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2022年をふりかえる 前編


1月:年明け早々アーティスト・イン・レジデンス初参加

2021年末に中之条アーティストインレジデンス(NR)の公募に受かったので、21日間群馬県中之条町に滞在した。首都圏から見ると草津より遠く山奥という場所。中之条ビエンナーレで有名な場所で、移住アーティストも数多く住んでいる。直近で引越しが発生しそうだったため、地方への移住の妥当性の検討実験も兼ねて参加してみた。活動報酬もなかなか高かったので、アーティスト業で生計を立てる場合の金銭感覚についての実験も兼ねている。

移住アーティストが多いだけあって、会社勤めとの兼業を経験した後、固定費を減らしつつアーティスト専業にしている人が多かった。「やりたいことをやって生きる」的な言説が蔓延する以前に移住を決めた人が多く、アーティスト専業にした理由も制作ペースの向上を見込んでいる印象を受けた。特に、「制作ペースが遅いとアウトプットが減り、インプットが消化不良になる。呼吸で吐かないと吸えないのと同じ。」という言葉には強く共感した。

個人的には海外とも行き来することを考えると拠点は東京にしたいこと、また、東京の鑑賞対象や飲食、娯楽の情報過多な感じを愛していることを再認識し、日本にいる限りは拠点は東京にしたいと思った。
また、ジャグリングの練習はほぼゼロ負荷でできるのに対して、現代アートの制作は心身共に追い込みつつ過食喫煙諸々のドーピングをしないとできないことに気がつき、ライフワークとするには厳しいのではないかと感じた。

発表した作品は「かぱらばてぃ」という呼吸をテーマにしたインスターレションで、上記の「吐かないと吸えない」発言や中之条でヨガとバレエを習ったこと、野垂れ死んだんじゃないかとキュレーターに心配されるくらい雪の中を歩き回ったり踊ったりしていた際にあらわれる(極限の)呼吸を展示会場という比較的快適な場所で轟音ノイズで映像とともに鳴らすもの。

2月:反社と思しき人たちとの交渉生活

アーティストインレジデンスで自分を追い込みすぎたので家で休むか〜という気持ちで帰宅した。キュレーターが「頑張りすぎ」と何度も言うので他人から見ても休養が必要そうだと考えていた。借りている家の管理会社が変わったので家賃は直接担当者に手渡してほしいと大家から言われ、面会してみると敷地の土地を全て壊して別の建物を建てるから立ち退いてほしいという。

大家が土地をA社(と呼ぶことにする)に売ってしまった。A社は入居者をすべて退去させて大手不動産会社に売ることを生業としている。大手不動産会社は大手建築会社に土地を売る。そうして新しい家が建つ。

A社は地上げ屋だったのだ。

初めは普通の不動産会社を模した担当者が立ち退き交渉をしに来た。この担当者はいわゆる反社のイメージからは程遠い人物だったが、会話成立していないのに必死に会話を成立させようとしている感じはあまりに演技じみていた。立ち退き期日や立ち退き料について折り合いがつくか危うくなると、ガスや電気が止まる。開通を求めると社長が来る。社長は今まで見たことがないくらいぴったりと身体つきにあったスーツを着て、1ミリのズレもなく一定の長さで髪を剃り上げ、高そうな金色に輝く腕時計をしていた。小指はあったような、なかったような。

絵に描いた反社のような人物が家に来てしまった。

虚実混ぜつつ何時間も話をした。お互いの生まれ育ち来歴から直近の金融ニュースに対する所感まで。あらゆる話題がとりとめもなく、すべてが資本主義をめぐっていて、「立ち退けばいいのに」「その条件では立ち退けない」というメタメッセージの交換になっていた。相手がちょっとでも情に絆されればいいのに、というベクトルのぶつかり合いでもあった。この日のやりとりはあまりに独特で、そのままギャラリーで流せる強度があった。録画していなかったことが悔やまれる。

そんな中ずっと真夜中でいいのに。の「伸び仕草懲りて暇乞い」が発売する。どの曲も聴き込んで、インプロのたびにclu舞(私のジャグリングスタイル)が進化していった。インスタの投稿日時を見ると、ここから一気に「何かが起こっている」振り付けの発生頻度が高まっていることがわかる。

