露出狂的

ネットフリックスで大人気のスペイン発のクライムサスペンスドラマ、『ペーパーハウス』を見た。批評家からも一般層からも高い支持を得ているが、自分はあまり面白いとは感じなかった。人気が出る理由は分かる。ギリギリの状況の連続でハラハラドキドキさせられるし、強盗事件の首謀者である「教授」をはじめ、キャラクターは立っている。
けれどもこの作品はそれ以上のものは与えてくれないように思える。この作品の評価は世間と僕とであまりに大きく違ってしまっている。けれども少数派であるということは、必ずしも悪いことばかりではない。自分には書くべきものがあるということだから。

(本論に入る前に、前提として共有しておきたい部分をかいつまんであらすじを書いておく。言うまでもないがこれ以降はネタバレ注意)
舞台はスペインの首都マドリード。強盗の集団が王立造幣局を占拠し、67人の人質とともに立てこもる。この集団の首謀者は「教授」と名乗る男であり、強盗団のメンバーは「教授」によって集められた、社会のはみ出し者の犯罪者たちである。
「教授」は極めて知性的で優秀な人間として描写され、強盗団のメンバーからの信頼も篤い。カリスマ的な人物であり、犯罪者でありながら人情家であり、善人である。『ペーパーハウス』という作品の人気の理由の大部分は、『教授』というキャラクターの魅力によるものであるように見受けられる。
「教授」が計画した事件は、彼に言わせれば単なる強盗事件ではない。だれも傷つけない、一滴の血も流さない、そして強盗とは言っても自分たちは何も盗まないというのだ。果たしてそんなことが可能なのか。
警察側でこの事件の指揮を執るのがラケル・ムリージョ警部である。彼女は等身大の人間である。つまり名だたる名探偵、シャーロック・ホームズ、コロンボ、古畑任三郎、杉下右京らのような超人的な推理力を持つわけではない。またプライベートでは離婚していて、かつての夫は優秀な同僚なのだが、ラケルに暴力を振るい、さらには不倫までして、その相手はあろうことかラケルの妹である。その結果前夫は彼女に対する接近禁止令を出されるのだが、外面がよい彼は職場では信頼されており、現在も娘の親権をラケルから奪おうと画策している。ラケルは仕事だけでなく日常生活でも大きなストレスに晒されている。
このように、ラケルは弱みを抱えた、あまりにも普通の人間であり、天才的かつ超人的な頭脳を持つ「教授」と互角に渡り合えるはずもない。事件の展開は「教授」の仕掛けた罠にラケルら警察がまんまと嵌るか、あるいは警察側が何かしらの策略に打って出ても、「教授」たちには予めお見通しで、逆に利用されるか、もしくは「教授」ら強盗団が窮地に陥っても、これまた超人的な運の良さで危機をすんでのところで回避するか、概ねこの三パターンが物語の最初から最後まで繰り返される。「教授」は常に、警察の一歩先を行っている。もちろん最後に勝つのも「教授」たちである。金を持って逃げることに成功しただけでなく、社会に不満を持つ大衆の心も掴んだ。彼らは南の島へ行き、悠々自適な暮らしをはじめたようだ。

ここがまさに、『ペーパーハウス」を好きな人たちにとっては、たまらないところであり、僕が興ざめしたところなのだ。

問題点をかなり乱暴にわかりやすく言えば、「教授」にはライバルがいない。作品世界内で最強の存在である。だからこの作品は露出狂的な作品になってしまっている。
もちろん主人公に対するライバルの存在は傑作の必要条件ではない。しかし「教授」には絶対にライバルが必要なのだ。なぜか。「教授」は悪のカリスマだからだ。悪とは何か。存在してはならないものだ。それでも我々はある種の悪に魅了される。悪を欲する。悪は我々の欲望だ。魅力的な欲望とはどういうことか。上品な欲望とはどういうものか。それは高級レストランだ。上流階級のテーブルマナーだ。どんなに空腹でも、食欲を適切に制御し、目の前にある料理にがっつかず、小さく切り分け、ゆっくりと口へ運び、能う限り小さな音で咀嚼する。このように欲望を制御することの美しさを僕は山崎正和の本に教わった。食欲と同じく性欲も、放縦に垂れ流すのではなく、適切に制御することで美しくなる。夏の浴衣姿には、あからさまな裸体にはない美があることを九鬼周造の本で知った。
「教授」という悪には、それを制御する正義の側のライバルが不在である。つまり垂れ流しである。何もかも脱ぎ捨てている。僕にはこれが美しいとは思えない。

