僕とリスク

橋の上に立つ。
下には池が張ってある。川が流れていてもいい。
そこから見える景色は美しく、この橋に立っている観光客は皆スマホを取り出して写真を撮っている。
僕も撮ろうと、スマホを取り出すがここで一つのことが頭によぎる。

スマホを池に落としたらどうしよう。

僕はこのとき往々にして、スマホをポケットの中に突っ込んでその場をあとにしてしまう。




僕はそういう意味において小心者だ。
考えられるリスクが頭をよぎると得られるリターンを度外視して、することを止めてしまう。
常に最悪のケースを想定しているのかと言えばそうではないのだが、ただ、先ほどの例で言えば、手を滑らせ、落ちかけたスマホを空中でキャッチしようとするが焦って手元に落ち着かず、あらぬ方向へスマホが飛んでいき、落ち着く先は池の中、というのが鮮明に予測できるのだ。
「できる」というのは違うかもしれない。「してしまう」のだ。

これは僕の人となりの一つのようで、あらゆる面で垣間見えるところだったりする。

電車を待つ駅のホームで。
急行が通過するとき、誰かが急に後ろから押してこないか、もしくは誰かのバッグに僕の身体が弾かれてしまわないか、黒ずくめの謎の集団に命が狙われていないかとすら考えてしまい、僕はホームドアがない限り、電車到着待ちの列の先頭には並ぼうとしない。
命の危険を晒すくらいなら、電車で座れるチャンスなんて喜んで差し出す。

テレビや映画で。
お風呂場でスマホをいじるシーンを見るだけでもソワソワしてしまう。
落としてしまうじゃないか。
どうしてそんなことができるのだろうか。
お風呂に入りながらじゃなくてもスマホなんていじれるだろうに、どうして水没というリスクを冒してまで今そこでスマホをいじりたいのだろう。
それが少しばかりノイズになって話が入ってこないときだってある。

男子特有のノリで。
ジャンケンで負けた奴が全員にジュースを奢る、みたいなアレ。
負けたら無駄に1000円近く払うだなんて。
なぜジュース1本のためにそんな賭けに出なければならないのだろう。
リスクを冒すくらいなら財布から150円出して喉を潤したいのだ、僕は。
本当に理解に苦しむ。あのノリを強制してくる人とはいつだって仲良くなれなかった。



こうして考えると、僕はどうやら、わずかな、そして軽度なリスクに日々不必要に怯えているようだ。

最近ようやく気付いた自分の一面だった。


スマホを池に落とす可能性だってあるだろうが、多くの人はそれを気にして絶景を望めるその橋を素通りしたりしない。
駅のホームから落ちて死ぬことだってあるだろうが、泡で手を滑らせてスマホを水没させることもあるだろうが、1000円を失う可能性もあるだろうが、多くの人はそこまで考えずに生きている。
そのリスクを冒してまでやろうとする価値が、そこにはあるのだ。

僕の肝っ玉が小さすぎるだけなのだろうか。
肝っ玉が小さいだけの話で済むのならいいのだが、過度な不安症なわけでもないのに必要以上にリスクを恐れるこの思考や行動が、日々の行為を頭の中だけで完結させているような、足じゃなく脳みそで地面を歩いているような、なんというか人としての血や肉やエネルギーを感じない、無機質な合理主義の塊のように思えてきてしまって、なんか嫌である。
これもまた不必要な怯えなのだろうか。


でもこの思考はどうにもこびりついて拭い取れない。
どうしても頭でグニュグニュ考えて行動したがるのだ。
自らリスクを考え出し、まるで自ら怯えたがっているような。本当に不必要だ。

精神論はあまり好きじゃないけど、度胸を見せろって話なのだろう。まぁそこまで大袈裟な話ではないのだが。
でも、そうしたらもう少し怯えず楽しく伸び伸びと生きられるぞ、と誰かが言ってきそうだ。浅黒く日焼けした肌に映える白い歯を見せながら、満面の笑みで言ってきそうだ。上腕二頭筋がきれてるなぁ。



しかし、僕は思った。
ここまで不必要にリスクに怯える男がどうして人生を賭して芸人という職業を選んだのだろう、と。

答えは、やりたかったから。

だろう。

この向う見ずにも程があるシンプルすぎる自答に、なんだよ男のロマンってか?と恥ずかしくなると同時に、僕は安心もした。
僕にだって度胸があったんじゃないか。

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