地上げ屋がずっと見ている中、納得いくまでインプロを撮り続けたこともあった。練習が終わって帰ろうとすると「いや〜いいもん見さしてもらいましたわ。引っ越し先の候補を見つけて来たから確認してくださいよ〜」と来る。家や練習場所に毎日地上げ屋が押しかけてくる始末だった。この物件情報がまたボロ家ばかりで、実際に立ち退くとすると別途自分で調べる必要がある。単に心身削るための物件情報なのであった。

2月は誕生月であり、ムーミンバレーパークに連れて行ってもらった。フィンランドの集中できる場所作りが埼玉にそのままやってきて、ムーミン世界も楽しめるというとてもいい場所だったのだが、家のことを思い出しては何度も悲しくなっていた。「人間は楽しいときほど悲しいことを考えてバランスを取ろうとする」というどこかで聞いた言葉を支えに、「そういうもんか」と割り切るようにしていた。

3月:取り壊される家で展示を開催

地上げ屋はどうしても3月末までに立ち退かせたいらしく、交渉も苛烈になってきた。毎日来られるとストレスで立ち退けるもの立ち退けなくなることを伝え、一週間の検討期間をもらった。地上げ屋が来なくなるだけでなく、家の前を大声をあげた不審者が毎日通る現象もなくなった。この間に引越し先を決め、自宅で行う展示の大枠を決めた。

当初は戦意高揚芸術を模した地上げ屋の肖像画や交渉中の音声を使用したインスタレーション、家でしか受け取れないNFTの配布等を検討していたが、前者2つを展示したまま生活したくないこと、なるべく家の生活を来場者が追体験できるシンプルなものにしたいことから削ぎ落とした。

展示の主な構成要素は内壁に書かれた数千字の文章、写真と洗濯物を使ったインスタレーション、生活者の生態展示(展示に際して部屋を片付けすぎないようにしつつ、来場者を家へのお客さんとしてもてなす)になった。

「家がなくなる」展ではコロナ禍は会えずにいた人たちと久しぶりに会うことができた。展示を見てもらうばかりでなく、庭で一緒にハンモックでシーシャを吸ったり、庭でとれた金柑のジャムを使ったお菓子をつまみつつお茶をしたりした。土日はすれ違うのが大変なくらい人がいたので、昔のアートコレクティブのホームパーティのようだった。

理不尽への怒りや悲しみに端を発する発信はジャーナリスティックなものになりがちだが、展示をきっかけに人を呼んでとにかく寛いでもらうことでユーモアに昇華することができたのはよかった。芸術作品の制作は人生の乗り越えがたき問題を解決する手段としてある、という信条が強固になる出来事でもあった。

新薬の開発の仕事を休んで2022年はゆっくりするはずだったのに、アーティスト・イン・レジデンス、「家がなくなる」展では心身ぎりぎりまで追い込みつつ食べ物をたくさん食べ、紙たばこも水たばこもたくさん吸って頭を動かしていた。こんなことは生業にできない!と結果として考えたが、このような人生の有事に対応するべく作品制作ができる身体機能を持っておくこと自体の重要性は身にしみた。

心身ともに疲弊していようと、大変な状況だろうと、逆に何もなさすぎる状況だろうと、毎日一定時間やり続けられるジャグリングのつよさも翻って迫るものがあった。

4〜6月:バレエ修行編

そそくさと新居に引っ越し、やっと休養の機会が訪れた。のだが、去年からお世話になっていたバレエ教室がなくなることになり、新しいバレエ教室に通い始めた。これがまた、「入門」クラスにすらプロのダンサーや他で先生をやっているような方がいる本気のスタジオで、認知リソースのほとんどはバレエの学びに持っていかれることとなった。レベルを合わせてもらっている(というか自分が律速)なので毎回学ぶことがたくさんあった。週3で通ったが週5の労働くらい大変だった。そのうえジャグリングは週7でしている。大変でも楽しいことは続けてしまう。楽しすぎることは尚更。休むことは諦めた。

様々な生き方をしている人と直接話すべく、地方にも出かけた。築60年の廃屋をリノベーションして溜まり場にする視点で数寄屋大工の方と見学しに行ったり、野菜の創作料理だけを出しているジブリ作品に出てきそうなマダムの人を安心させる佇まいに触発されたりしていた。同じ土地でも少しコミュニティを外れると反ワクチン/陰謀論渦巻くところがあり、安心して生きていける場所を見つけることの途方もなさを感じる。

