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Covid Took My Hero Away 〜コロナの犠牲になったのが、志村けんだったなんて・・・

どうも。

そろそろ、世界各国からコロナウイルスの犠牲になる有名人の話題を耳にする頃になってきました。こう言う話のまとめを、不本意ながら書かないといけない、そんな風に思っていました。

すでに

「ソウル・マコサ」のヒットで知られるアフリカン・ジャズのマヌ・ディバンコ、そして、日本在住者でもあり、アロウズのフロントマンで、かの「I Love Rock Roll」のオリジナルを作ったアラン・メリル。彼らがコロナウイルスにかかって命を落としてしまいました。

それだけでも十分悲しいのに、よりによって・・・・。

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日本から聞こえてきたのが志村けんの訃報だなんて・・・・


もう、これはですね、

1960、70年代生まれの人にとってはこれ、とてつもないショックなんじゃないかと思いますね。

僕にとっても、これ、「一人のお笑い芸人の死」なんてものに止まりませんよ。これは僕にとって

人生最初の3人のヒーローのうちの一人の死

ズバリ、そこまで意味しますね。

僕にとっては1977年、7歳の年は画期的な1年でした。この年に僕は、それまでの幼児カルチャーを抜け出して、より「少年」の趣味へと脱皮した年だったんですけど、その時にい僕が夢中になったのが、この3人でした。

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スポーツなら王貞治、音楽ならジュリー、そしてお笑いが志村けんでした。

この年に、王貞治はホームランの世界新記録を樹立し、ジュリーは「勝手にしやがれ」で日本レコード大賞を受賞、そして志村けんは、この前の年に東村山音頭がヒットして、日本で最も人気のコメディアンになっていた頃でした。

当時のドリフ、そして志村けんがどれくらい人気あったかというと、もう、これ、小学生には切実でしたよ。土曜の夜に「8時だヨ 全員集合!」を見ていかないと、明けた月曜日に友達との話題に入れない!だからもう、子供としてもこれ、見るの中ば義務だったんですよ。あの当時の小学生にとって、「全員集合」と「ザ・ベストテン」というのは、社交的な最大の共通の話題でしたね。見ていかないことには話になりませんでしたから。

でも、毎週見てて本当に楽しくて、もう金曜には翌日が楽しみで仕方がなかったんですよね。土曜の朝刊を、ゲストの歌手、誰が出るか気にしながら開いて、そこにジュリーの名前なんてあろうものなら、「やったああ!」という感じでしたね。それくらいの一大事でした。

ドリフの場合、この「全員集合」の「国語算数理科社会」みたいに、ネタが何ヶ月かにいっぺんのローテーションでお約束ではあるんですけど、わかってるんだけど、わかりやすくて単純で可笑しくてね。志村がボケて、いかりやの机が上がって頭打つとか、たらいが上から落ちてくると、わかってるんだけどつい笑っちゃうんですよね。

そんな中で

志村けんの、子供たちの人気が絶大でね。こういう、「探検もの」とか「お化け屋敷もの」とかの回で、志村の時だけ、後ろから怖いものが出てくるパターンなんですけど、この時の会場からの子供達からの「志村ー、後ろ、後ろ!」という、悲鳴にも似た叫び声がすごくてね。あれ、思い出してみても、あの声の大きさは桁外れだったし、本当に彼らの気持ちをつかみ切ってましたね。志村氏は。あの、子供たちとの間にできた、一つの信頼感みたいな人心掌握。あれに関しては、それから数10年、いろんなお笑い見てますけど、他のお笑いの人にはないですね、あれは。

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一つは、あの当時の志村氏が、、他のドリフとメンバーと比べて若かったから。親しみ持って入りやすかった、というのがあるんですけどね。あの当時の少年雑誌での彼の報じられ方も、「ドリフというトラディショナルなグループの中で、後から入った若いメンバーが新風を巻き起こそうとしている」みたいな描き方でしたからね。

こういう、子供相手をメインにした笑いは、例えば僕が小学校6年の時に「俺たちひょうきん族」が出た時にもっと思春期寄りの層が喜びそうな毒のある路線で勝負かけて、そこで負けちゃって、ドリフは10数年続いた圧倒的な帝国ぶりを崩してしまうんですけど、ただ、ひょうきん族にしても、そのあとのとんねるずにしても、最初の方はすっごく面白いんだけど、時代が進むにつれてギャグの風化も早かったんですよ。そこいくとドリフのギャグって時事性一切関係なく、ものすごく単純なことで笑えるから、こうやって昔のものを今見返しても手堅く笑えちゃうんですよね。

