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村山聖 生死を超えて、宇宙の彼方へ

昨日、8月8日は夭折のプロ棋士、村山聖九段の命日だった。

僕は、この日のために村山先生が平成七年に将棋の専門誌である『将棋世界』に寄稿された『彼方へ』という名文を、なんとかポエトリーリーディング(ポエトリーリーディングとは、広義には詩を朗読するアート形態そのものを指す)という形で作品にできないか考えていた。思い立ったのは、6月頃だったと思うが、レコーディングの大変さは今まで嫌ほど味わってきたし、何よりプライベートが多忙で、他にも疫病の蔓延や著作権の問題、メンバーの協力など、8月8日までの少ない日程で作品を完成させることを想像すると、あまりにも無理がありすぎた。

だが、時やチャンスというものは、一度逃してしまうと無残にもパッと消えてしまう。「やると決めたらやるしかない。やるかやらないか、それだけ。」僕はその信条を胸に、今まで生きてきた。作品を制作するときもいつもそうだった。

しばらく考えた。考えているうちに7月になり、僕は意を決して村山先生のお母様のトミコさんに電話をかけた。「聖のことなら何でもさせてもらおうと思ってきました。」優しい語り口でそう言うお母様は、『彼方へ』の作品化について一も二もなく快諾してくださった。電話口でご主人の伸一さんにも替わってもらい、同じく快諾してくださった。伸一さんは村山先生について、いつもは多くは語らず「一生懸命生きた子です。」と一言、男らしく、知的である。同日、僕はその足で村山先生の師匠である森信雄先生のご自宅へ向かい、いつものように恥ずかしいような下手な将棋を指して、帰り際に森先生に声をかけた。森先生は僕の目の前を歩いている。その背中に声をかけるのは緊張するし、勇気がいる。「あの、森先生、村山先生の『彼方へ』を朗読したいのですが、森先生の撮られたお写真を使ってもよろしいでしょうか…。」何処の馬の骨かも知れぬ弱輩の僕に「いいですよ。」と即答してくださった。

森先生の仰るように、今はもう、利己的で自己主張の強い時代になってしまった。右を向いても左を向いても自分のことしか考えていないような人が多くなったこの時代に、ご両親の村山伸一さん・トミコさんにしろ森先生にしろ、とても温かく、謙虚で人間性豊かな方々だ。こんな方々を引き寄せた村山先生の人徳は計り知れず、いかに人間性の深い人物であったか思い知らされる。

同日夜、プロのギタリストである蒲生孝典さんに連絡をとった。蒲生さんもお忙しいのに、翌日には天王寺で落ち合って話をして、快く引き受けてくださった。蒲生さんもまた心優しく、僕が今までどんな無理を言ってもその度に引き受けてくださった。

僕の不安はこうして心優しい人々によって拍子抜けするほど簡単に拭われてしまい、いよいよ布陣は整った。しかし、日を追うごとにプレッシャーがのしかかってくる。相手は、「村山聖」、 ”本物の将棋指し” かの天才棋士、羽生善治先生にそう言わしめた大人物だ。作品化には大きな責任を感じる。

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↑(村山先生の住まれた大阪市北区の前田アパート。ここを管理されている1階の三谷工業の田中さんも気さくで心のある人だ。)


僕の人生に最も影響を与えたのは、両親など例外を除いて尾崎豊と村山聖。尾崎豊は26歳で、村山聖は29歳でこの世を去った。

僕が僕であるために、勝ち続けなきゃならない            『僕が僕であるために』 尾崎豊
負ける位なら死を選ぶ、それが僕の世界だった             『彼方へ』 村山聖

夭折した二人の男は、不思議にも対義語の「勝つ」という言葉と「負ける」という言葉を使って、人生観を表している。彼らの言う勝ち負けというのは、決して単なる表面的なものではないことは、それぞれの作品を通してみると、火を見るよりも明らかなことだ。彼らが訴えていることは、自分自身のエゴイズムに対しての勝利であり、自らの宿命に決して敗北してはならない。そういうことだと、僕は強く感じているし、信じている。

大崎善生さん著作の『聖の青春』の一節が頭をよぎる。

もし自分が病気でなければ、そう考えることは村山には何の意味もなかった。病気を抱えながら生きる自分が自分自身であり、それは切り離して考えることはできない。病気が自分の将棋を強くし、ある意味では自分の人生を豊かなものにしているのだと考えた。   『聖の青春』 大崎善生

人は皆わがままで、何かあれば人のせいや環境のせいにする。あれがあればこれがあれば良かった。何でこんな目に合わなければならないんだ。そんなことばかりを口にして、自分の心の深くまで顧みることなく、日々を過ごしている。せっかく人間に生まれたのだから、そんな生き方だけはしたくない。そんなふうに生きるのなら、死んだほうがましだ。

