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第1章 どす黒い奔流(1)

私のここまでの人生は、どちらかというと波乱万丈だったと言えるかも知れません。

中央官僚から知事を12年務めた父を持ち、母方は祖父が東大医学部長、日赤病院長までになった医者と学者の家系でした。しかし母は「エホバの証人」の信者で、私の少年期に3度も自殺未遂を行い、寝たきりの生活を送っていました。私は国立大学を出て、「組織ジャーナリスト」の一員になりましたが、権力闘争のみに明け暮れる体制にうんざりし、某国の支局長を終えて退職しました。その後ビジネスの道に進みますが、最終的には大きな借金と裁判を抱えることになり、派遣労働者やタクシー運転手をしながら、その借金を返して行きました。

この哲学的エッセイのテーマである「ものがたり」にまつわる思想は、このような私の人生の過程で、長い年月を掛けて徐々に熟成してきたものですが、エッセイという「かたち」に向かって思考が集積されていったきっかけとなった出来事が、2つあります。

その一つは、2011年3月11日に発生した、東日本大震災でした。

【花は咲く】
地震発生当時私は仕事で横浜にいて、高層ビルのトイレの中で船旅でしか経験したことのない大きな横揺れに襲われました。駅前のロータリーを上から見ると、夕立に見舞われた後の蟻の巣のようでした。しばらくして立ち寄ったそば屋のテレビに映った日本地図、その太平洋側が真っ赤になっていることに、私は大きな衝撃を受けたことを覚えています。

その日から数ヶ月の間に目撃した、被災地の惨状、日本人の反応、そして当時の私自身が置かれていた困難な状況などが重なって行く中で、それは徐々にかたちになっていったような気がします。

私が最初に受けた衝撃、つまり理性や感情に与えた瞬間的な影響はどういうものであったかというと、ほとんどの日本人がそうであったと思いますが、自然の巨大なエネルギーに対する人間の無力感のようなものでした。テレビの映像で見る限り、津波の高さは数メートル程度にしか感じられませんでしたが、海沿いの街や田畑で、濁流が船や車や家屋を瞬く間に飲み込んで押し流していく様子に強い恐怖を覚えたものです。

この津波により、一瞬の間に、2万人に登る人々がいのちを落としました。その周りに数万人の遺族が生まれ、数十万人の人々が住むところや職場を奪われて路頭に迷いました。聞こえてきたのは、「~を奪った津波が憎い!」という嘆きと恨みの地響きのようなこだまでした。

その時、私の頭に2つ目の衝撃が加えられたように感じたのです。
「待てよ。<どす黒い奔流>という表現は違うのではないか?海の水は、いつでもどこでも清らかで透明なはずだ。濁っているのは、私たちの「文明」(がれきを生み出した生活、産業、インフラ)なのだ」という気づきでした。

「~を奪った津波が憎い!」という嘆きと恨みは、人間中心の立場で世界を見るときに生まれます。もし「自然」の立場というものがあるとすれば、彼はこう言うでしょう。

「地球は生きている。生きているからマグマによる地殻変動が起き、断層が生じる。深い海底で断層が生じれば巨大津波が発生する。当然のことだ。君たち人間は、生きている地球によって無限の恩恵を受けているのだから、逆の場合も受け入れるべきではないのか。ましてや、津波に何度も飲み込まれているのに、そこに住み続けるのは君たちの責任だろ。」

私は、そのような自然の声を聞いたような気がして、彼が言っていることが正しいと思ったのです。私の中の「人間中心的世界観(人間中心主義」が音を立てて崩れ、「存在中心の世界観(存在中心主義)」に転換するきっかけとなった出来事でした。これを私は、「人間中心主義から存在中心主義へのコペルニクス的転換」と呼び、このエッセイの中心的な命題の一つにしています。

この「存在中心主義」は、だいぶ後になって知った、ある被災者の話によっても強化されました。それは、3月11日の東北地方の夕焼けが美しかったという話です。気仙沼に住んでいたその中年の男性は、妻とこども2人と家を奪われて、避難所で夜を迎えました。

 「不思議なことに、絶望とか悲しいとか、そういう感情が生まれてきませんでした。身体全体が一つの空洞になったような感じといいましょうか・・・何も感じられなかったのです。ただ、その時、見上げた夕焼けは、きれいだ、美しいと感じました。自分でもおかしいと思います。こんなことがあった後、夕焼けがきれいだなんて。でも、今でもその時の感覚を鮮明に覚えているのは、私が夕焼けの美しさに、実はちょっとほっとしたからなのです。自然は変わらないのだな、ということに、ちょっと慰めを感じたのです。良く分かりませんが・・・」

この男性は、自分でも知らないうちに、「人間中心主義」の世界観から、「存在中心主義」の世界観に転換していたために、「~を奪った津波が憎い!」という嘆きと恨みに苦しむことなく、慰めすら感じたのだ、と私は思いました。

私を襲った3つ目の衝撃は、ある意味で、最初の2つとは真逆のものでした。
 
皆さんも良くご存じのように、震災からしばらくして、「花は咲く」という歌が作られ、日本中で歌い継がれていくようになりました。私は、岩井俊二さん作の詩の内容と、それが多くの震災遺族や被災者たちの心を、ひたひたと癒していっている事実に、衝撃を受けたのです。

真っ白な 雪道に 春風香る
わたしは なつかしい 
あの街を 思い出す 
叶えたい 夢もあった 
変わりたい 自分もいた 
今はただ なつかしい
あの人を 思い出す

誰かの歌が聞こえる 
誰かを励ましてる 
誰かの笑顔が見える 
悲しみの向こう側に 

花は 花は 花は咲く 
いつか生まれる君に 
花は 花は 花は咲く 
わたしは何を残しただろう 

 
この詩は、震災で亡くなった「わたし」が、「向こう側」から「こちら側」に残してきた「想い出」と「人々」を、「懐かしむ」という体裁をとっています。

残された人々は「こちら側」にいて、「わたし」を失った喪失感と罪悪感に苦しんでいます。罪悪感というのは、「わたし」が、<苦しかっただろうね、怖かっただろうね、寂しかっただろうね。あなたにそんな思いをさせてしまった、この私を許して!>という罪悪感です。この詩はそんな残された人々を、「わたし」が慰める 歌なのでした。

どうして、この詩が、残された「こちら側」の人々の慰めになるのでしょうか?

それは、「わたし」が「向こう側」で、まだ「生きている」と感じるからです。

「こちら側」で起こった出来事は、大切な人を失ったという出来事も含めてすべて、「向こう側」に行けば「懐かしい思い出」になるのだということ。つまり「わたし」は、苦しんでもいないし、寂しがってもいないと感じるからです。

「わたし」は、「花となって」、「こちら側」に姿を現すでしょう(花が咲く)。その花が見るかつての「あの街」と「あの日々」は、悲しみを超えてその向う側にあって、歌が聞こえ、互いに励まし合い、笑顔に溢れ、希望に満ちて、絆で結ばれ、「いつか生まれる君」の未来へとつながっているのだ、つまり希望があり未来があると感じるからです。

そしてこの希望と未来をわたしたちに残し、「向こう側」に行ってしまった後でも、「こちら側」といつもつながり、わたしたちを見守り、肯定し、励ましてくれるのは、「あなた」だと感じるからです。

「花は咲く」という詩で語られたこのような「ものがたり」が、震災で亡くなった2万人の周囲の、遺族や友人や知り合いである、何十万人もの人々の喪失感と罪悪感を、癒したであろうことは間違いありません。私はそのような「ものがたり」の力に大いに驚き、考え込んでしまいました。(続く)

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