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瞑想、いかがですか?

今日もこんにちは。せおりです ପ(⑅ˊᵕˋ⑅)ଓ 隠れ仏教徒なのでこっそり瞑想生活を送っています。

みなさんは、「瞑想」って、どんなイメージが浮かびますか?

・インドの山奥で修行してる白ひげの仙人
・禅寺で朝4時から坐禅を組み、禁欲的な生活を送るお坊様
・人間わざとは思えない足の組み方で座るヨガの先生
・はたまた、マインドフルネスなIT企業のシステムエンジニアさん?

私の場合は、昭和の漫画の影響か「山奥で修行する仙人が、何年も瞑想して神通力を得る!」というような、オカルトめいた印象がありましたପ(⑅ˊᵕˋ⑅)ଓ

「目を閉じて、しびれそうに足を組んで座って、心を無にする」= 瞑想
って感じですね。 


実はバラエティ豊かな仏教の瞑想たち

ところが「仏教の瞑想」は、この一般的な「足を組んで座って集中」以外にも、けっこう色々と種類豊富にあるらしいのです。

日本でメジャーな「仏教」は「大乗仏教」ですが、こちらでは、禅宗を除いて、あまり「座る瞑想」を行っているイメージはありません(お寺と言えば「読経」のイメージかな?)。

※細かく言うと瞑想法はちゃんと伝来しています。大乗仏教の瞑想に関するとっても詳しい説明を読みたい方は、真言宗泉湧寺派大本山 法楽寺さまのサイトにGo!🙏

※東洋大学さまのウェブサイトでも、蓑輪顕量先生の「上座仏教と大乗仏教の瞑想―その共通性」がPDFで公開されており、大乗仏教の瞑想についての詳しい知見が得られます。上座部仏教&大乗仏教の比較に加えて、中国での瞑想の変遷も説かれて興味深い内容です🙏


さて、タイやスリランカ、ミャンマーやカンボジアやラオスに広まった「上座部仏教」には、大昔に書かれた「清浄道論」に基づいた、様々な瞑想法が今に伝わって、修行の一環としてさかんに行われています。(仏教の「修行」は瞑想だけじゃなくって、お掃除・読経や、行いや言葉をきちんとする、戒律まもる、などトータルで実施するのが大切らしいです)

下の表は、超ざっくりした区分です。

伝統的な瞑想では、
・円盤を見つめる
・仏の姿を念じる
・言葉を暗唱して念じる
・慈悲喜捨を念じる  etc.
と、色々なことをやってるんですねପ(⑅ˊᵕˋ⑅)ଓ

その他、「歩行瞑想」というのも、こうした上座部仏教の国では行われています。この歩行瞑想、パーリ語のお経にも出てる古い修行法らしいんですが、どのお経に出てる? とか、詳しいことは調べられませんでした。(大念処経とか、なんかそんな系でしょうか?? また今後、調べられたら追記します。詳しい方の助言も大歓迎です!)

ま、ざっくり、
・サマタ瞑想 → 一つの対象に繰り返し集中して、安定した集中力に
・ヴィパッサナー瞑想 → 対象限定しない。生じてくるものごとの観察を繰り返し、洞察をはぐくむ
という感じです。

そして、ヴィパッサナー瞑想

このうち、「ヴィパッサナー瞑想」って、なんだかよく分からないですよね。(私は、はじめ、ぜんぜんピンときませんでしたପ(⑅ˊᵕˋ⑅)ଓ)

まずひとつ、日本テーラワーダ仏教教会のスマナサーラ長老のご本、『自分につよくなる サティ瞑想法』(国書刊行会)に、すんごく分かりやすい説明があったので、ご紹介します。

智慧というのは知識ではなくまったく違う心の波動で、(略)何を見ても何を聞いても、その構造がすぐに分かる力。
ヴィパッサナー瞑想はこの智慧の力を成長させようとするもので、サティの瞑想と表現しています。サティとは(中略)理解しやすいように言葉を換えれば「気づき」ということになります。どんな現象、どんな心の動きにも気がつくということ。(中略)ところで気づくという働きはどんな生命にも必ずあります。そのだれでももっている気づきという心の働きを手がかりにして、ヴィパッサナー瞑想ははじまります。
(中略)
ヴィパッサナー瞑想は、その気づきという働きをどんどん精密に、細かく認識できるように拡げていくのです。
それを続けていくと、やがて十四の不善心所、二十五の善心所のすべての心の動きに気づくことができるようになっていきます。その結果として自分の心の働きのすべてを知ることとなります。
自分の心をきちんと気づくことができればできるほど、心のなかの善心所は成長していきます。善心所が成長すればするほど不善心所は消えていく(略)この不善心所がぜんぶ消えた状態を、悟りというのです。(略)悟りに至れば自ずから智慧が生まれるからです。』

もうひとつは、タイのスカトー寺ご住職、パイサーン師のご法話。浦崎雅代さんのnoteからご紹介します。ちょっと視点は異なり、子供向けの「修行」についてのお話です。この瞑想合宿では、チャルーン・サティが行われますが、瞑想修行の目標を説く、とてもわかりやすいものでした。

-この修行合宿で私たちが学んでいくこと
それは「自分で自分の世話ができるようになる
ということです。
自分で自分の世話ができるようになる、とは
どういうことでしょう?
-体の行ないとしてもそうですし、心の行ないとしてもです。
心の行ないとして「自分の世話をする」とは
どういうことでしょう?
それは心を強くするということです。

外側の環境がどんな状況にあっても、
それに負けない心を持つこと。


もし私たちが幸せになりたいのなら
あるいは賢くなりたいのであれば
外側の環境に振り回されない力が いつでも必要になります。

なぜなら、心を誘惑しようとしてくるものたちが
私たちの周りにはあふれているからです。

-訓練していないと、心はどんどん弱くなっていきます

(※チャルーン・サティは、厳密に言うと、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の両方になりえるのですが、それはまた後日…ପ(⑅ˊᵕˋ⑅)ଓ)


この次は、ちらっと「タイの瞑想法の色々」にふれたあと、「”気づき”と”sati”はチョットちがう」、「気づきの瞑想は何に"気づく"のかしら」と、続く予定ですପ(⑅ˊᵕˋ⑅)ଓ ゆるゆる、おまちくださいませ~。

最後まで、お付き合いくださり、ありがとうございました🙏




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