音を簡単に漏らすほどバカじゃないというか、そんな本音が漏れると相当感じ悪いと自分でも分かってるので、そういう本音は押し隠してる。そうして本音は押し隠したまま、つとめて明るくふるまいつつも、簡単には他人を信じないし、言ってしまえば自分の未来すら信じてない。

それでも、こいつはすさんでるからこそ、ファミリーと認めたやつにはとことん親身になる。そして全幅の信頼を寄せる。観客にはそういうポジティブ面をみせるようにして、すさんでる面は簡単にはばれないようにする。

こんな感じで「信じる」に対して両極端の価値観を同時に抱えたやつってことにする。

あとはサブテーマ関連。「強い」ってことについてはもう自分で自信満々。バトルになったら自分は最強だと思ってる。んで「プリンセス」ってものに対しては、ただ無言のまま、ニヒルっぽい半笑いの顔を作って「……フッ」って鼻で笑うだけみたいな、それなのに必死で自分が元プリンセスだってことを隠してて、それがばれちゃったりするとすごい感情的になる、そんなスタンス。

で、そういうメインテーマやサブテーマに関連したこいつの内面が、どんなきっかけで、あるいはどんな試練で、どんな変化をとげてくか……ってのがストーリー展開の根本で、そういう観点から、どんなエピソードをどのタイミングで、どんな順番で入れてくかっていうのをあとで考えることになる。

つまり、今まで決めてきたこいつの内面はあくまでスタート時点のものであって、ストーリーが進むにつれてこいつは、どうして自分は他者を、未来を、そして自分自身を「信じる」ってことができないのかみたいな問いに徐々に向き合うことになったり、自分の強さがニセもんだって思い知らされるきつい展開にでくわしたり、「プリンセス」を目指さないといけないっていう自分の運命を受け入れて敗北から立ち上がり、そしてタルサ・ドゥームに立ち向かうみたいなアツい展開で「真のディズニープリンセスとは何か」みたいなテーマに無言で回答を示したりする予定だけど、あくまで予定。そんなんは具体的なプロットを検討する中でいくらでも変更する予定だし、とにかくアイディア出しては捨ての繰り返しの中で、ここんところをさらに磨かないといけない。

それでだ。まだ話は終わってない。こいつの、例の第3レイヤー、つまり、隠れた真の欲求は何だ? 

いやもちろんメインテーマが「信じる」なんだから隠れた真の欲求は「本当は信じたい」で、さっき言ったこいつの第2レイヤーの「信頼なんて別にどうだっていいじゃん世の中食うか食われるかだろ甘いこと言ってんじゃねえよ」みたいな、本人も意識してる本音とせめぎ合うっていう葛藤がストーリーが進むにつれて大きくなるんだけど、「本当は信じたいんなら信じればいいのに、なんでそれができないの?」みたいに観客に思われないように、その葛藤の原因とセットで、「信じたい」っていうのは具体的には何をしたいんか? っていうことを考える。

たとえば「盗みをやめたい」とか、「奪い合いのゲームからもう降りたい」とか、「必死で隠してる秘宝を、ほんとは信頼できるやつに預けて身軽になりたい」とかいろいろバリエーションが考えられる。これは特に、「なんでそれができないの?」っていう理由とともに、クライマックスはどういう展開になるか、主人公がどういう試練や葛藤に直面してどういう決断を下すのかっていうストーリー展開のキモの部分を最終的に決めるまで、コロコロ変えてくことになる。今のところは、どれを選べばクライマックスが一番盛り上がるか、そこでどんな種類の感情を観客に伝えたいのかってことの決め手とこの第3レイヤーが連動してて、最後の最後まで要検討だってことだけおぼえとけばいい。

よーしとりあえず今のところは主人公はここまで……って、この修正案の時点で元のラーヤ(以下略)よりだいぶ良くなりそうなにおいがしてきた。はりきって次いってみよー



第二主人公の龍

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こいつもねー、元のラーヤ(以下略)だと、主人公の相棒とかそういう重要ポジションであるにもかかわらず、「こいつは一体何をしに出てきたのか」っていう部分が曖昧なままだからストーリーの原動力みたいなのに貢献せずに、ただこれみよがしにふざけてみせてばっかりに見える。それじゃダメだろほんとディズニーどうした。

