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自分の音の個性について

 浜松のカフェでテルミン、マトリョミンのコンサート出演でした。当日は雨にも関わらず、お友達やお弟子さんたちが集まってくださいました。

 振り返れば、自分の人生には常に「挑戦」が要りました。私がロシアに渡った1993年当時、テルミンは楽器未満と目されていて、音楽などできないと考えられていました。パフォーマンスや前衛音楽をやる人はいましたが、聞く人の心に触れる音楽をテルミンでやろうと考える人はほとんどいなかった(これもすでに主流とは違うアプローチです)。ゆらゆら揺れる身体をピタッとを止めておく制御がことのほか難しいテルミン。大げさでない、日本人ならではの静的な音の佇まいをやってみてはどうか。他の誰にも真似できない自分だけの音、音楽が創り出せるはずと、音楽の内容で勝負しようと考えました。

 テルミン演奏が普及したならば演奏を単純化させる人が続々現れる。量産品のようにそっけない演奏か、秩序からの解放を意識し過ぎた、カオスのパフォーマンスで溢れるだろう未来を想像しました。結果的に私の演奏のしつけ方は、私独特のピッチ感や、曲線のニュアンスといった「私だけの音のかたち」で際立てるとの勝算もあったのです。1stアルバムはこちらで試聴できます。

 その後、コンサート出演中に脳出血を発症し、後遺症で右半身に麻痺が残りました。演奏動作に敏感に反応するテルミンを弾くのに、利き手が麻痺していては弾けるはずがないと周囲は考えていましたし、私自身そう思っていました。ただでさえ演奏が難しいテルミンでしたが、ハードルは一層高くなってしまいました。

 何故そこまでしてテルミンなのかと問われます。かつての演奏の記憶が耳の奥底に残っていて、忘れられません。他人が弾くテルミンの音には「感じ」ない。あの音を自らの手で奏でたい、自ら奏でるテルミンの音で再び心を共振させたい。この思いは捨てきれませんでした。

 「個性」的だと称されるもののほとんどに興ざめで、関心が持てません。鍵盤やフレットといった音の高さの基準がなく、支点もとれない空間で音量も制御するテルミンほど身体性が高く、自由な楽器もない。他の誰でもない自分の音の個性に、どこまでもこだわる私がいました。

※見出し画像にあるオブジェは、2024年4月21日のコンサート当日に設置したしたもの。QRコード読み込みを介して、私自身やテルミンについての説明と、演奏予定曲目を、来場された方のスマホに表示しました。内容的に今回のブログと重複します。

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