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【29冊目】好き好き大好き超愛してる。 / 舞城王太郎

今日から3月です。如月は音もなく訪れ、そして行き過ぎます。めくるめく時の流れに振り落とされそうになりますが、そんな時こそ足元をしっかり固める必要がありますね。そんな当店の月初の地盤といえば、そう。ウィグタウン読書部です。

というわけで先月の課題図書は舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』。いかがでしょうね。店内に置いていても、結構リアクションのあった作品だったかと思います。こんなタイトルを聞くと、私なんかは世代的に、いえ、世代といっても世代では全くないんですが、戸川純さんの『好き好き大好き』なんかを思い浮かべるわけなんですがね。可愛らしい跳ねるようなリズムで「好き好き大好き♪」と繰り返してそわそわさせたかと思うと、そのままの調子で「愛してるって言わなきゃ殺す♪」ときて、こちらをドン引きさせる、ヤンデレ全開な楽曲なんですがね。「KIss me 殴るよに 唇に血が滲むほど」「Hold me あばらが音を立てて折れるほど」なんて、またすごいこと歌わせたな、なんて思ったわけなんですが、こちらの楽曲は実は戸川純さん本人の作詞なんですよね。すごいですね。これが、当時ある種アイドル的な盛り上がりを見せていたというのですから、まぁ、隔世の感があるわけなんですが、この「好き好き大好き♪」の異様なまでに媚びたようなテンションの歌唱で「殺す♪」みたいなことをやるということ自体が、ある種の80年代アイドルに与えられていた役割に対するアンチテーゼとなっているような気がして、そんな気がしてきたら、本作『好き好き大好き超愛してる。』も、出版された2000年代前半に流行した「セカチュー」や「いま、会い」に代表される、大切な人が死ぬ系恋愛小説に対するアンチテーゼとして読むことができる気がしてくるんですね。まぁ、こちらでも大切な人が死ぬんですけど。そして間違いなく恋愛小説なんですけど。どのように作家が「恋愛」と「恋人の死」を「小説」に落とし込んでいくかを描いた、挑発的な作品だと思います。そう考えると、猟奇的にも思えるタイトルも、またいい感じですね。読んでいきましょう。例によって【ネタバレ注意】となりますので、何卒ご留意くださいませ。

物語は大きく分けて二つのパートが交互に進む。一つは主人公であり小説家の治と、その恋人で癌を患って入院中の恋人柿緒の恋愛パート、そしてもう一つは治の書いた小説パートである。小説パートでは、一つの作品だけではなく、3つの異なる作品が挿入され、恋愛パートの合間に、突如として小説パートが劇中劇の形で挿入される。小説パートは、なんの説明もなくスタートするので、最初に読んだときは「このパートはなんなんだ?」と混乱することになるのだが、読み進めていくに従って、小説パートを書いているのが主人公の治であることに気付き、これは小説の中の現実(恋愛パート)と虚構(小説パート)がどのように作用し合うかを示した作品なのだな、など思うに至るのだが、と同時に、治はおそらく作者の舞城王太郎自身を投影しているように見せかけていることにも気付き、つまりはこの作品(虚構)が現実の我々(現実)にどのように作用するのかという入れ子構造をも持っていることに思い至る。作中で、治を作者本人の投影と思わせる、私小説的なやりとりが入ることで、その入れ子構造はより鮮明になり、読者が読んでいるのが、劇中劇中劇とも呼べるような虚構の虚構であり、その虚構の虚構が全て、現実の現実(現実)をベースに成り立っているという仕組みが見えてくる。当然、虚構の世界は現実をベースに創り上げられるものなのだけれど、本作では、作中の現実(恋人パート)で起こった出来事が、虚構である治の(小説パート)にいかに影響を与えるかを丁寧に描いている。主人公の治とその恋人、柿緒が直面する死別という悲劇を決して雑に作品に落とし込まず、柿緒の弟との確執なども合わせて本当に丁寧に描いており、その姿勢は、簡単に感情のスイッチを押そうとしてくる(泣きたい時に泣くボタンを、笑いたい時に笑うボタンを)インスタントな装置としての小説という役割を、明確に拒んでいる。

物語終盤。柿緒の弟、賞太とのやりとりとその後の述懐はまさしく「作家が現実世界をどれほど真摯に作品に落とし込んでいくか」を綴った思いの丈であり、本作のクライマックスとしてふさわしい。その様子はさながら演説で、そのスピーチ自体が「小説」というメディアに対する激烈なラブレターになっていると言って良い。本作は「治⇄ 柿緒」の恋愛小説の形をとった「作者→小説」の恋愛小説と言えるのだ。
作中、柿緒が治に「好きだった」と過去形で伝え、その表現で柿緒の死が唐突にリアリティを持つシーン。そしてその後すぐに現在進行形に言い換えるまでの時間経過を、作者は見事なテンションで描き切って、そして治はそれを作品に落とし込む。「これから一緒に百年生きよう!」という叶わない願いを、百年先まで届けられ続けるメールデリバリーサービスに落とし込む。どんなに苦しい出来事や悲しい事件があったって、それと向き合い、真摯に作品に落とし込んでいくことが、作家の宿命なのである。「美というものは倫理とは別のところにあるということ、ただし批評は倫理とともにあること」とは、痛烈な批判であり、死を美談にしたがる風潮に対し「死は美に間違いなくなり得るが、それを美と言ってしまうのはどうなの?捉えるべきはその死という事象だけじゃないよね?作品において死はビビッドだけど、それだけを描く作品ってどうなの?」という批判のように感じる。「逆のことはあっても、愛情によって言葉は演出されない」というフレーズも印象的ですね。好きだよ、という言葉から相手を好きになることはあっても、愛情を演出することはできない。だからこそ、冒頭の「愛は祈りだ」という宣言が説得力を持ってくる。迫真に迫ってくる。この治の演説はグッときますよね。愛情を言語化してくれてありがとうって気持ちになりますよね。

物語のラスト、柿緒は「秘密の一日」を使って治に呪いをかける。この「秘密の一日」と「百通の手紙(或いはその一通目)」は、治が柿緒との物語を、愛情を継続させるための呪いとして機能するわけなのだが、それはそのまま、作品が作者に与える呪いと言い換えてもいいかもしれない。恋人たちにとって愛が祈りであるように、作家にとって物語もまた祈りなのである。いいですね。最高。やっぱり愛は最高って気分になりますね。

というわけで、愛の季節2月の課題図書は、舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』でした。3月の課題図書は、キエフ出身の作家ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』です。ソビエト社会に対しての体制批判と受け止められ、長らく出版することが叶わなかった今作。いかがでしょうね。読んでいきましょう。

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