それで、「伝説の龍のはずがフタを開けてみたらオークなんちゃらみたいなやつだったみたいな展開だったら面白くない?」みたいなアイディアだけ出してそこからキャラ掘り下げるみたいなことしないから、龍がいかにあほかってことを観客に伝えようとしたら、観客が「いくらなんでもそんなあほなことするやついねえだろ」って思っちゃうような、不自然にわざとらしいあほムーブばっか龍にさせるはめになる。「伝説の龍のはずがフタを開けてみたらオークなんちゃらみたいなやつ」っていうアイディアそれ自体には光るところがあるのにもったいない。

じゃあこいつをどう改善するか。ここでまたロバート・マッキー大先生の入れ知恵。ストーリーの進展に伴う主人公その他の登場人物の変化ってのは、ぶっちゃけ

1 内面が大きく変化する。そのせいで人間関係も変化したりする(悪役として登場したけど反省して主人公の仲間になるとか)。

2 内面はそんなに変化しないかわりに、優しかったりあほだったりする見せかけのキャラクターの奥に隠れたそいつの真の姿(実は悪いやつだった)みたいなのが明らかになる。そのせいで人間関係も変化したりする。

3 1と2のミックス、つまり、内面の劇的な変化を通じて、そのキャラ本人すら知らなかった、あるいは忘れてた、はたまた自分自身直視することを拒否してたり恐れてたりする、そいつの真の姿が明らかになる。

の三種類しかない。んで、各登場人物ごとに、こいつは1から3のどのパターンでやってこうかなみたいなことを考える(だけど、主人公だけはもう別に何も考えずに3でいくのがセオリー)。

じゃあ龍の改善はどれでいくか。ここはもう2でいいでしょう。ぱっと見はあほの、ストーリーの初期で出会う主人公のあらたな相棒、だけどその真の姿はというと……


ちょっと待って。別な本とってくる。





この本ね、けっこういい。バカを釣ってやろうみたいな魂胆が見え隠れするサブタイがちょっとカチンって来るし(原題だとシンプルに「構成とキャラクターの秘訣」みたいな意味の副題)、内容もちょっととっちらかってて、ロバート・マッキー大先生の本みたいな、筋道立てて整理して解説するみたいな部分が欠けてるけど、キャラ類型、それもメガネキャラとか猫耳キャラとかの表面的なキャラじゃなくて、「モノミス神話王道パターンをどう応用するか」とか、「こいつは一体何をしに出てきたのか」っていうキャラごとの本質的な役割みたいなのに基づくキャラ類型の解説とかが相当使える。

んで、この本に書いてあることを使って、また『スラムダンク』のキャラからパクってくるとすれば……


……


……


これだ。決まった。こいつの真の姿は安西先生だ。ギャップは基本でかければでかいほどいいっていうセオリーにばっちりはまってて、主人公その他の登場人物との対比とかもびしっと決まる。あほで疑うってことを知らない、憎めない主人公の相棒のふりして、実はこいつは過去の悲劇を乗り越えなんか悟りの境地みたいなのに至ったキャラだ。だけど500年にもわたる封印を経て目覚めた結果記憶とかが結構飛んでる結果やっぱりあほだ。これみよがしなあほムーブは一切封印、台詞から本質的なあほさがにじむとか、いきなり突拍子もない行動に出て一瞬観客は「こいつなに考えてんだ?」って面食らうけど次の瞬間その理由を洞察するとともに「こいつどんだけあほなんだよ!」って笑っちゃう、そういうアクションをさせるようにする。だから別に悩みもせずにこいつがポロっともらした一言が、実は主人公の動揺を誘ってて、そういう小さいなんかの積み重ねが、やがて主人公の内面を大きく揺さぶることになる……って感じのストーリー展開に貢献してもらう。

特に注意しないといけないのは、主人公と第二主人公が出会った後の次の展開。なんの起伏もなく自然と仲良しみたいな手抜きを避けることだ。主人公と第二主人公が出会ったら衝突が必須。で、衝突を乗り越えて真の相棒になるってところまで、なんなら第一幕のほとんど残り全部使って構わない。

