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【コミュラボ】祝!3周年&第50回オフ会 村田信之さんと語る「教育と多拠点生活とコミュニティ」

2022年2月28日に開催した「コミュラボ」オフ会のまとめです。

「コミュラボ」オフ会は、ちょうど3年前の2019年2月28日に、ゆうこすさんをゲストにお迎えしてキックオフ。その後、3年にわたり月1回から2回ペースで開催してきました。

ということで、祝!3周年、そして祝!第50回(オンラインでは第32回)の「コミュラボ」オフ会。

今回は、村田信之さんと 「教育と多拠点生活とコミュニティ」をテーマにおしゃべりしました。

村田信之さんのご紹介、そして、お声かけした理由


村田信之さんとは

1966年5月27日 長崎県佐世保市生まれ
1985年 海星高校卒業
1993年 早稲田大学政治経済学部卒業
1994年 ジャーナリスト田原総一朗さんのスタッフに
1995年 北京大学へ留学 (〜1997年)、帰国後は田原スタッフ復帰
2002年 早稲田大学客員研究員となり、大隈塾「21世紀日本の構想」の立ち上げに関わる。
2003年 大隈塾ゼミ(高野孟ゼミ、岸井成格ゼミ)の教員に
2004年 大隈塾ネクスト・リーダー・プログラムを立ち上げ、ディレクターに就任
2006年 早稲田大学大学院公共経営研究科修了(公共経営学修士)
2008年 京都芸術大学客員教授(〜2018年)
2009年 内閣官房内閣総務官室専門調査員(〜2010年)
2012年 早稲田大学客員准教授(〜現在)
2014年 ネクスト・リーダー・プログラムをリーダーシップ・チャレンジにアップデート
2016年 立教大学兼任講師(〜2016年)
2017年 「21世紀日本の構想」から「たくましい知性を鍛える」にアップデート
2020年 岩手県釜石市に移住

研究分野
ワークウェルネス、リーダーシップ、公共経営、地域再生

村田信之さんにお声かけした背景

ー■1. 村田さんの設計する教育の場が面白いから

ご紹介の通り、村田さんは2002年から20年にわたり、早稲田大学で教鞭をとっています。担当授業「大隈塾」(現「たくましい知性を育てる」)は、講義でリベラルアーツやリーダーシップ論をその分野の第一人者から学んだ上で、ワークショップやディスカッションを行う形式です。

さらに、講義にとどまらず、さまざまな「現場」で実践する機会もあります。面白いのは、そうした学びの機会を学生が企画立案し、教員は必要であれば巻き込む、という「自主性」を重んじた形式であること。さらにこの形式が、かねてよりデフォルトであることです。

(コミュラボ主宰の辻が)10年前の2012年にWBSで履修した際の大隈塾における「スタディーツアー」は、その好例でした。担当の内田先生の予定で日程だけ決まっていて、ツアーの講義の中での位置づけをはじめ、行き先、内容、そのセッティングなどは、受講生自らで行いました。

しかし、決して「放任」されている感じがしませんでした。でも、受講生は「出番」がきた上に、経験も得られえる空気感がありました。

こうした学びの場を作るために意識されていることは、コミュニティ運営に活かせると思います。

ー■2. 村田さんの釜石への移住と多拠点生活が興味深いから

「大隈塾」の現場の一つが、復興支援の文脈で関わり始められた「釜石」。きっかけは元早稲田大学ラグビー部監督の清宮克幸さんが、村田さんに声をかけたこと。その後、大隈塾の学生とともに、現地を訪問するようになります。

「東京で描いた『机上の空論』で支援活動をしてはならないと思い、なるべく現地に通うようにしていました。」とのこと。「現地での活動を重ね、だんだんと知り合いが増え、被災地に必要なことがわかっていった」ことなどをベースに、卒業生のネットワークを活かしつつ、さまざまな活動を展開。2019年のラグビーW杯の運営支援などにも参加します。

その後、2020年に釜石へ移住。そこをベースに与論島など様々なところを回りながら過ごす多拠点生活を加速します。このような日々を通じて「発想が豊かになる」とのこと。それぞれの地にある「常識」に触れ、一つに固執する必要がないことに、改めて気づけたそうです。

