原因から究明/糾明/救命しよう

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[F mix]

※ 引用符・出典表記なし

(1) eth1-AX-LineAlpha
たとえ実在していることをその本質として巻き込んで内包していなくても、
それは把握されうるのであって、その際にはおのれの観念と一致なり適合なりすることになる。
となると、一方で把握されたものが概念として巻き込んで内包していても、他方で把握されず概念にもなっていないならば、
それらは、おのれをとおして互いに知解されることすらできない。
したがって、結果として認識されているものは、原因として認識されるべきものを巻き込んで内包しているからには、
原因として認識されるべきものに依存なり依拠なりしているのであって、
たとえ帰結するはずの結果としては、さすがに在り得ないとしても、
何らかの結果が帰結するのは必然的だ。
また、把握されて概念になるにあたっては、おのれをとおしているにちがいない、となれば、
他のものをとおして把握されることはできなくても、それは存在している。
このようにして、他のものにおいて、有りとあらゆるものが存在する。
これは公理に匹敵するくらいの、自明の理である。

(2) eth1-AX-LineBeta
その本質として巻き込んで内包しているのが、実在していることでないならば、
それは、あたかも実在していないかのようになるし、
一方で把握されたものが概念として巻き込んで内包していても、他方で把握されず概念にもなっていないこともある。
しかし、原因として認識されるべきものを巻き込んで内包しているからには、
結果として帰結するはずだし、把握されるにちがいないのであって、そのかぎりで、おのれをとおして存在していることになる。
これは自明の理であるから、公理とする。

(3) eth1-AX-LineGamma
たとえ実在していることをその本質として巻き込んで内包していなくても、
それは何であれ、観念としては真なるものにちがいない。
但し、一方で把握されたものが概念として巻き込んで内包していても、他方で把握されず概念にもなっていないならば、
それらが有するものは、互いにおのれとは何ら共通していないはずだ。
とはいえ巻き込んで内包しているものは、原因として認識されるべきものであり、
そうしたものは結果として認識されることになるし、また、結果としても帰結するはずだ。
決定的な原因は、もしかしたら何も与えられていないかもしれないが、逆に、
贈与や投与に限らず与えられたものが原因として決定されたことから、
おのれをとおして把握されて概念になるにちがいない。
そのことによって、
存在しているものは、おのれにおいて、有りとあらゆるものとなってしまうのだ。
これは公理に匹敵するくらいの、自明の理である。

[引用・参考文献]

G.Opera:
SPINOZA OPERA, im Auftrag der Heidelberger Akademie der Wissenschaften,
herausgegeben von Carl Gebhardt, Heidelberg, C.Winter,1925.

※ e.g. G.Opera II,46.21: ゲプハルト版第2巻46頁21行目

BIBLIOTHECA AUGUSTANA:
https://www.hs-augsburg.de/~harsch/spi_intr.html

スピノザ協会年報『スピノザーナ 第18号 2021-22』(学樹書院、2022)

[凡例]


eth.: Ethica (e.g. eth1: part 1 of Ethica)
ax.: Axiomata (e.g. ax7: axiomata VII)
※ 小数点以下は、当方が任意に区分して付番。

[HPML mix]

※ 引用符・出典表記あり

(1) eth1-AX-LineAlpha
たとえ「実在していることを」「その本質」と して「巻き込んで内包して」い「なく」ても(eth1-ax7.004:G.Opera II,47.02-03)、それは「把握されうる」(eth1-ax7.003:G.Opera II,47.02)のであって、その際には「おのれの観念と cum suo ideato」「一致なり適合なりする convenire」ことになる(eth1-ax6.002:G.Opera II,47.01)。
となると、「一方」で「把握されたもの」が概念として「巻き込んで内包して」いても、「他方」で「把握され」ず概念にもなってい「ない」ならば(eth1-ax5.003:G.Opera II,46.30-31)、
それらは、「おのれをとおして」「互いに」「知解されること」「すら」「できない」(eth1-ax5.002:G.Opera II,46.29-30)。
したがって、結果として認識されているものは、原因として認識されるべきものを「巻き込んで内包している」からには(eth1-ax4.003:G.Opera II,46.27-28)、
「原因」として「認識」されるべきもの「に依存なり依拠なりしている」のであって(eth1-ax4.002:G.Opera II,46.27)、
たとえ「帰結する」はずの「結果として」は(eth1-ax3.005:G.Opera II,46.26)、さすがに在り(est)得ない(impossibile)としても(eth1-ax3.004:G.Opera II,46.25-26)、
何らかの「結果」が「帰結する」のは「必然的」だ(eth1-ax3.002:G.Opera II,46.24-25)。
また、「把握されて」概念になるにあたっては、「おのれをとおして」いる「にちがいない」、となれば(eth1-ax2.003:G.Opera II,46.22-23)、
「他のものをとおして把握されることはできなく」ても、「それは」(eth1-ax2.002:G.Opera II,46.22)「存在している sunt」(eth1-ax1.005:G.Opera II,46.21)。
このようにして、「他のものにおいて in alio」(eth1-ax1.004:G.Opera II,46.21)、有りとあらゆるもの(quae)が「存在する sunt」(eth1-ax1.002:G.Opera II,46.21)。
これは「公理 AXIOMATA」に匹敵するくらいの、自明の理である(eth1-ax0.000:G.Opera II,46.20)。