で、そういう第一幕の残りの構成だと最終的に

1 主人公が第二主人公を助けて絆ができるのか

2 それとも第二主人公が主人公を助けるのか

ってことになるけど、ここでは2、つまり、主人公が第二主人公に反発したせいでピンチに陥るのを第二主人公が助ける展開がセオリー。出てきたばかりの第二主人公に失敗させるのは時期尚早だし、何より1の展開だと、せっかく登場させた第二主人公が主人公にとってお荷物以上の意味がないことになりかねない。逆に2の展開だと、主人公がちょっぴりでも反省するきっかけをつくったのが第二主人公ということになり、出てきた意味が増す。ちなみに元のラーヤ(略)は1をやっちゃってる。ほんとディズニーどうした。

で、ここで、「過去の悲劇」をどう扱うかなんですけど、せいぜい長くても二時間とかの映画の尺だと、「実は過去にこんな悲劇があった!」みたいなシークエンスが入れられるのは1回だけ。2回だともう既に多すぎる。過去シークエンスの尺も20分になるとちょっと長すぎる感が出てくる。ジャンプの長期連載なんかであればストーリーが進む→実は過去にこういうことがあった→ストーリーが進む→実は過去にこういうことがあった、の繰り返しもまあできないことはないですけど、映画でこれやっちゃうと観客はすぐさま「またかよ!」って反応する。だけど元のラーヤ(以下略)はこれやっちゃってるのでストーリー展開のパワみたいなのが損なわれてる。ほんとにディズニーどうした。

それともう一つ。こいつが役立たずっていうのが元のラーヤ(以下略)の設定で、龍オーブのかけらを手に入れるたびに龍の魔法を取り戻すって言うのが元のプロットなんですけど、その取り戻す魔力っていうのが、単に光るとか人フォームになるとか霧をだすとか雨をふらせるとかにすぎなくて完全にインパクトに欠けてるし、取り戻した魔力がクライマックスに貢献するとかの要素が全くないのでどうしようもない。ほんとにディズニーどうした。

改善するならここはね、もう思い切って、あほの役立たずだと思ったらチョーすごい魔力があることが第一幕の最後で明らかになって、それをきっかけとして第二部の主要プロットが動き出す……くらいのことをすべき。明らかにそうすべき。

まあそれはそれとして、貴重な過去シーケンスをこいつに使うかどうかは要検討だけど、またもや結構いける改善案がでてきた。この調子でさくさくいこー



サイド刈り上げ女

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裏主人公ポジ。けっこう栄えてる「ファング国」の現役プリンセスでありみたまんまクールキャラってかんじだけど、こいつがまた全然キャラ煮詰めきれてない。ストーリーの初期で登場したとたんに全く予想通りの邪悪な裏切り者ムーブするから全くキャラに深みが出ない。このサイド刈り上げ女が実は龍オタで龍に出会うと言葉を失ってすごい良い表情をするとかの光る部分がぜんぜんストーリーで生かされてない。それで、実は龍オタっていう事実を映画の冒頭付近で「実はあたし龍オタなの」みたいに台詞で説明しちゃうんだからもうダメ。ほんとにディズニーどうした。

改善するとすればこう。たとえばね、ストーリーの中盤の山場で主人公とサイド刈り上げ女が激突! っていうシリアスシーンがあるとするでしょ。で、そのシーンの結果としてそれまでは順調だった主人公の立場は一転、どん底にたたき落とされるみたいな定番シリアス展開にするとするでしょ。

それでですよ、主人公とサイド刈り上げ女がかち合っちゃった! っていう緊張の一瞬……なのにそれまでいかにも悪役アピールする口上述べてたサイド刈り上げ女が、主人公が連れてる龍の存在に気付いた途端に言葉を失いそれまでの冷酷な表情も一変、なんともみょうちきりんとしかいいようがない表情を浮かべて我を忘れる……みたいなビートを決めて観客に「w」と「?」を同時に植え付けるみたいなことをやる。

でね、まあサイド刈り上げ女もすぐハッとなって急いで元のキャラに戻って、元のシリアス展開が続いて中盤の山場の結果は定番シリアス展開、主人公暗転、いくらなんでもこりゃつれえわって観客に思わせる。

