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骨折りゾンビのモンキーダンス 競走と狂奏編

熱海です。手の甲の骨が折れて2週間が経ちました。忙しい日々が続いていたので、しばらく手を止めて色々と考えごとを進めようと思っているのですが、骨折というショックは心的な負荷も伴うもののようでして……ぼんやり考え事というのは難しいようです。

そんな時は何かに集中すると気分が華やぎます。幸いなことにギターは弾くことができ、痛みや眩暈も伴わなくなってきました。ONE OK ROCKのDeeper Deeperが割とすぐ弾けるようになり、調子づいております。敬愛する9mm Parabellum Bulletのリフとパワーコードもゆっくりであれば弾けるようになってきました。その数倍の速さで美しく、かつ正確に、踊りながら演奏している滝善充のテクニックの途方もなさを改めて感じます。滝の作った曲ですから、滝のこだわりが隅々まで詰まっています。それを感じられるのも非常に楽しいです。

ロックの界隈では再現ライブが流行っています。再現ライブとは、アルバムの曲順のとおりに演奏するライブのことです。ライブのセットリストを作るロジックはアルバムの曲順のそれとは異なります。また、アルバムのリリース後、毎回ライブで演奏されるような名曲(アンセム)がリリースされることがほとんどです。また、アルバム曲はライブにおいては「レア曲」になってしまいがちです。どんなに優れたアルバムの名曲でも、普通にライブをしていたら聞けなくなってしまいます。それを救済するのが再現ライブです。

9mm Parabellum Bulletも1stアルバム「Termination」と2ndアルバム「VAMPIRE」の再現ライブを行いました。どちらも私が高校生の頃CDが擦り切れるくらいリピートした名盤です。この再現ライブを大人になって好きなだけライブに行ける立場で見に行けるというのは感無量です。

ロックにおいては再現ライブが行われ、アニメ映画ではスラムダンクのような不朽の名作の映像化が盛んです。実写映画においてもリバイバルやシリーズものが中心です。完全な新作・新シリーズは減少傾向にあるのです。

このことには宗教の希薄化が関係しています。人類史は宗教の歴史でもあります。紀元前においては異教徒は殺害の対象でした。現代ではそこまでのことは稀であり、もしそのようなことがあれば国際社会の非難の対象となります。

アメリカでは、キリスト教を信じていると自認する若者が減少しています。それと相関するようにハードにコミットして支持のできるコンテンツが勢力を伸ばしています。人間が「何かを信じたい。信じるもののために何かをしたい。」という気持ちはかなり根深いのかもしれません。宗教は信仰以外にも、礼拝のようなコミュニティ機能や、懺悔室のようなセーフティネットを担ってきました。これらの機能をリプレイスする存在を人々は必要としているのかもしれません。

ジャグリングの競技会に宗教の機能の一部をリプレイスしたマイクロカルト的な側面を感じることがあります。一部の人に限られますが、ジャグリングの大会で入賞するという栄誉に「救済」を感じている方もいます。自分から見ると親御さんに大事に育ててもらって(いわゆる毒親問題とは無縁で)いい学歴とキャリアパスを積んで万々歳じゃないか……という方こそ病んでいて、ジャグリングで入賞することが救済になっていたりします。少年期の歪みは、何も対処をしなければ大人になっても治ることはないのかもしれません。
いい学歴とキャリアパスを積んでいて、でも、どこか満たされない、社会から受容されていないような気がする、という悲鳴が垂れ流しで聞こえるようです。

骨折をしていなければ、その週末は大会に出る予定でした。私は割とジャグリングスタイルが独特で、点がつくかどうかはジャッジの好みにも依存しますので、競技会で評価される技・流れは学習・採用しつつも自分のやりたい技や動きは維持し、ミスは減らし、とにかくベストを尽くす、というスタンスで臨んでいます。いいと思う演技をすることとそれが大会の点数に結びつくかどうかは別ですし、複数回出場するなかでブラッシュアップしていく過程自体が競技シーンとのコミュニケーションでもあると思います。

自分自身がそんなですので、負けたらどうしようとかはあまり考えていませんでした。通し練はとにかく自分の設定したハードルとの戦いで、それを越えられないと自分を許せなくなるのでそれはそれでキツいのですが、勝ち負けはあまり意識していませんでした。

そんな状況で同じ大会に出る方(初対面で、自分のことをSNSで知っていてくれていて、おそらく通し練も見ていた方)が声をかけてくれたのですが、大意としては「ジャグリング以外のことが忙しくて準備が十分でない(から自分は負けても仕方ない)」というようなものでした。

学生の頃の定期試験で「おれ全然勉強してないよ〜」が口癖の同級生はあるあるだと思うのですが、そのようなノリを感じました。成績が良くなくても勉強してないからだし、成績が良ければ勉強の効率がいいのです。私自身が本当に一夜漬けばっかりで単位さえ来ればいいギリギリの勉強しかしない主義だったので、彼らが実際のところいかにたくさん試験対策をしていたかは知っています。本当に試験対策していないわけではなくて、単に不安を紛らわしているのです。そんなお互いの未成熟さも含めて美しい思い出です。

しかし、他の人の大会の通し練を見て予防線を貼りたくなるような感情が生じたとして、そのような感情垂れ流しを、同じ大会でいいパフォーマンスをしようという仲間にぶつけようというのはどのような了見なのでしょうか。大会とは、全員がベストを尽くした結果をジャッジが評価するものではなく、場外での足の引っ張り合い上等で順位を競うものなのでしょうか。喧嘩をした方が良いでしょうか。

もちろん、当の発言をした本人はそこまでの加害性を自覚してやっていないと思います。本当に世間話で素直な言葉を言ったのだと思います。そのナチュラルさが、子供の頃から続く評価主義下の競走から今も逃れられないマジョリティの不安と心の歪みを感じさせました。そして、評価されないとやっていられない人たちの作った社会の歪みが再生産される様子を生々しく感じ、私は毒気にやられてしまったのでした。

私自身も中学・大学受験、および研究室配属に伴う大学の成績争い、所属・留学先の研究室での競走とは無縁ではありませんでした。しかし、その結果を絶対視するのは絶対に違います。特にこの場で言っておきたいのは、そのような評価を内面化して他者と接する態度を決めていると、最終的には孤独になってしまうということです。興味のある方は、競走や戦争を勝ち抜いた偉人の最期を調べてみると良いでしょう。
「競走で勝てば承認してもらえるかもしれない」という仮説のもとであったとしても、弛まぬ努力は素晴らしいものです。しかし、競走で勝てるかどうかと、人間同士のコミュニケーション能力や問題解決能力は本来別物です。人間という群れる生き物のなかで承認を得るには、みんなが群がる名誉という大渋滞の中で押し合うよりも、目の前の他者を大切にすることの方が近道なのではないかと思えてならないのです。

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