改めて、そんなことを考えながら村山先生と心のなかで向き合った。

今まで、尾崎豊さんの楽曲をカバー作品にしてきたときもいつもそうだったが、いまこうして村山先生の名文と向き合っているということは、自分自身と向き合っているということだ。『彼方へ』のポエトリーリーディングは、もちろん第一に村山先生に捧げるためだが、その目的と対をなしているのは”自分自身を深くみつめる”ということ。『彼方へ』のポエトリーリーディング作品化は、いま人生の大きな挑戦に挑んでいる自分自身への戒めにしなければならない。そう思った。


蒲生さんは蒲生さんでまた、『聖の青春』を精読してくださった。7月31日、蒲生さんから「読了しました。身を引き締めてがんばります。」と連絡があった時はとても嬉しかった。優しく、真摯な言葉に、心を動かされた。蒲生さんとは天王寺で、福島で、十三(すべて大阪の街です。)で、村山先生のことを語り合った。忘れられない思い出である。

8月6日、レコーディング当日(レコーディングスタジオがなかなか空いておらず、ギリギリの日程になったが、この日が村山先生ご出身の広島にとって大変意義深い日であり、奇遇にもその日と重なったことに更に身を引き締める思いだった)。いつもお世話になっているレコーディングエンジニアの菅野裕太さんが待っていた。そして、蒲生さんが到着する。蒲生さんが練り上げ、アレンジしてくださったBOSTONの『More than a feeling』は美しく、ガットギターの柔らかい音色が身を包む。「”toilet"を覚えておけば海外に行っても困らないから」そう言っていたという村山先生がBOSTONを好んで聴いていらしたのには、先生のあまりにも鋭敏な感性に驚きを隠せない。『More than a feeling』は単なるラブソングではなく、人生を深く見つめた繊細な楽曲で、まるで村山先生のことを歌っているようにも思える。余談だが、そんな曲作りには、尾崎豊にも通ずるものを感じる。

『彼方へ』のレコーディングは僕と蒲生さんのフリーテンポ一発撮り(一発録りというのは、各パートが同時に録音を行うこと。各パート別々に録音し、それを後から重ねる方法をバラ録りという)。時間もあまりないので、僕は1発か2発で成功させると心に決めていた。ガラス越しに蒲生さんと向き合う。菅野さんが録音開始の合図を出す。僕は深く息を吐いて、マイクに口を向けた。1発目もかなり良かった。でもまだ少し時間があるのでもう1発。2発目は申し分ないものだったと思う。結局、2発目の録音で終わり、それを動画本編に使用した。

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↑(このガラス越しに菅野さんと蒲生さんがスタンバイしていた。)


そして、蒲生さんが追加でギターを重ね(本編の間奏ギターソロの部分は特に美しいので皆さんにはぜひ注目して聴いていただきたい。)、菅野さんが手際よくミックス、マスタリングを行う。

音源ができあがり、三人で確認した。その時に蒲生さんが小さく拍手をしてくれた。僕もそれに合わせて拍手をした。言葉など要らない、それがすべてなのである。

その後、二人で缶コーヒーを飲みながら煙草を吸った。

村山先生は、聴いて下さっただろうか。動画編集は相変わらず大変だったが、森先生が提供してくださったお写真は『彼方へ』にぴったりだった。

できれば、多くの方々に聴いてもらいたいと思う。僕らが制作したポエトリーリーディングを通して、村山先生のことを改めて考えてくれる人、初めて知って興味をもってくれる人、そんな人が一人でも多くいてくれたら、僕にとっては最大の喜びだ。村山先生は、生死を超えて、宇宙の彼方へ飛び立った人なのだということを感じていただきたい。

そして、僕のような人間が言うのはおこがましいが、将棋というものはとても美しいものだから、将棋にも興味をもってもらえたらなと思う。元々僕は羽生善治先生の対局の姿をみて、その勝ち負けを超えた深い勝負観の美しさに魅了され、魂の救済を体験した。それがきっかけで村山先生を知ったものだから、余計にそう思う。

最後に、僕が座右の銘の一つにしている村山先生の箴言をご紹介して終わります。『彼方へ』のポエトリーリーディングを聴いて下さった皆様、この記事を見てくださった皆様、ありがとうございました。

人間は悲しみ、苦しむために生まれた。それが人間の宿命であり、幸せだ。僕は、死んでも、もう一度人間に生まれたい。   村山聖

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↑(8月6日、レコーディングスタジオの様子。左手に菅野さん、中央にガットギター、右手には村山先生の扇子)


2021年8月9日 白木 静

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