なんとなく、こういうのがあったからなのかな。僕は90sの日本のお笑いにはほとんど反応せず、「サタディ・ナイト・ライブ」みたいなアメリカン・コメディに走ったわけですけど、政治的なピリッとした時事性にこそ欠けはせよ、極めてベーシックな「誰でも笑える普遍的なお笑い」という意味で求めた先は一緒だったりするのかな、とは思ってます。

あと、これはもう、最近はいろんな人が口にするので話としての新鮮味がなくなってるんですけど、やっぱ芸の音楽ネタですよね。志村けんほど、音楽に根ざしたお笑いをやる人も、日本だとなかなかいません・

ただ、それに気がついたのって、さすがにリアルタイムの小学生の時ではなかったんですけど。ほとんどの人にとってもそうだと思うんですけど(ここはしっかり強調しておきたいです!)。どっちかというと、90sにサンプリング・カルチャーがで始めた時に「ネタもと」として気がつく人が出始めてからの話なんでね。

例えば

このヒゲダンスのバックの音楽のネタもとは

フィリー・ソウルの名シンガー、テディ・ペンダーグラスの「Do Me」だし

これがすごいんですけど、1980年の「ドリフの早口言葉」。これ、たぶん、地球上で初めてヒップホップをベースにしたギャグです!

これの元になったのは

ヒップホップ史上初のヒット曲、シュガーヒル・ギャングの「Rappers Delight」。これを聞いた志村けんが考案したという話。これ、「ラップ」を「早口言葉」にした、というだけでも目の付け所が早いんですけど、さらにこれ、この時点ですでに「サンプリングの概念」まで含んでいたことです。

これ、バックのトラックはウイルソン・ピケットの1971年のヒット曲「Dont Knock My Love」。これに関しては、アトランティック・レコードの7枚組だったかな、ボックスセットを買って聴いてた時に「ん!!」と気がついたことでした。

そして、「全員集合」の時代のあと、90s初頭だったかな、「だいじょうぶだあ」の時代の「変なおじさん」。これも

これも沖縄民謡の「ハイサイおじさん」が元。この当時、ワールドミュ〜ジック・ブームで沖縄民謡の注目されていたんですけど、ここに目をつけていたというわけです。

だいじょうぶだあは、番組のオープニング自体が驚きでしたからね

先日、キヨシローの話でオーティスの話、したばかりでしたけど、彼の「Security」という曲。しかもマニアじゃないと知らないタイプの曲なんですけど、これを使ってましたからね。

実際、志村けんはかなりの音楽コレクターとして有名で、いろんな伝説聞いてます。CD屋で僕も実は一回だけ、渋谷のWaveだったと思うんですけど、バッグいっぱいに買い込んでレジで話をしてるところを目撃したことあります。

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あと、シンコー・ミュージックで出てたマニアックな音楽雑誌「JAM」でレヴューを書いてた話。これもよくされますね。これも、僕の音楽業界の先輩で、当時この雑誌を買っていた方から聞いていた話でしたね。

そして、彼は1966年のビートルズの武道館公演見てるんですよね。その時、まだ高校生だったんですけど。その時のことをここで話してるんですけど、驚くべきは「ウイングスのライブを見てる」ってことですね。ウイングスのライブって、日本だと二回キャンセルになってるので、これ、「海外で見た」ということだと思うんですけどね。

なんか、やっぱり、「こどもの時のお笑いのヒーロー」が「同時に音楽もマニアだった」と、今の自分の世界にもつながってマニアだった、という話を聞くと、やっぱり共感度強まるじゃないですか。そういう意味でも、特別な存在だったんですよね。

そういう意味で、やっぱり喪失感。大きいですよね。今後果たして、同じようなお笑いの巨人、出てくるかどうか。「同じくらいの、息の長い影響力のある人」というのは出てくるとは思うんですけど、こういう芸風の人は出てこないだろうとは不世出だろうということは間違いないと思います。

そして、こういう人が、世界的に流行の病気で命を奪われたことが余計にショックですね。もっと、しかるべき年齢で、あと10数年ご活躍されてから、大往生して欲しかった。その意味でコロナのことは正直にくいし、「絶対乗り越えてやるぞ!」と弔いを自分に言い聞かせている状態でもあります。あっ、SNSで陰謀論とか人種差別につなげている人、いるようですけど、絶対にそんなバカなことはやめてください。そんなことをするのはかえって志村氏には失礼なことだと思うんでね。

では、改めてご冥福を祈りたいと思います。



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