『ペーパーハウス』にぞっこんな人たちは、皆「教授」のキャラクターに惚れこんでいるようだけれども、僕はこの男を好きになれなかった。もし彼に相応しいライバルがいれば、好きになっていたかもしれない。見始めてしばらくはそうなることを期待していた。「教授」のようなキャラクターは自分好みのものに近くて、だからこそ彼がただひとり相撲をとるだけで終わってしまったことが本当に惜しい。

少々の欠点は気にならなくなるほど盲目的にほれ込んでいる人たち、つまりマジョリティである『ペーパーハウス』のファンの人たちは、「教授」のキャラクターをそれでも愛せるのだろう。強盗団の面子も「教授」に心酔している。しかし僕から見れば彼は頭がキレて、フィジカルも優れていて、仲間に優しく、運にも恵まれているが、同時に極めて幼稚で、独善的な人間である。誰からも無条件に愛されるキャラクターという役回りは「教授」には荷が重いのである。

彼の強盗理念である「誰も傷つけない」というのは、より正確に言い換えれば「自由を奪い、銃を突き付けて脅し、尊厳を傷つけるが、殺しはしない」ということであり、「盗まない」というのは、「造幣局を占拠して、金を刷らせる」ということである。これは屁理屈以外の何物でもない。ひどく幼稚だが「教授」のパーソナリティが反映された彼特有の理念であることも間違いないので、「教授」の前に強力なライバルが立ちはだかり、衝突が起こればもっと深いものになり得たかもしれないのがつくづく残念である。

また「教授」の優秀さの描写についても、同じく子供っぽいものを感じる。彼の考案した計画は確かによくできている。しかし机上の空論という印象がぬぐえないのである。確かに「教授」の計画は警察を出し抜いたが、想定外のトラブルが何度も起こり(作品としてはそこがハラハラさせる要素なのだが)、最終的に勝利できたのは偶然による部分も大きい。こうしたトラブルも、「教授」がそこまで賢いなら想定しておくべきだろうと思わせるものが多い。閉鎖された極限状況では人質も犯人も平静を失うのだし、何としてでも助かろうとする人質側も、解決を急ぐ警察側も、どんな手段に出るかわからない。ありとあらゆる可能性を想定してから臨むべきだろうが、その割には強盗団たちはすぐにあたふたする。印象的なのが1話で強盗団の実行部隊の一人であるトーキョー(本作のナレーションでもある)が、造幣局前に集結した警察の前に銃を構えて現れたとき、発砲されるのだが、そのとき「まさか警察が発砲してくるなんて思わなかった」というナレーションが入るのである。僕はこの場面を見て、『ペーパーハウス』という作品への期待を大きく膨らませた。「教授」は賢いが、歪んでいて、世間知らずで、そうした悪と警察が対峙してどのような劇が繰り広げられるのだろうかと思った。しかし「教授」は完璧超人で、善人だった。

「教授」は仲間想いで、情に厚い人間として描かれ、あたかもラケルの上司の警察側の嫌な大人と対比されているかのようである。しかしその優しさは仲間だけに向けられたもので、その外側の人間に対しては「殺してないから傷つけていない」という程度の薄っぺらい情があるのみだ。こんなものはマフィアの道徳でしかないだろう。たとえばパブロ・エスコバルも無関係の人間はいくらでも殺したが、仲間想いだ。エスコバルは最後は情けなく殺された。「教授」は英雄として生きている。エスコバルには危険な悪の魅力がみなぎっている。「教授」はあまりに安全である。

