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【50冊目】最後のユニコーン / ピーター・ S・ビーグル

1/4です。
本日17時-24時半です。

三が日も終わり、今日から稼働という方も多いのではないかなと思いますがね。今年なんていうのは今日明日を休みにしてしまえば、明後日からはまた三連休ということで。お正月休みからこの三連休まで接続して長めのお休みなんて方もいらっしゃるかとは存じますがね。やはり生活にはメリハリというものが必要で。休むときは休み、働くときは働く。正月は正月で、その後はその後ってなもんで、つまりはハレとケの境をしっかりとつけるべきで、ここが曖昧なグラデーションになっていると、日常を取り戻すなんていうのも大変になってしまう。するってぇと、当店の日常を取り戻すために必要な月初のお決まりというやつが、そう、ウィグタウン読書部ですね。

というわけで、昨年12月の課題図書は、ピーター・S・ビーグルの『最後のユニコーン』。その名の通り、ユニコーンという幻獣を主人公にしたファンタジー小説なわけなんですがね。私なんていうのはファンタジー小説にとんと疎くて。せいぜいハリーポッターくらいでしょうか。本当は、もっときっと様々な作品の中にファンタジーの要素というのは含まれていて、それらに無意識のうちに触れてこそいるものの、意識的に「ファンタジー小説」とか言われても『指輪物語』くらいしか出てこない。しかもそれすらも読んでいない。とんと触れてこなかったジャンルなわけなんですがね。いざ読んでみると、これがまた随分とファンタジーなお話で。散文的な美しい表現と、二重三重に示唆的な比喩表現、歌うようなリズムの文章に、壮大なスケール感と、まぁ、なにかっていうと読みにくかったですね。詩的な表現は情景を頭の中に端的に描いてはくれず、示唆的な台詞回しは果たして何を示唆しているのか考える余白に溢れている。そのくせ、マジックリアリズム的(そもそもが幻想小説なのでこの言い方は適切ではない気がするが)に細部をやたら丁寧に描写したりもするものだから、まぁ読み進まない。なんとかかんとか読了し、さて、この感想文をどう書いたものか、など独りごちながら収録されている解説のページを開くと、解説文を書いているファンタジィ小説家の乾石智子さん曰く〈魂で読むしかないの〉と。なるほど。理屈ではなく、感性に直接影響を与える作品というのはままある。それこそ散文詩のような表現は、考えるよりも感じる方がより受け取りやすいのかもしれない。「Don't Think, Feel」というやつですかね。そういうわけで、今回は感じたことをそのまま書いていこうかなと思いますね。読むんじゃない、感じるんだ。そういうことですね。以下、例によって【ネタバレ注意!】となりますので、どうぞご留意くださいませ。

さて。
そんなファンタジーな本作ですが、ざっくりと筋をお話しすると「ひとりぼっちのユニコーンが仲間を探して旅に出て、色々あって、仲間のユニコーンを追い立てていた悪の大魔王を倒す話」である。非常にわかりやすい筋である。しかもこの分かりやすい筋の物語が、随分とゆっくりと進行していく。最初ひとりぼっちだったユニコーンは、途中サーカスの一座で手品を披露していた魔術師シュメンドリックを仲間にし、さらには盗賊の一味であったモリーも仲間に加わり、悪政を振るう王の元へ向かうわけなのだが、それぞれのシーンにやたらと象徴めいたシーンが挿入されるものだから、進行がとてもゆっくりになる。こちらとしては、さっさと仲間にして次いけよ、みたいな気持ちになるのだけれど、そんな私の気持ちを差し置いて本作が何をしているかというと、サーカスの一座では座長のフォーチュナ婆さんの哲学と人間に対する畏れをじっくり描き出すし、盗賊一味のキャプテン・カリーはシュメンドリックが生み出した幻のロビン・フッドに手下たちが踊らされているのを見て、伝説と現実の転覆が起きる様を目の当たりにする。全てのシーンは象徴に溢れており、それらをすくいとろうとするとじっくりと読まねばならない。その上、文章の所々で話し手や視点が切り替わっており、錯誤が起こりやすい。対象物が現れる前にその対象についての説明を置いて、読み手が「これは何についての説明なのだろうな?」など混乱した頃にようやく対象物が現れ「ああ。さっきの説明はこいつに対しての説明だったのか」と納得するというような倒置も盛んに行われるものだから、果たして本当に読みづらい。さながらその文章構成自体が、シュメンドリックの手による魔術によってもたらされたものであるかのようにこちらを幻惑してくる。しかしやはり、そうした視点の切り替えや倒置表現が、作中の世界を美しく彩っていることは言うまでもなく、まさしくこれは魔法による効果だと言わざるを得ない。魔法というのは、何も特別な呪文を唱えて杖を振るえば出てくる光線のことを指すのではなく、人の感性に訴えかけて、それを「特別」だと「信じ込ませる」ことにある。示唆的な余白の大きい台詞回しは、人々の感性に訴えるのに大きな余地を残し、そこに当てはまる解釈をそれぞれが補完していくことで魔法は完成していく。作中でシュメンドリックは言う。〈魔法というものは自分でやりたいことを知っているものだ。けれども、ぼくはそれが何を知っているのか、わかったことがなかったのだ〉。魔法とは常に相手がいるから成立するのであって、魔法それだけで成り立つことはあり得ない。この本が魔法であるのならばやはり、それは我々読み手がいてこそ成り立つものなのだ。