で、その直後にくるシークエンスとかそういうタイミングで、たとえばファング国に帰還したサイド刈り上げ女が自室に戻る。その部屋の中は……なんだこりゃ? ユニコーンじみたカラフルでファンシーな龍グッズだらけだ! すかさずサイド刈り上げ女は無言のまま床でゴロンゴロンするとかのムーブを連発! みたいに観客の予想を裏切るタイミングで説明抜きでただギャップをみせれば、うまくやれば大爆笑をとれるし(さっきの「?」とこのタイミングの新たな「?」がかけ合わさることで、一瞬で強力な「!」が生まれるってのを狙いたい)、サイド刈り上げ女に泣き言言わせて観客の同情買うみたいなまねしなくても、観客のサイド刈り上げに対する見方を誘導することができる。

まあそういう感じのキャラ立てとかも大事だが、検討すべきは「こいつは一体何をしに出てきたのか」っていう役割だ。まあ考えるまでもなく裏主人公なんだから『スラムダンク』からパクるんならもちろん流川!




ってダメだ今のなしノーカンノーカンあっぶねえちゃんと考えてねえからつまんねー凡ミスするところじゃねーかこのバ




さてここで、『スラムダンク』における流川の役割ってのを確認すると、主人公に対して積極的にアクションをすることはあまりなく(けど、山王戦終盤の唐突なプッシングから桜木を挑発みたいな、見方を変えると恥ずかしがり屋さんそのものの目立たないアクションは要所要所でみせる)、主な役割は、主人公の前に立ちはだかる壁として、主人公に背を向けてぶれずに立ちはだかり続けることだ。だから流川については、ストーリー展開にともなう変化みたいなのは小さく、せいぜい「桜木うぜー」から「少しは桜木認めてやるか」くらいで、桜木を認めるかどうかでそこまで深く葛藤してない。無視→無視できない存在くらいの変化で、そこが「流川パスくれないかなー」が真の隠れた欲求になっちゃった桜木との大きな違い。さっき話したストーリーの進展に伴う主人公その他の登場人物の変化の3パターンでいうとパターン2になる。要するにあまり変化しない。

だけど流川のキャラ造形がハマったのは『スラムダンク』のテーマとかにうまく合致してるからであって、ちがうテーマの話にも安易に女性読者受けとかを狙って無口クールだけどほんとは恥ずかしがり屋さんっていうギャップがあるだけで変化は小さいキャラを使うと失敗する。

このラーヤ(略)の改善案としては、表主人公の対になる存在として、サイド刈り上げ女にもなるべく大きな変化、そして葛藤を経た決断みたいなのをやっぱりやらせる。そうすることで、たとえば表主人公との関係がどうなるのかにもスポットライトを当てたストーリー展開とかクライマックスなんかも考えられる。

となると、こいつにもキャラ造形の第3レイヤーや第3レイヤーが原因の葛藤が必要になる。裏主人公として、表主人公と対照性みたいなんがあるこいつの隠れた真の欲求とは……


とりあえずこれかな? 「信じてほしい」。そんであれを、過去のいきさつを根本的に変える。サイド刈り上げ女は、本当は主人公を裏切るつもりなかったのに、結果的に裏切ることになった。その結果もたらされた被害は壊滅的で主人公の国は滅亡、サイド刈り上げ女自身は心の奥底ではずっと後悔とか罪悪感とか抱えてる。だが、「こんなことするつもりじゃなかったのごめんなさい」とかなんとか言ったところで主人公に限らずまともな神経の持ち主なら「ふざけんなバカ」の一言で片付けられるだけだし、サイド刈り上げ女もそのことは分かってるので、もうとっくの昔に、主人公から信じてもらうなんてことはあきらめてるって状態だ。それが、ちょっとしたきっかけで真の隠れた欲求が芽吹き、育ち始める……

ってどうしようかなー。こういう造形にすると、ほぼ必然的にクライマックスの展開としては、裏主人公と主人公が「あたしをしんじてー」「しんじるよー」でがっちーんするのがエモーショナルみたいなのを目指すことになるけど、はっきり言ってこういうの難しい。正直やりたくないレベルで難しい。なんか盛り上げようとして引っ張れば引っ張るほど逆効果になり、下手をすれば感動どころか陳腐すぎて爆笑みたいな代物になりかねない。

