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ジョアン・ジルベルト死去 ブラジル史にとって彼はいかに重要な存在なのか

どうも。

昨日、うまくいかなかったので、今日改めて行きますね。

ジョアン・ジルベルト。ブラジルにおける「ボサノバの神様」ですけど、彼の存在がブラジルの歴史に置いていかに重要なものか。それについて、今日は書きたいと思います。

今日は、音楽史というよりはどちらかというと、国の歴史です。ブラジルという国が建国されたのは1822年。なので、もうすぐ200年なんですが、実は最初の100年、歴史らしい歴史、ないんですよね、この国。国の面積は広大だけど、それだけだったというか。その理由の一つが、最初の67年が、ポルトガルから借りてきた感じだった帝王の時代だったからで、共和国としての歴史は1889年から。そこまでは、よその国に紹介すべきような歴史的なことがありません。

そんなブラジルが転機を迎えたのは、1930年代前半のこと。この時期に

「リオのカーニバル」と「サッカー」を「国の名物」として売り出そう。

そういう国策を敷いた大統領が現れたんですね。それが

ジェツリオ・ヴァルガスという大統領、この人は、1930年代から50年代にかけて、合計で20年近く大統領だった人ですけど、この人がブラジルの世界的イメージの戦略を立てたんですね。

これまで、南米といえば栄華を誇っていたのはアルゼンチンでブエノス・アイレスは「南米のパリ」とまで呼ばれて栄えていました。実際、この当時のGDPなんて見てみても、アルゼンチンって世界の5本の指に入ろうかというくらいの先進国。それに比べればブラジルなんて何もなかったに等しいんですね。

ただ、この国策の努力が、徐々にリオを観光地化させまして

1940年代にはディズニーがブラジルを中心とした南米の映画を作ります。この映画の中で、ジャズのスタンダードとして有名になる「ブラジル」が流行ります。また、これとだいたい同じくらいの時期に、ブラジル出身の女優カルメン・ミランダが「フルーツ・ハット」と呼ばれるトロピカル・イメージで大人気となります。1940年代半ばにはハリウッドで最高額を稼ぐ女優の一人にさえなります。ブラジルの国際的イメージが徐々にこうやってついていきます。

そして!

ブラジルが国際的イメージを決定的にあげる事態が1950年代末にやってきます。

一つは

1958年のサッカーのW杯で、当時弱冠17歳だったペレを擁してブラジルが初優勝。以降、62年、70年とペレの時代にブラジルはW杯3度制覇ですからね。サッカー黄金時代の始まりです。

当時「未来型首都」と目された新首都「ブラジリア」の1960年の誕生。これは当時、ブラジル政治史において前述のジェツリオ並みにいまだに人気のあるジュセリーノ・クビチェック(JK)という大統領が進めた政策で、世界的建築家のオスカー・ニーマイヤーのデザインによる大統領府や議事堂、都市建設が世界に衝撃を与えました。ブラジリアのこの都市デザインは世界文化遺産にも選ばれているほどです。

そして、そのタイミングにですよ

この「シェガ・ジ・サウダージ」でジョアンが登場してくるわけです。ブラジル伝統音楽のサンバを、ジョアンがジャズ・ギターの技法を研究した結果生み出した新しいスタイル、まさにニュー・ウェイヴをポルトガル語で表した「ボッサ・ノーヴァ」が生まれたわけです。

ブラジルの歴史的には「ペレ、ブラジリア、ボサノバ」のトリオで新しいカルチャーが生まれた。

そう呼んでも過言ではないものだったわけです。カルチャーの勢い的には、想像するに、今の韓国みたいなものか、それ以上のインパクトがあったのかな、と思われますね、この当時のブラジルは。

このボサノバですけど、ジョアンのギターとヴォーカルがかなり起きな役割を果たしたわけですけど、そこに加えて

作詞家にヴィニシウス・デ・モラエス(左端)、作曲家にアントニオ・カルロス・ジョビン(ピアノ)の黄金トリオで曲を作って発表していたわけです。

日本にもちょうど同じ頃、永六輔(作詞)、中村八大(作曲)、坂本九(歌)で「689トリオ」というのが存在して、彼らが日本のポップ・ミュージック・シーンにおきな貢献をし、「sukiyaki」1曲だけでしたけど日本のポップ・ソングを世界に紹介しましたが、上のブラジルのトリオはもっとタイムレスでワールドワイドな影響を与えることになった、より大きな存在だった、と言えるかもしれません。

また、「ジャズやラテンをベースとした新しい音楽」ということで言えば、この60年代前半という時代は、このバート・バカラックとハル・デイヴィッドのコンビを忘れてはいけないでしょうね。バカラックの場合も、ジャズやクラシックの印象主義にメキシコのマリアッチ、ボッサの影響も多少くわえているかな。そレラを組み合わせて、高度なコード進行とリズムで新しい音楽を生み出しています。

また、「アコースティック・ギターを使う音楽」としては、1960年代前半、ボブ・ディランやジョーン・バエズらを中心としたフォーク・ムーヴメントも起こります。まあ、ボッサとは曲の主題も、音楽性もだいぶ違いますけど、「アコースティック・ギターを使った音楽」としてボサノバが一般の人にリーチしやすかった、というのは、もしかしたらあったんじゃないかな、と僕は思います。

