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次元はマトリョーシカ

エゴやマインドを解放していくと

どんどんエゴ(マインド)との距離ができてくる



私達がエゴの視点を通じて物事を見て、感じ、反応しているとき、

自分の視点はエゴと同化している


そうなっていると、もはや自分がエゴの世界にどっぷり浸かっていることにも気づかない



なぜなら、

エゴ=自分

そのものだから、その渦中にいる自分自身の状態を客観的に認識することは難しい



それゆえに、目の前の現実ドラマにどハマりすることができる

マインド劇場は臨場感あふれ、迫力満点

めちゃくちゃ盛り上がる




そこまでではなくても、

どうしてもエゴに翻弄されると感じているとき、

同化とまではいかなくても、まだエゴとの距離は近い




エゴやマインドを手放していくと、

当然それらとの間に隙間が生まれ、距離が広がっていく



それらが存在していても、距離が広がることでその影響力は次第に遠のき

どんどん自由になっていく



そして何より、

距離(空間)が生まれることで、それを観察することができるようになる


目が、目自体を見ることができないように

距離があるからこそ、観察ができるのだ




エゴがあることを否定しない

それらがあること、展開することを許し、ただ観察する

そこにはジャッジもない

この無限に広がるスペース(空間)であり観測者




それが本当のわたしなんだ、と気づく



それはまるで

ペットがはしゃぎまわり、イタズラをするのを眺めるように


遊ぶことを容認し、それを見ているわたし

気が向いたのなら、一緒にそれと戯れて遊んだっていい


そんな心の余裕が生まれる


わたしをカラフルに彩る、色彩の一部として調和する




そんな、丸ごと包み込む、親心のような視点

懐の深さ

どれだけのものを内包することができるかという尺度




私は、それを「次元」というのではないかと思っている



次元が高い、あるいは低い

次元が上がる(下がる)

もはやマウンティングの言葉のようになっているような気さえするこのワード 笑



私の中での意味合いは、

内包している世界がどれだけあるか、だ


点の世界が1次元

点と点が織りなす線の世界が2次元

線と線が織りなす立体の世界が3次元


こんなふうに、

一つ下の要素が作り出す世界をすっぽり内包しているのが、次の次元


マトリョーシカのように、その内側にどれだけの入れ子が内包されているか

ということ





内なる入れ子が増えていくとは、

自分自身のあらゆる要素

さらには、関わり合う全てのものを自身の一部として捉えること



自らの一部として受け入れること

内包すること

わたしはそれを「愛」と呼んでいる




自分と他人という明確な境界線が薄れ、

どんどん曖昧になり、やがて消えてゆく


そうして「わたし」というスペースは無限に拡大していく


こうして、十分にエゴという意識概念を内包したとき、

気がつくとより大きな、微細な世界に移行している


RHEA


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