このへん『スラムダンク』はこういったところの処理のテクニックがもう細部に至るまで完全に神がかってて緩急のリズムというか「緩急」ワンセットのビートを決めた後は引っ張ることなく一瞬で流す。作者は明らかに意識してやってる。「左手は そえるだけ」の「緩」から次の瞬間流川が一瞬で決断してパスっていう「急」みたいなワンセットでビートが決まったらすぐさま次のビート(超々スローモーションでの桜木による基本のジャンプシュートが決まる……→審判が有効宣言して笛!)に移行してる。例のハイタッチもそう。静まり返った会場内でなぜか桜木が流川に向かって歩いてく。流川は一歩も動かずに棒立ちで、会場内全員の目が二人に注がれる……っていう「緩」からページをめくったら見開きで咆吼ハイタッチ! っていう「急」を決めると、(他の湘北関係者は全員驚愕っていうリアクションだけみせて)一切引っ張ることなく次のビート(二人とも我に返って……→ぷい)に移行してる。

まあいまんとこはこれくらいにしとこう。クライマックスの構成を具体的に煮詰めたりする中で主人公裏主人公ワンセットで第3レイヤーの詳細と葛藤の原因を固めるのにさらにアイディア出しては捨てをするしかない。

といっても、基本的には、ここはド定番の安全策というか、例のこいつの裏切りムーブのせいで主人公の国が崩壊っていうバックストーリーを具体的な過去シークエンスにして可能な限り早い段階(絶対にストーリーの中間地点より前)で見せて、この主人公裏主人公共通のバックストーリーが、それぞれの葛藤の原因になってるっていう手垢つきすぎの手法でいったほうがいいでしょう。こういうところで変に奇をてらうようなまねはしなくてもいい。それよりも、いかに見せるか、に心血をそそぐべきだ。

んで、ここで俺が個人的に「テンドン・エピファニー」と呼んでいる手法、過去シークエンスとかのストーリーの早い段階でさりげなく出てきたアクションがクライマックスでも繰り返されるけど、同じアクションでも一回目と二回目とでは、そのアクションの持つ意味が全く異なるっていう、「伏線とはパワーローダーだ」をアクションに応用したやつがバシッと決まって観客が考える前に気付いて熱狂みたいなのをできれば最高ですね。え? わかりにくい? 要するにあれですよ。『バーフバリ』でカーチャンが頭に火鉢のっけて歩く例のあれとかです。

ただ、展開的には「あたしをしんじてー」「しんじるよー」でがっちーんした後に二人で協力して倒すラスボス的なやつが必要になってくる可能性が高い。



サイド刈り上げ母

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こいつがねーもうキャラがぶれすぎで完全に何しにでてきたのかまったく不明。ストーリーが始まった途端にあからさまに邪悪な本性をみせて娘であるサイド刈り上げ女とともに完全に予想の範囲内にすぎない平凡な裏切り者ムーブをするから、観客としてはこいつは完全に邪悪なタルサ・ドゥームそのままの支配者として君臨してるんだろうなと思わざるを得ないが、その後忘れた頃に再登場したシークエンスで何を思ったかわざわざこいつの慈愛に満ちた賢明な統治者の側面みたいなのを見せたかと思えば、危機に直面して実質なにも手を打たないまま王国崩壊みたいなことになってて、もうキャラ造形の何もかもがダメすぎる。ほんとにディズニーどうした。

そもそもがね、元のラーヤ(以下略)は、『風の谷のナウシカ』的な、バトルが多い割には明確な倒すべき敵がいないっていうストーリー構造なんですけど、そういうストーリーはもうナウシカレベルで極まったストーリーテリングしない限り、話の焦点がぼやけてほぼ間違いなく失敗する。主人公その他のキャラのストーリー内で扱われる短期の目標が見えにくくなった結果、どいつもこいつも切実な欲求もないまま場当たり的な行動を続けるだけみたいなよくある駄作のできあがりだ。元のラーヤ(以下略)には一応の敵キャラとして、個性も何にもない紫色不定形エクトプラズム体の「ドルーン」ってやつが出てくるんですけど、こいつは敵キャラに必要なキャラとか自我が完全に欠けた、失敗した人類に降りかかる単なるペナルティーとか天災にすぎなくて要するに腐海の蟲ポジの存在なので、ラーヤ(以下略)を改善するには、真に倒すべき敵たるタルサ・ドゥームが必要。その役割をサイド刈り上げ母に担ってもらおう。