そのタイミングで

1964年、ジョアンとアメリカのサックス・プレイヤー、スタン・ゲッツとの共演盤「Getz/Gilberto」が世にでるわけですが、これが大現象ヒットとなり、アメリカにボサノバ・ブームが起こるわけです。

このアルバムはこの当時、ビルボードのアルバム・チャートで2位まで上がり、この当時としては異例の200万枚のアルバム売り上げを記録します。

さらに

この当時にジョアンの彼女だったアストラッド・ジルベルトが歌った「いぱねまの娘」、これが当時のビルボード・シングル・チャートで5位まで上がる大ヒットになります。

これをもってジョアンは、1965年に行われた第7回グラミー賞において、最優秀レコードと、最優秀アルバムを受賞します!このとき、何がすごいって、この時の新人賞、ビートルズですよ!あの、空前のビートルマニアの時に、「大人の音楽の代表」としてビートルズとタメはったくらい影響力あった、ということですからね。これはもっと、声を大にして主張していいポイントだと思います。

このブームの後

1966年には、時のアメリカのインスト王、ハーブ・アルパートが「世に紹介する」というかたちで、ブラジルのセルジオ・メンデスを紹介。このアルバムも全米7位のヒットで、ここで「マシュケナダ」のヒットが生まれます。

また、かのフランク・シナトラもボサノバが大好きで、前述のアントニオ・カルロス・ジョビンの楽曲に特化した、ジョビンとの共演アルバムを1967年に発表。これも全米19位のヒットになっています。

このように60年代半ば、ボサノバはアメリカでも大きな音楽になっていましたが、ブラジルでは終わっていました!

それは

1964年にブラジルが軍事政権に突入してしまったためです。1960年以降、ブラジルはブラジリア建設で莫大な費用をかけすぎたために巨額の負債を抱え、社会的混乱が生まれます。さらにキューバで共産主義政権ができてしまったために、「南米で第2のキューバを作るな!」の空気が生まれ、それをアメリカが後ろでバックアップしたためなんですね。それが軍事政権誕生の背景なんですが、これは今後50年越えても、いまだにブラジル社会に思い楔を打ち続けてますね。

この頃になると

エリス・レジーナのようなレジェンダリーなボサノバ・シンガーも生まれてはいるんですけど

カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルをはじめとした、プロテスト・ミュージックの時代になりますね。この当時、ベトナム戦争反対を背景に全世界的にカウンター・カルチャーの時代になりますが、ブラジルのそれも「トロピカリズモ」と言われた大きなものでした。ここに、ボサノバのような、「平和な時代の洗練された都会の音楽」というのは居場所を失った状態でもあったのです。

ただ、ジョアンはブラジルよりも、主に国際マーケットを視野に活動を続け、ボサノバ・ブーム以降に世界の多くの人が思い描く「ブラジル」のイメージに応え、かつ、そのイメージをポジティヴに更新するような傑作を発表し続けました。

1973年の「Joao Gilberto」、77年の「Amoroso」、これらも、ボサノバ・ブームを作ったアルバムと並ぶか、それ以上の評価を受け続けて今日に至ります。

そして2003年にはついに待望の初来日を果たし、この時に日本の音楽マニアを熱狂させるほど評判のライブを行い、これまでの伝説に拍車をかけました。

ブラジルだとですね、やっぱり現在、ジョアン・ジルベルトは「ブラジルの象徴」として、その功績は絶大な評価を受けています。ただ彼は、極度の取材嫌いで有名で、インタビューの記録がほとんどないんですよね。youtube上でもあっても、これ一つだけです。ライブ活動は晩年までかなり積極的だったんですけど、人前に出るのは本当にツアーの時だけ。追悼番組でも、本人が喋ってる映像、本当に出ませんでしたからね。

そういうこともあり、ブラジルでさえも、パパラッチが彼のリオの自宅に張り込まないと姿がつかめない。それくらい謎な人でしたね。

そんなこともあったので

こういうドキュメンタリーも作られたほど、「会うこと自体が奇跡」みたいな神秘的な存在となっています。

晩年はですね、いいことばかりではなかったですね。彼の現在の奥さんに当たる人が彼の子息と相性が非常に悪く、面会ができないような状態になっていたとか、そういう話も報じられていましたからね・・。そういう話は地元に住んでると、どうしても耳には入ってきましたね。

80歳超えてもツアーしていたような人なので、近年体調不良が報じられても、復活を期待する人は決して少なくなかったんですけど、それでも「大往生」といったところではないでしょうか。

彼の存在は、ここにも書いたように、ブラジルという国が世界に本格的に知られるようになった契機のような人だし、ブラジル音楽が、世界中の音楽マニアみたいな人たちから、ブラジル人自身がびっくりしてしまうほど、崇拝に近いほど熱烈なリスペクトを浴びるようになった理由を作った人でもあるわけです。その意味ではやはり、ジョアン・ジルベルトの存在は「国宝」とでもいうべき存在なんでしょうね。改めてそう思います。




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