異端の映画監督 大林宣彦

それまでの撮影所はというと、縦割りでパートが分かれていた。

だから、例えば新人の助監督さんが、ちょっとタオルを持っておいでって頼まれて、タオルだから衣装具に行くと、「タオルは小道具だ」って叱られる。

今度は手拭いを小道具さんに借りに行くと、「何を言ってるんだ、手拭いは衣装具だ」と怒られる。

そういうふうに分かれていた。

だから、ハンドバックは小道具。靴もそう。着る衣装は衣装具だし、メイクはメイクだし、頭は結髪さんがやる。

つまり、プログラムピクチャーを生むためには効率よくしなきゃならないので、各パートがそれぞれに作って、それで撮影現場で初めてドンッと一緒になるから、ハンドバックと衣装の色が合わなかったりすることもある。

『HOUSE』は日本の映画史上では初めてコーディネイターというものが入った。

椅子の敷物から、ベッドカバーから、衣装から帽子や靴やハンドバックやメガネやそこに置いてある果物も、つまり、映像になるもの全てを統一したイメージで考える。

それから、撮影部、照明部など、縦割りされていた撮影に、パナフレックスという新しいカメラを持ち込んだ。

このパナフレックスというカメラは、ライトが少なくてもいい、パナビジョンというレンズを付けた小型のカメラ。

それまでのカメラは「ミッチェル」と言って、5人ぐらいで支えなきゃならない。

それが、助手さん1人で担げるようになって、しかも、カチンコも横についてて、撮影部の助手さんがレンズの前でコンと叩く。

なぜ、そういうカメラが開発されたかというと、ハリウッドではニューシネマが始まって、撮影場システムが終わったから。

つまり、1万ドルムービーという、1台の車に撮影機材と照明機材全部積んで、1クルーがそのままモニュメントバレーのようなところに出かけていけば映画を撮ることができる。

つまり軽便化のためのカメラだった。

そのカメラを持ち込むと、撮影部さんも照明部さんも、その人数が、それまでの撮影所システムの3分の1から5分の1で済むという、しかも撮影効率も良い。

ところが、東宝は撮影所の中ですから、ちゃんと撮影部、照明部の人数はいっぱいで、「このレンズ使うと、ライトはこれだけでいいんですよ」と言ったら遊んじゃう人ができちゃう、これもやっぱり端境期だった。

しかも、パナフレックスは、当時はレンタルカメラで、必ず助手さんがパナフレックスの本社に行って、使い方を学んできて、その撮影のためにだけ貸してもらうということでしか使えなかった。

大林宣彦監督はCMで世界中回って、そこで使っていたので、そういう日本映画にはない撮影監督システムを持ち込むことができた。

撮影中も、それまでの特撮というと、操演といって、糸で引っ張ったり、吊ったりする専門家だけがやるわけだが、HOUSEのときは、いろんなものが飛んでくるシーンは、二重に上がってみんなで投げる。

普段はヘアメイクやってる人が、面白そうに、大きな椅子を持って投げたり、だから撮影場全体がもう、縦割りが全部なくなって、誰も彼もが一緒になって他人のパートも手伝った。

本来は手を出したら、それこそ労働組合だから絶対にそういうことしちゃいけないという習慣があったんですけど、もうとにかくみんなで寄ってたかってHOUSEごっこやっちゃうという、その不思議な楽しさがこの映画全体に満ち溢れた。

ゴジラなどというのは、伝統的に円谷さんがお作りになった。つまり、特撮部と本編を撮る部が分かれていて、それぞれ専門的に特撮は作られていた。

HOUSEは、特撮監督も大林宣彦監督と阪本善尚さんがやる。伝統的なぬいぐるみであったり、物を吊ったりするという、そういう特撮映画ではない。オプチカルによる合成映画、日本で初めてと言ってもいい本格的な。

とにかく、やることなすことが全部初めて、システムから何から全て初めてだから、もうみんな楽しくて、どうなることかっていうことが、何か明日を作り出すというハッピーな感じだった。

当時は、そうやって、キャンペーンを起こして、時代の波として流れとして、極々自然な一つの力で、外から東宝という撮影所の伝統的に閉鎖された門を開いたと思っていた。

それから10年ぐらい過ぎた頃、東宝撮影所の監督である小谷承靖さんから当時の東宝社内の監督会での話を聞いた。

当時、日活の藤田敏八さんが東宝に来た時、労働組合の委員長の岡本喜八さんを代表に、門でピケを張って通れないようにした。

同じ映画仲間で、それは寂しいなと、組合員だからそうしなければいかんけど、もっとここで映画人同士は手を結び合うべきではないかと。

映画人同士だけじゃない、大林さんという巷ににいるフリーの映画人ではない人の作る映画がこんなにみんなに期待され求められているのならば、我々の仲間として、大林さんを東宝に招いて、ここで存分に才能を発揮してもらおうじゃないかと。

そこで岡本喜八監督が説得されて、東宝の門が中から開いたという事実もあった。

映画を愛する人たちの力が何か新しい可能性を求めた、その場所にたまたまいた。

それは誰でもよかったし、誰かがならなきゃいけない。ただ、その場所に自分で積極的にいたんだという誇りはあった。

そして、今、東宝の会長の、当時は、企画部長をやられていた松岡功さん。テニスの松岡修造さんのお父さん。

松岡さんからも、正式にHOUSEの監督をお願いされた時に、「私が期待するのは、この不思議な台本です。私が理解して作る映画は今、お客さんにちっとも受けない。どうか私がわからないままで映画を作ってください。私にわからせようなどと気を使わないでください。」と言われた。

そういうやっぱり不思議な作品だった。

作品の内容も、そして映画界のシステムを考えても、実にハッピーでした。

いや、ハッピーを創り出したという誇りはこの体いっぱいにあります。