って軽く言ってみたけど、これ考えてみたら実はすごくね? 「信じる」のライトサイドを象徴するキャラが第二主人公の龍なら、そのダークサイドを象徴するのが、タルサ・ドゥームたるサイド刈り上げ母だ。「信じる」を妨げる諸要素の全てに、その背後にはタルサ・ドゥームの魔術があるというロジックは完全に理にかなっており、その影響力は娘であるサイド刈り上げ女にとっての呪縛となると同時に、真の敵は自分自身とばかりに、主人公の内面にもこいつの呪縛が宿っててそれをいかに克服するかが第二幕終盤の山場になる展開にするとか、いろいろ完全に噛み合う。これこれ。

だから真のパルプによりラーヤ(龍)をたたき直して改善する観点からは、こいつのキャラ造形はパターン2、ストーリー展開に伴い、慈愛に満ちた有能な統治者の化けの皮が剥がれてタルサ・ドゥームの本性を露呈するという形をとるが、真のパルプである以上、こういう敵キャラこそ徹底的にR・E・A・Lでなくてはならず、あからさまな邪悪ムーブをさせるのではなく、疲弊した世界でゼロサムゲームを民衆に強いるこいつなりのイモータンジョーとしてのアティチュードとか、娘であるサイド刈り上げ女との関係とかに尺を割くべきだ。

となると、明らかに元のラーヤ(以下略)から大幅に無駄なシーンを削る必要がある。




偉そうなガキとか赤ちゃん窃盗団

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主人公がこういうやつらにストーリーの途中で出会い……っていうのが元のラーヤ(以下略)第二幕の主要プロットなんですけど、ほんとにこいつらがどいつもこいつもそろいもそろって、「その出会いは主人公にとってどんな意味があるのか」ってところが全然掘り下げられてないせいで何しにでてきたんだ感満載だから、チェイスシーンも盛り上がらないしギャグもすべるしで、もうなにもかもが尺の無駄でしかない。

こんなん改善しようと思ったらもうあほみたいに簡単で、出番を削らずに尺を削りたいんなら、ストーリー開始前にすでに主人公とこいつらが出会ってる、で、放浪の盗っ人稼業をするなかでファミリーのきずなを結んでるっていう設定にすればいい。

んで、ストーリーの開幕冒頭はファミリー全員大活躍のにぎやかな顔見せシークエンス、赤ちゃんまで動員した陽動から超人的な身体能力でファング国の王宮に忍び込む主人公、まんまと王宮の奥に封印された、絶対価値があるにきまってる秘宝が入った箱を手にした途端にアラームが鳴るとかしてタルサ・ドゥームの軍勢が主人公を包囲、で、その囲みの向こうからサイド刈り上げ女が進み出て主人公と対決、緩急効かせたバトルの中での短い会話、どうやら二人の間には深い因縁が……からの今度は一転逃走チェイスシーン、ところどころ上空からのカットで街全体見せつつ、例の謎のダンゴムシ生物に乗ったファミリーが城下町を結構破壊しながら爆走!

みたいな感じで、とりあえず基本情報と登場人物紹介をテンポ良くアクション見せながらやろうと思ったらいくらでもできるんですよ。はっきりいってこんなん、想像力とかそんなん全然いらんくて、理詰めで考えれば必然的に必要なシーンなんて大体決まる。で、オープニングは顔見せと割り切って、追加の情報は続くストーリーの中で小出しにしながらアクションとかで観客に伝えればいい。こういう情報開示の順番とそのタイミングこそがプロットの本質なんです。

それなのに元のラーヤ(以下略)ときたら、あせって一から十まで情報を観客に伝えようとするから説明的な上にテンポが悪いっつうか盛り上がりに欠けるっつうかそういうシーンばっかになる。ほんとにディズニーどうした。