そうした日々での人間関係の作り方、活動、考え方など共有していただきたいです。

トークテーマ

テーマは3本だて。【第1話】村田さんと早稲田大学、【第2話】村田さんと釜石、【第3話】村田さんと多拠点生活でのおしゃべりでした。

【第1話】村田さんと早稲田大学

田原総一朗さんや高野孟さんとの日々、そして今の生活への影響

Q. 2009年からの内閣官房内閣総務官室専門調査員の日々は?

鳩山由紀夫元首相の所信表明演説をはじめ、内閣が外に打ち出すものの原稿を佐藤尚之さん、平田オリザさんたちと一緒に作っていた。

それまでの所信表明演説は、各省庁が短冊に書いてつなぎ合わせて話していた。鳩山内閣ではそれをやめ、首相が国民に向けて伝えたいことを作るようになった。オリザさんが「そこで0.5秒溜めて」などと助言する練習を3時間ほどやってから、鳩山さんは演説に臨んだ。

ポイントは「誰に向けて話すのか」を意識していたこと。関係者に話すのではなく、観客である国民に向けて話していた。しかし、以前の政権政党などからは「何をやっているのかわからない」と言われた。

当時の民主党は、政権政党を目指して政策立案すべく、シンクタンクを作っていた。英国の制度を模して「ネクストキャビネット」を作り、その日を目指して備えていた。民間人を含めて、政策やビジョン、ミッションを練りに練っていた。

しかし、その実行は簡単にいかなかった。というのも、シャドーキャビネットからそのまま大臣になると「俺も」「私も」という人がたくさん出てきて、スタンドプレーが目立つようになった。「政権を取るとはこういうことか」とわかった。

Q.田原総一朗さんと共に過ごして学んだことと言えば?

怖いもの知らずになった。常に大物政治家、大物経営者に会って、思いの丈を伝えていたから。

田原さんと石原慎太郎さんの対談の際に、田原さんが事前に考えていた質問に詰まると、すかさず「それは…」とフォローした。すると、石原さんから「田原事務所を辞めて、うちに来ないか」とのお声かけもいただいた。

Q. 同時に過ごしていた「早稲田大学」での日々は?

当時、基本はティーチングだった。田原さんが誰かすごい人を呼んで話してもらって、知識を伝達していた。講演会の後に、形ばかりの質疑応答をしていた。

Q. 教育の形態はその後、変わった?

ティーチングが効かなくなり、いわゆる「アクティブラーニング」になっていった。社会人の大学院生の皆さんには、政治家や大物経営者の意味がよくわかっていたので、その成功談などは参考になっていた。

しかし、学部生は違った。年々新聞を読まなくなり、テレビでニュースを見なくなり、自分の知りたいことや好きな人のことをネットで見るだけになり「経営者」の存在や話すことの意味がわからなくなっていった。さらにティーチング(講演)であればYouTubeで見られる時代になり、教室の中で聞く必要がなくなった。

そこで、ダイアログやディスカッションなどの「アクティブラーニング」に変えていった。マーケット、すなわち学生の状況に合わせて変えた。「(こちらが)これを学んでもらいたい」から「(学生が)これを学びたい」を大切にし、ゲストに何かを話してもらうのではなく、学生同士が学びたいことを学んでもらう形式にした。

【メンバーからのコメント】
自分も大学でメディアに関して教えている。この2年はオンラインが主体で、自分が面白い動画をあげればいいと思って話してきた。ある回で、地方局の方をゲストに呼んだ。「キー局に入れなかった自分とは」などの失敗談も語ってもらった。学生からは「こんなに面白い講義はなかった!」と言われ…。

それは、ゲストを呼んだというよりは、学生とゲストいう「主役同士」をつないだのだろう。学生たちは働く場として「地域」を考えたことがなかった人もいたかもしれない。ゲストの話から、その可能性を垣間見れた人もいたのだろう。

学生は、メディア業界を志望するや興味がある人が多いと思う。その人たちに、先生が動画で伝えてきたことは、おおよそ「予想したこと」だったと思う。そこにゲストの話で「そうじゃない」局面が現れた。それまでの授業と組み合わせ、新たな理解が得られた人もいたと思う。

Q. 学生の授業の受け方で変化したことは?

地方にいて東京の授業を受ける学生が増えた。まずは、この状況で地方出身の学生が東京に来れなくなり、実家で授業を受けるケース。面白いのは、長野の学生が東京をスルーして福島で受けるようなケース授業がリモートで提供されるため、どこで受けても良い。そのため、実家や東京でないところで生活しながら受ける、という学生も出てきた。