ちょっと野草を食べてみたりもした。甘草とヨモギが美味しかった。

「日本の鈍感なおじさん」みたいな人が会社のまわりに多く、この頃の私は加齢に絶望していた。でも、上述の2人や新しいバレエの先生、整体師など「こうなりたい」と思える人達に出会えてよかった。

7,8月:スペイン・ポルトガル放浪、EJC
European Juggling Convention(EJC)に参加すべく、スペインにやってきた。ナランハ祭りという日本のジャグリングイベントでEJCの紹介DVDを見たのが高校生の時だった。ずっと行きたいと思いつつ、大学生の頃はそもそも思想や文学、アートに夢中だったり旅行や留学と日程が被りがちだったこともあり参加できなかった。社会人になって初めて参加しようとした年は稼業の都合がどうしてもつかず、会社を辞めてても行こうと航空券を取った2020年はEJC自体が中止になった。

EJCを中止に追い込んだCovid-19は私にジャグリングと向き合う時間をもたらした。テレワークによって通勤時間がなくなったので、その分毎日練習ができるようになったのだ。毎日2時間以上練習していると、練習が上達するための流れを整えるだけの時間になる。小学生の頃からなんとなく気になっていたクラシック・バレエの教室にも通いはじめた。アート、思想、文学、薬の開発、とりとめのない関心がジャグリングに流れ込んでいく時期だった。この頃の実感については『潜在性のけもの』という個人誌に纏まった。練習はいくらでもするが、披露する機会は制限しようとも決めていた。このとりとめのなさを止めたくなかったのである。いつ再開するかもわからない次のEJCのopen stageを披露するタイミングとすることにした。

2週間ほどスペインとポルトガルを彷徨い、酔いに任せて路上パフォーマンスで日銭を稼ぎつつ暮らした。夜行バスの眠気を噛み締めながらEJCの会場に着くと、イベントがまだ始まってないのに、100人以上のジャグラーがそれぞれにジャグリングをしていた。ホテルのチェックイン待ちでもジャグリングするような感じで、とくにすることがなくなったら自然とジャグリングをしてしまうのがジャグラーなんだ!と強烈な印象を抱いた。

ある朝、Open Stage参加者のミーティングにはたくさんのジャグラーが集まっていた。オーガナイザーの話によると、Open Stageの参加希望者が多すぎるので、セレクションを行うことにしたという。しかも、出場枠のうち半分は既に動画を見て決めてあるという。この出演が決まってる人たちはミーティングに来ていなかった。当時計算したところでは倍率は10倍ほどだった。「出れるわけない……。」と率直に思ったし、温厚なジャグラー達が「自分が周りのジャグラーより上手いかどうか」とピリつく緊張感はけっこう怖かった。

みんなセレクションで見せるための流れを必死に練習していた。私といえばもう精神的に参ってしまってストレッチしたりごろごろ寝転がったり、意味のない雑談をして過ごしていた。動画に撮影してある動きでダメだったらもう諦めることにした。2年間の練習の成果をEJCのOpen Stageで発表する計画は、スペインで暗礁に乗り上げた。

自分のセレクションの番が来た。オーガナイザーと自己紹介し合い、動画を見せた。一瞬の沈黙。「終わった……。」と思った。返ってきた言葉は「とてもいいね!ぜひパフォーマンスしてほしい。」という言葉だった。「この曜日にStrongな演目がなくてどうしようかと困ってる。ぜひこの曜日がでやってくれないかな?」という言葉が続いた。人に見せずに練習している間にすごいことになっていたらしい。ジムでもたくさんの人に褒めてもらった。「そんなによかったのか……。」とやってる本人も驚くような日々だった。

毎日Open Stageを見るのも楽しかった。憧れのJoe Fisherのパフォーマンスも見ることができた。ヨーロッパのステージの盛り上がりはすごい。どこから声を出しているのか、という声量で何千人もの人々が歓声をあげるのはすごい迫力だ。圧倒されていたが、Joe Fisherのパフォーマンスでは我を忘れて負けない声量で歓声をあげた。

Open Stageの演順はトリ前が“Strong”な数分のアクト、トリが“Strong”な長めのアクトという構成だった。そんな状況なので演順発表のときはセレクションの時のようなピリついた雰囲気になった。場当たりを見ていて「みんなうまいなぁ」と思っていたので何番目でもとにかくベストを発揮して帰ろうと思っていたらトリ前にやることになっていた。ウォームアップしては寝そべり、ストレッチをして……を繰り返して必死に平静を保った。

(続く)


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