まあそれはそうとして、こういうガキとか赤ちゃんとかでも、とにかくなんでもかんでもテーマとの関連でさりげなく象徴だって分かってれば、ストーリーのいろんな場面で、たとえばガキがガキなりに考えもせずにポロッと言った台詞が「真の強さ」とかそんなんを問うきっかけになって実はガキも赤ちゃんも主人公の一側面を写す鏡みたいな手垢のついた手段でも、工夫しだいでいくらでもやりようがある。

で、まんまとファミリーが逃げおおせたところで箱を開けてみたら、中から出てきたのはいかにも封印を解く鍵であとで争奪戦のマクガフィンになるのが見え見えのメダルっぽいあれとかと謎の地図、これは秘密の宝物ヴォルトのありかに違いないと思って行ってみたらまたもや予想は外れて龍登場……っていうかんじで、いきなり焦って最初からプロット考えるとかせずに、まずはじっくり登場人物それぞれ「こいつは一体何をしに出てきたのか」「テーマ」との関連で考えるっていう作業をしとけば、プロットもまた、だいたい必然的な理由とかで数珠つなぎで出てくる。

これ覚えといて。設定考えたら次はプロット……みたいな順番で焦って考えても、アイディアなんてそんな出てこない。このストーリーのテーマはなんなのかとかを掘り下げないと、必然的な展開がなんなのかとかが見えてこなくて、結果、なんか登場人物が会話したりバトルしたりするけどストーリーが動かないって落とし穴に落ちる。これは俺じゃなくてロバート・マッキー大先生の教えだから信頼できる



じゃーまーとりあえず登場人物掘り下げとかはいったん終わり。こんくらいでも、ラストまでの一応のプロット案つうか粗のたたき台くらいはできるでしょ。まあこの段階だとまだ粗のプロットでいいっていうか、どうせクライマックスの展開を練る中で「あそこはこうしとけばよかった」っていうのが出てくるからプロットとか登場人物の設定とか変える部分なんていくらでも出てくるし、そうじゃないとむしろダメ。




俺が考えた最高に面白いラーヤ(以下略)改善



登場人物


ラーヤ

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主人公。亡国のプリンセスの皮をかぶった桜木花道っぽいキャラの盗っ人。ガキや赤ちゃんといったファミリーとともに放浪の盗っ人稼業をする中で偶然第二主人公の龍と出会い、冒険の幕が上がる。


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長きにわたる封印を解かれた伝説の種族最後の生き残り。封印が長きにわたりすぎたせいでいろいろ忘れてあほになるも、その驚異的な龍の魔術のちからは失われておらず、その復活は分裂し疲弊した王国を揺るがす事態を招く。


サイド刈り上げ女

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いにしえの龍の王国が分裂後にうまれた小王国のひとつ「ファング国」のプリンセスにして主人公の幼なじみ。だが運命は二人を引き裂き、因縁の宿敵同士へと変えた。その冷たい表情の裏にある意外な一面とは……


サイド刈り上げ母

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「ファング国」のクイーンにしてサイド刈り上げ女の母。国民ファーストの慈愛に満ちた有能な統治者。


ガキとか赤ちゃん窃盗団

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混迷の時代が生み出した孤児。天涯孤独の身で放浪していた主人公と出会い絆を結んだことで、今では主人公にとってかけがえのないファミリーとなった。幼い外見とはうらはらに、盗っ人稼業の旅の中で主人公から伝授された油断ならないスキルを持つ。主人公がかれらの瞳の中に見いだすものはなにか。