こうしたことがストレスなくできるようになった。学生の中には「むしろそうすることが楽しい」と思えている人もいる。そのため、大学の講義がフルリモートから対面も可能になっても、大隈塾は「どこにいても学べる」体制を作るようにした。対面が偉いのではなく、リモートと対面は並列である。

【第2話】村田さんと釜石

大隈塾と復興支援

Q. 釜石へ行くようになったきっかけは?

早稲田大学ラグビー蹴球部の元監督の清宮克幸さんの一言。釜石への支援を決めた清宮さんが「一緒に行こう」と声をかけてきてくれたから。

清宮さんは、地域や組織に興味を持っていた。人口3万人のところで、ラグビー部が7年連続優勝できたのはすごいことだ、と思っていた。そのすごいまちが壊滅した、だから助けに行こう、ということだった。

自分にできることは、学生を連れて行くこと。学生に現実を見せること。しかし、早稲田大学もバスを仕立てて瓦礫を撤去するようなボランティアを仕立てていたので、違うことをしようと考えた。

Q. 現地ではどんなことをやっていたのか?

やったことは「何もしないこと」。お茶を飲む、行ってみて話をするなど。瓦礫を動かすこともしなかった。でも、通った。通い続けることで地元の方が「忘れてくれてない」と感じてくれるようになった。

自分にできること、やっていることは「人と人とをつなぐ」こと。「明るく、楽しく、役に立つ」をモットーにしていた。そのようにして作った関係が「役に立つ」より「意味がある」ことになっていった。「役に立つ」は自分本位な側面もある。いるだけで意味があるようになりたい。

災害は続く。不幸にして不幸になる。瓦礫の撤去や力作業が必要な場面も出てくる。そうした中で、現地に行ってみて、伝えることも必要だったりする。現地情報をSNSで発信することが、十分役に立つことがあった。

社会のために役に立ちたいと思っている学生は、たくさんいる。学生に、ティーチングだけでなく現場を紹介すると、こういう風にしようとレール引くまでもなく、動き出す。

これは「先輩」のおかげでもある。大学で、毎年行っていると、先輩がこうしてきたことを受け継ぐようになる。「恩送り」で意識と意思がつながる。

そのために、きちんとした「旗」を掲げることが大事。「みんなで行こうよ」「行った先には楽しいことがあるよ」と学生を現地に連れて行く。すると、現地の方々に「何しにきた!」と怒られる。怒られ、叩きのめされ「そもそも」を考えるようになる。へこたれる人もいるが、立ち上がる人もいる。そうしてまた行くうちに、現地でもよそ者が入れる土壌が広がる。

【メンバーからのコメント】
自分の住んでいる街は、地震も台風もこないし、観光地となるようないいところもある。しかし、人が来ない。そして、高齢化率が高まっている。家も空いているので、住むところもある。人が来るようにするには、どうすればいいか。

そもそも「人が来る」とは、どういう状態か?
銀座や黒川温泉のように、買物客や観光客が来ればいいのか。そういうことではないと思う。たくさんの人が一時期来るより、人が長く来続けることが大事なのではないか。大事なのは「瞬間最大」より「延べ人数」だと思う。

釜石へ移住した理由

「また来たか」と言われるうちに、たくさん住むところの一つ、循環するところの一つとなった。釜石で東京の仕事をやっている。住民票は釜石にあるので、それにより釜石に所得税や住民税を納め、外食するなどして東京で稼いだお金を釜石で使い、地元に貢献している。

高校で授業したり、イベントでコメントしたり、講演会のゲストとして登壇したりを、ボランティアベースでやっている。お弁当も出ない。釜石の人から「村田さんは『ただ枠』の人と思われているよ」と言われた。

地域に住んで何かをするのは難しい。
地域には文化があり、元々住んでいる人たちの中には何かをやりたくない人もいる。そうした中で動いて、味方を見つけて仲間を作る

移住した結果を出さないと価値がない。
誰も耳を貸してくれない。動いているうちに、ようやく『ただ枠』になれた。「無視」から「無料(ただ)」へ昇格できた。

【メンバーからのコメント】
都会から来た人は「お金」と「知識」があれば何かできると思う人が多いように見受ける。

土地の人たちの歴史を大事にするようにしている
以前、星野リゾートに勤めていた方から、いろんなところを再生する時の話を伺った。最新の理論を持って行くのではなく、まずはそれまでの経営を尊重する。その上で、こういうことやっていきましょう、と少しずつ変えるそうだ。