ラケルはさらに面白みのないキャラクターだ。彼女は絶対に「教授」に追いつくことがない。「教授」の有能さを引き立てるための存在のように感じる。
実はこのラケルと「教授」は恋に落ちる。物語の終盤でラケルが「教授」の正体に気づくまでは、「教授」のみが二人の真の関係性を把握している。だから「教授」はデートに乗じて事件の展開を有利に進めることもある。ラケルは間抜けに見える。『ペーパーハウス』を見ていない人だと、「教授」は利用するためにラケルに近づいたのではないか、少なくとも最初の動機はそうなのではないか、という疑念を抱く人もいるかもしれないが、それは絶対にないと断言できる。「教授」のラケルへの恋心が決して偽りでないことは、非常に入念に描かれるからだ。「教授」は断じて得体のしれないミステリアスな悪ではなく、善人であることが示される。

泥棒役と探偵役の恋ときくと、悲しいものを想像するかもしれないが、心配することはない。この二人の恋は何一つ悲しくないのだから。ラケルは恋人の正体に気づいたとき、トイレで大泣きする。愛する人と敵対しなければならない、悲しい運命。愛する人が自分をだまし続けていた強盗だったという怒り。しかしこれらはすべて乗り越えられる。ラケルは最終的に警察官という責任を捨て、「教授」の仲間となるからである。ラケルは教授が涙ながらに動機と身の上を語るのを聞いて「どちらが悪でどちらが善かがわからなくなった」と言って、教授の仲間になることを宣言する。思考の放棄の言い訳である。葛藤のないキャラクターに魅力はない。

「教授」の語る動機というのもさほど共感に値するものとは思えない。曰く「教授」の父親は強盗をしようとして警察に射殺された。彼には病気の息子がいた。治療のために多額の金が必要だった。誰も彼を助けなかった。今回の造幣局占拠は「教授」ではなく、父の発案である。父の夢を叶えるためなのだ、と。僕はこれまで「教授」を幼稚な人間だと言ってきたが、この動機を見てもやはり少年時代に失った家族への執着が伺えるだろう。しかし確かに悲しい動機ではあるが、英雄ぶれるような理由では断じてない。無関係の人々を傷つけた罪とは向き合わせるのが警察の仕事、悪のライバルの仕事である。「教授」はさらに続けて、「こんなこと(造幣局で大量の金を刷ること)はよく行われている。EU中央銀行は20XX年にXXX億ユーロもの大金を刷った。それは全部金持ちのところへ行った。我々のやってることと一緒だ」と述べる。SNSでしばしば見かける程度の議論である。
そしてラケルはこれで落ちる。彼女は「教授」よりずっと弱い。この二人の恋愛は悲恋に終わるわけでもなく、双方が歩み寄るわけでもなく、ラケルの側が一方的に立場をなげうって「教授」の軍門に下ることで問題は解決される。ラケルが元夫に家庭内暴力を振るわれていたことを思い出してほしい。最初の頃は知的で素敵な男性だと思っていたが、いつの日かひどい扱いを受けるようになったそうだ。「教授」も一見知的でダンディだが、その実、他人に銃をつきつけて従わせることにためらいのない犯罪者である。つまりラケルはそのような男に惹かれてしまう性質なのである。このことも僕を大きく期待させた。この作品は人間心理の闇について、とてつもなく深い洞察を示してくれるのではないかと。しかし「教授」は善人だった。

『ペーパーハウス』は平たんな一本道を歩いていくようなものだ。遮るものは何もない。いや、強盗団には死者が出ている、「教授」だって仲間を失っているという反論があるかもしれないが、的を外している。それは「教授」の「一滴の血も流さない」に「人質を拷問して怪我をさせている」と反論するようなものだ。物語はそんな杓子定規ではかるものではない。確かに強盗団は三人の仲間を失うが、あくまで内部での悲しい出来事でしかない。外部との衝突ではないから波紋は起きないし、仲間が死んでもその遺志を継いでそのまま計画を続行するだけだ。

とにかくこの作品はそういう性質だ。ネットを張らずにテニスをするようなものだ。この比喩は詩人のロバート・フロストが用いたものだが、そういえば彼には「選ばれない方の道」という詩がある。その最後の連はこうだ。

長い時間が過ぎた後 どこかの場所で
ため息をつき 僕は語る
森の中の分かれ道 そこで僕は――
歩む人が少ない方を僕は選んだ
そこですべてが大きく変わった

充実した生の実感である。


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