うんうんなかなかこの時点でけっこういいかんじ。っしゃ次は、ガワを適当に変えつつとりあえずのプロット案を作る作業……っと思ったけど





後は任せた


いやーもういいかげんこれ以上むり。疲れたしもう5万字とか超えてるよバカかこんなバカみたことねえよ。

それなのに、なんでこんなことしてるのかっていうと、ちょうど今、逆噴射小説ワークショップってやってるじゃないですか。



何度も言ってるとおり俺は作品にカネを払う側なんで最初参加する気はぜんぜんなかったんだけど、例のラーヤ(以下略)を公開翌週くらいに観て、なんか微妙な出来なせいでガッカリしたっていうよりも、とうとうディズニーすら堂々と手抜き始めたら人類おわりだろみたいな危機感をもっちゃったんで急遽、逆噴射小説ワークショップに参加する真の男を量産するべく、ロバート・マッキー大先生の本を趣味で読んだり(うんちく本読むの好きなんすよ昔から)映画とかいろいろ観る中で気付いた、「この方法なら名作からばれずにパクって楽に一本でっち上げられるんじゃね?」っていう自分なりのノウハウを頭のなかから引きずり出して偉そうに公開共有し、もって俺からみんなへのエールとすることをもくろんだ。んでこの記事もさらに、プロット案の作成した上で、ついでにストーリーの冒頭を適当に第一話にして小説の体裁にでっち上げて、逆噴射小説ワークショップに投稿するってところまで考えてた。

で、深く考えもせずに軽いきっかけで書き始めたらごらんのありさまですわ。チョーみっともねえ。なんかふわふわ考えてるだけで「俺は分かってる」みたいに誤解してるから、いざノウハウの言語化を始めると、もうぐだぐだと書いても書いても終わらないみたいな恥をさらすことになった。

それでもせっかく途中まで書いたのをお蔵入りもなんかくやしーなくらいのモチベーションであいた時間はほとんどつぎこんで使って書けば書くほど泥沼にはまり、気付けば投稿作の締め切りまで今日入れてあと4日。もうあがいたところで事実上時間切れだしこんなことに何時間むだづかいしてんだバカしばらく映画もろくに観れてないし、いいかげん空いた時間は花見に繰り出して酒飲むとかしたいんですよ。だからもう許して。

いやもう、自分で自分に説明みたいな作業を通じて、本当に理解したって言えるのは明確に言語化したあとだけだって思い知らされましたわ。ていうか、俺がここまで恥をさらす義理はどこにもないので二度とこんなことしない。

要するに、俺がここまでで出したアイディアとかは好きにパクってもらっていいので誰か続き書いて。

あと、もし逆噴射ワークショップの参加者の人がここまで読んでくれてるなら追加のお願いがある。

逆噴射先生にきっついこと言われてもめげるな。俺もこないだ公開されたワークショップ第一回を読んだけど、はっきり言って書いてあることは完全に正しい。読んでて俺自身が反射的にカチンときた部分も、よく考えてみたら俺のほうが間違ってることをしぶしぶ認めざるを得ないみたいな体験を通じて、やっぱこういうのは他人に任せて俺はしばらく離れようとおもった。



けどね、みんなは、貴重な、逆噴射先生とかの完全に正しいアドバイスを糧にしろ。びびるひつようはない。たとえクリエイターの立場に回っても、観客や読者としての自分を忘れない限り、おまえは真の天才だからだ。それが俺がさっきから長々しゃべってることだ。自分もまた観客や読者のひとりだってことを忘れたやつから観客や読者をみくだすようになり、結果クリエイティブがショボくなるのが世の定めってことを絶対忘れるな。

ところでおまえは『スラムダンク』をもう読んだか? すらだnをめちゃくちゃ面白がってる時点でおまえはスラダンの高度に極まった技術に反応してその面白さをかんぜんに受け止めている。そして読みおわった今ではおまえにとって、桜木や流川の気持ちは手に取るようにお見通しのはずだ。おまえはそのくらいに普通に天才だ。それがおまえが否定したくても否定できない厳然たる事実だ。

だからおまえは今すぐ、おまえの中に眠る桜木花道を思い出せ。そしてちゃんと俺に聞こえるように声に出してゆえ。

もしおまえがクリエイターとかじゃなくてもかまわない。いっしょになってゆえ。スラダンみたいな傑作をもっと読みたいなら声をあわせろ。おまえが声をあげ、読者が天才であることをやつらに思い出させるのがタルサ・ドゥームの支配を打破する唯一のみちだから、それはおまえの天才としての義務といえる。

じゃあいいか? 声をあわせて

せーの


天才ですから


声が小さい! 

もう一度!


せーの!




天才ですから





それじゃ、またねー