さて。
そんな幻惑的な物語である本書だが、私はこれを当初「ユニコーンが失われた自分を取り戻す物語」ではないか、として読もうとしていた。ユニコーンが探しにいく自分の仲間というのは、自分を決定付けてくれる(自分を自分たらしめてくれる)他者のことである。想像してほしい。この広い世界で、自分が最後の人類だったとしたら。自分以外に人類はいない世界で、それでも自分は人類だと言えるだろうか?自分を人類だと認めてくれる人は誰一人おらず、自分で「自分は人類だ」と言ってみても、それを保証できるのもまた自分しかいない。実際、そうして喪失されていく自己に悩み苛立つユニコーンの様子が、物語の序盤ではたくさん現れる。ユニコーンを「綺麗な牝馬」と呼び捕らえようとしてきた人間から逃れた後には〈ユニコーンをまったく見ようとせずに、わたしたちを見ながらも、別のものを見てしまう〉と嘆き、またサーカスのフォーチュナ婆さんは、自分の力なしでユニコーンを真物だと周りの人に分からせるのは無理だと説いた上で〈「今日び、お客に真物のユニコーンを見せるには、安っぽい見世物小屋の魔女が必要なんだ」〉とユニコーンの自己に揺さぶりをかける。そんな中、魔術師のシュメンドリックはユニコーンに寄り添う姿勢を見せる。曰く〈「自分の真実の姿をそのまま認められている人間は、まれだ。(中略)ぼくたちは、いつも見かけどおりとは限らないし、自分で夢見ているようなものになれることなんてほとんどない。それでも(中略)ユニコーンにはその二つの違い、偽物の輝きと真物、口先だけの笑いと心の嘆きとのちがいを告げることができたんだ」〉と。このシュメンドリックのセリフによって、自己を喪失しかけていたユニコーンは、再び仲間を探しに旅に出る気力を取り戻すわけなんですがね。そうして、えっちらおっちら自己の喪失と再発見(それは時に身体をユニコーンから人間に変身させる形でも行われる)を繰り返しながら、最終的に本当の仲間たる他のユニコーンたちが現れた時に彼女は自分の居場所を見つけ、揺らがない自己というものを確立するかっていうと、なんとなくそうじゃない気もしてるんですよね。その方が話の筋としては通りやすいし、理屈では納得できる部分なんですが、やはりこれが「理屈ではなく感性で読むべき物語」というところで、ならばなぜ最後にユニコーンは後悔をしたのかって話になる。ユニコーンの物語だと思っていたのが、実はシュメンドリックやリーア王子こそが主人公だったかのような余韻を残すラストシーンはとても象徴的で、この物語が単なる「ユニコーンの自己喪失と再獲得の物語」ではないことがわかる。これはラスト付近で、去ってしまったユニコーンを追おうとするリーアに対してシュメンドリックが言ったセリフにも現れている。曰く〈「あなたの真の試練は、ここからはじまるのです。失敗するとき以外、御自身がそれをやりとげたかどうか、生きている間には、あなたにはわからないのです。(中略)彼女は、幸福なものにしろ、悲劇的なものにしろ、終わりというものがない物語なのです」〉と。なにかを求めるということは、それが失敗だと気付くまでは分からないものだ。またそれとは別のあるシーンで、シュメンドリックはこうも言う。〈愛が寛大なのは、それが永遠のものではありえないからなのだ〉と。求め続ける限り、いずれ終わりが来る。その破綻の先に待つ物語が、幸福なものでも、または悲劇的なものでも。この構造は王の住まう城下町であるハグスゲイトの民たちにも現れている。ハグスゲイトの民は、いずれ自分たちの中から城を滅ぼすものが現れるという予言に怯え、いまの幸福を享受せずにいる。裕福になることが破滅に向かっているというパラドックスは、ラストでユニコーンを探しにいくリーアの姿にも重なる。ユニコーンとは、つまり「終わりが来ることがわかっており、かつそれがまた始まり続ける(それもまたいずれ終わるとわかっていながら)愛」の象徴なのではないか、なんて思いましたね。かなり無理矢理な感じですがね。それなら、ユニコーンが最後に後悔するのもわかる気がするんですよね。どうなんでしょうね。どうしても理屈で読んでしまうな。

さて。
そんな象徴と魔法に溢れた本作の中には、様々な歌もたくさん登場する。最後に、登場した歌の中で私が一番気に入った歌を紹介して終わりにしましょうかね。

 〈選ぶ余地のある者は選ぶ必要もない。
  選ぶ余地のないわたしたちは、選ばねばならない。
  わたしたちは、失ったものしか愛せないのだし——
  過ぎたものは、過ぎたもの。〉

ぐっときますね。どことなく青葉市子さんの楽曲『いきのこり・ぼくら』を思い出しますね。〈毎日の風景ずっとつづくね/慣れなきゃ、慣れなきゃ〉。

と言うわけで。昨年12月の課題図書はピーター・S・ビーグルの『最後のユニコーン』でした。今月は若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』です。読んでいきましょう。

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