いつでも、誰にでも、まずはリスペクト。
これは大学でも同じ。授業を受けにくる学生をリスペクト。その思いを表すために、拍手を多用している。
「大隈塾」では、拍手に3つの意味を持たせている。1つ目はまずは「ありがとう」、2つ目は「発言するとは、いい度胸だ」という称賛の拍手、3つ目は「もっと頑張ろう」というチアアップのための拍手。オンラインでも拍手している。

【第3話】村田さんと多拠点生活

全国を飛び回る日々と人との関係作り

毎日、3時起き。午前中に仕事を済ませ、午後は地域の美術館や図書館へ人に会いに行く。仕事と関係ないことをやると、仕事の幅が広がる。すると、発想の幅も広がる。

人と会った後のフォローが大事。話した後に、相手に応じたSNSでコミュニケーションをとる。できないことは恐れずに聞く。聞くと教えてくれる。すると、早くわかる。早稲田大学元ラグビー部監督の中竹竜二さんが「弱みをさらけ出すリーダーシップ」と言っていたが、その通りだと思う。

Q.学生との関わり方は?

「大隈塾」の授業のハイブリッド化は、学生がみずからいろいろと動いた。オンラインの学生には、リアルの学生が「チャット」で話しかけていた。リアルで立って話す学生が、PCのカメラから切れることがあったことに気づき、カメラマンをやる学生がでてきた。

このように「貢献」しようと自分も気付いて動くようになって行く。そして、やってくれたことに対して、ありがとうという。カメラマンのことなどはオンライン側もありがたいので、チャットで感謝の気持ちを伝える。すると、感謝の気持ちをベースに一体感が生まれる。これはプランドハプンスタンスだ。

Q.いつでもそのような生き方なのか
できるときとできない時がある。中堅どころへの手放し方が難しい。仕事では難しい。授業ではできる。「距離感」がキモな気がする。仕事のように距離感が遠いと手放しにくい。

思想の背景がわかると手放せる。教育という場では手離せる。どうやって学ばせるかを追求し、本当の腹のうちを探れるから。そのために、日々コミュニケーションしまくる。だが、日々、「なんで手放せないのか」と叱られる。

Q.釜石でも手放せているのか

釜石はそこまでいかない。今は、リスペクトしながら人を呼んでいる。ギブ&ギブは効く。知識と経験の押し付けはしない。役に立ちたいと思って、動いて、信頼を得る。ありがとうという思いで、ギブし続けている。

幸せを感じる暮らし方

Q.これからやりたいこと、と言えば?

キャリアチェンジしたい。漁師とか、今やっていることと違うこと。
ティーチでなくギブ。話を聞く、任せる、という「芸風」で生きて行く。

MC後記

「リスペクト」と「感謝」…村田さんのように、肩に力を入れず、でも、学んだり、動いたりし続けるにはどうすれば良いのか。それをずっと考えながら、お話を伺っていました。

後半に出てきたこの二つの単語が、村田さんがどこでも生きていける秘訣である気がしました。誰と向き合うにしても、常に「リスペクト」と「感謝」。すなわちフラット。相当な経験や思索や学習があってもなお、人と関わる際にこの姿勢でいられるからこそ、教育現場で長きにわたり学生から支持を集め、多拠点生活でも受け入れられるのだ、と確信しました。

多拠点を動く村田さん、この日は東京にある大隈塾のシェアハウスからご参加くださいました。引き続き、動き回る村田さんの動きから、目が離せません!お忙しい中、ありがとうございました!

今回も、コミュラボ公式グラレコライター守隨佑香さんが、村田さんの柔らかい雰囲気とその中に流れる生き方を、見事にまとめてくださいました。ありがとうございました!


【The Community Lab. #コミュラボ】 コミュラボは、コミュニティが生まれる・動く「きっかけ」の場所です。関心の度合いに応じて①ゼミ、②ラボのラボ、③チアの三層構造となっています。その活動をおすそわけします。