(2) eth1-AX-LineBeta
「その本質」として「巻き込んで内包している」のが、「実在していること」で「ない」ならば(eth1-ax7.004:G.Opera II,47.02-03)、
それは、あたかも「実在していない」「かのように」なるし(eth1-ax7.002:G.Opera II,47.02)、
「一方」で「把握されたもの」が概念として「巻き込んで内包して」いても、「他方」で「把握され」ず概念にもなってい「ない」こともある(eth1-ax5.003:G.Opera II,46.30-31)。
しかし、原因として認識されるべきものを「巻き込んで内包している」からには(eth1-ax4.003:G.Opera II,46.27-28)、
「結果として ut effectus」「帰結する sequatur」はずだし(eth1-ax3.005:G.Opera II,46.26)、「把握されるにちがいない」のであって、そのかぎりで、「おのれをとおして」(eth1-ax2.003:G.Opera II,46.22-23)「存在している sunt」ことになる(eth1-ax1.005:G.Opera II,46.21)。
これは自明の理であるから、「公理 AXIOMATA」とする(eth1-ax0.000:G.Opera II,46.20)。

(3) eth1-AX-LineGamma
たとえ「実在していることを」「その本質」として「巻き込んで内包して」い「なく」ても(eth1-ax7.004:G.Opera II,47.02-03)、
それは「何であれ」(eth1-ax7.001:G.Opera II,47.02)、「観念」としては「真なる」もの「にちがいない」(eth1-ax6.001:G.Opera II,47.01)。
但し、「一方」で「把握されたもの」が概念として「巻き込んで内包して」いても、「他方」で「把握され」ず概念にもなってい「ない」ならば(eth1-ax5.003:G.Opera II,46.30-31)、
「それらが」「有する habent」ものは、「互いに」「おのれとは cum se」「何ら」「共通して」いない(nihil)はずだ(eth1-ax5.001:G.Opera II,46.29)。
とはいえ「巻き込んで内包している」ものは、原因として認識されるべきものであり(eth1-ax4.003:G.Opera II,46.27-28)、
そうしたものは「結果」として「認識」されることになるし(eth1-ax4.001:G.Opera II,46.27)、
また、「結果として ut effectus」も「帰結する sequatur」はずだ(eth1-ax3.005:G.Opera II,46.26)。
「決定的な determinata」「原因 causa」は、「もし si」かしたら「何も」「与えられて detur」いない(nulla)かもしれないが、「逆にcontra」(eth1-ax3.003:G.Opera II,46.25)、
贈与や投与に限らず「与えられたもの data」が「原因 causa」として「決定された determinata」こと「から」(eth1-ax3.001:G.Opera II,46.24)、「おのれをとおして per se」「把握されて」概念になる「にちがいない」(eth1-ax2.003:G.Opera II,46.22-23)。
「そのこと」によって(eth1-ax2.001:G.Opera II,46.22)、「存在している sunt」ものは(eth1-ax1.005:G.Opera II,46.21)、
「おのれにおいて in se」(eth1-ax1.003:G.Opera II,46.21)、有りと「あらゆるもの」となってしまうのだ(eth1-ax1.001:G.Opera II,46.21)。
これは「公理 AXIOMATA」に匹敵するくらいの、自明の理である(eth1-ax0.000:G.Opera II,46.20)。

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