【メンブレ注意】就職して3日目に母親が亡くなった話(これまでの経過 その2)

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お忙しい方のためにまとめると、2021年の4月ごろから母親が体調を崩しました。しかし、母親が検査に難色を示したために父親は常にメンブレし、家庭内が冷戦に。ようやく秋頃になって、母親は初めて重い腰を上げて検査を受けました。そして下された診断は末期癌それも治療法がかなり限られていて、5年生存率が低いという恐ろしい診断でした。ここで、緩和ケアを決意し、緩和ケア病棟のある病院に転院。合う薬が見つかって穏やかな日々が戻ってきたかと思いきや、例の東欧の戦争のあの日に急変し、緊急入院。そして、このまま亡くなるかもしれないと宣告されたところから今回の記事は始まります。

2022年2月25日〜3月第1週:この頃の我が家はかなり失礼かつ不謹慎な言い方をすると、1988年の9月の昭和天皇ご重篤の時の侍医団のようなムードなりました。いよいよ、「Xデー」が近づいているということを実感せざるを得ないような、そんな心待ちでした。

2月25日から約1週間、完徹で受けたITパスポート冷めやらぬ頭で、父親とともに母のXデーについての取り決めを行いました。

まず、葬儀について。こちらは、母親が元気な時から父親と簡易的な葬儀にすると合意がしていたそうで、簡易葬とのことで決まりました。しかし、葬儀社までは決めていなかったため、我々親子は片っ端から簡易葬を行っている会社に連絡を取りまくりました。その結果、よくみんなで買い物に行ってて、そこそこ大手のグループということでイオンのお葬式に決めました。葬式プランは、ただ火葬するのも如何なものかと思ったので、父親が簡単なお経を読み上げてもらうプランをオプションでつけました。(これが後に面倒なことになりました)

次に、遺産相続について。こちらは戦略が敵陣営である伯母(母親の姉)一家に漏れると大変なので、詳細は割愛しますが、とりあえず母親と昔から仲良くしてくれている弁護士さんと話し合うアポを入れました。

そして、その次に母親への正確な余命宣告について。こちらについては、正確な余命は伏せておこうと父親が提案しました。知る権利の侵害行為であると私は反発しましたが、よくよく考えたら下手に余命宣告してメンブレしたまま死ぬのも残酷だと思ったので、父親の意見に従いました。

お互いの生活についても変わりました。自粛ムードはピークに達しました。まず、言葉選びについては、おめてとう、元気、お祝いなどの言葉は禁句となりました。

さらに、父親によって言葉選びだけではなく、行動面のガイドラインも決められました。そのガイドラインの内容とは、母親が何らかの形で危機を脱するまではテレワークをし、いかなる理由でも外出禁止という上海のロックダウンのような行動制限がかかりました。万が一、母親が死ぬ以外の方法で危機を脱した場合は外出は認めるが、外出する時は自宅から1時間圏内かつ交通の便がいいところに限り出かけてもよいということになりました。

ということで、エンカについては延期し、3/19のieltsや修了関連で都内に出ざるを得ない日に計画しました。また、修了式への参加については途中で電話が鳴りかねないので、自粛することにしました。そんなわけで、実は3月は人とエンカした日数はわずか3日程度。つまり,それ以外は全部自宅に缶詰です。まあ、前回2/7のIELTsでOAは6.5だったものの、スピーキングだけ5.5を取ってしまったので、缶詰になって3/19のieltsの勉強してやるかぐらいの気持ちでいました。(結局、言うほど集中して取り組むことができた日は割と少なかったのですが)

その頃からでしょうか、父親も私も電話の音が鳴るたびにビクッとするようになりました。

2022年3月第2週: この週の前半、私は母親の緊急入院以来初めて母親と対面しました。(ご時世がご時世なので、面会は週に1回20分、家族のうち入院時に同意書に署名した人のみの面会許可でしたが、特別に面会させてもらえました)

私は別人のように痩せ細り、よほど苦痛なのか、唸っている母に衝撃を受けました。これはたしかにこのままのお看取りと治療方針欄に書かれても仕方ないと感じました。そのときに母親に「このまま自分は死ぬのか?」と聞かれて私は迷いました。ここで、私は母親に正直に言うのか、父親の言いつけを守るのかの2つにひとつの選択を迫られました。結局、父親の言いつけを守る方を取り、「死なないと思います、今すぐには」という大本営発表をしてなんとかその場をかわしました。もちろん罪の意識はありましたが、どこかの占い師のようにアンタ死ぬわよなんてことも言える勇気もありませんでした。

が、とりあえずこの週の後半になると、一応この解答が大本営発表ではないかもしれないという兆しが出てきました。運良く強い医療用麻薬で母親に合う薬が見つかり、腹水もそこそこ抜けたため、普通にLINEのメッセージや通話ができるように。

2022年3月第3週〜第4週:おそらくこの頃が、母親の体調が比較的良かった最期の期間だったかと思います。母親からは元気な時と同じように連絡が頻繁に来ていました。また、味噌汁程度なら食べ物を口にすることができるようになり、主治医からは「もしかしたら、退院して在宅医療も視野に入れることができるかもしれません」と、入院初期から比べたらポジティブなコメントをいただけました。

そんなわけで、父親も週1で出勤、私も某ウーバーやっている親しい先輩と3代目bar、そしてエンカ、IELTSスコアタでの悲喜こもごもなど、思いの外良くてはしゃぐなどの日常を少しだけ満喫していました。

2022年3月第5週:この頃になると胸水が溜まり始めたため、母親は自発呼吸がだいぶ難しくなっていました。そのときに、我々親子は何度も「自分はそろそろ死ぬのか?」と母親から聞かれ、大本営発表をしては嘘をついた罪の意識がどんどん積み重なり、精神的に疲弊していました。また、肉体的にも、私も父親も連日の不規則な生活から体調が悪く、完全に屍のようになっていました。

そしてついに、3月31日の午前中、周りが4月からの新生活に悲喜こもごもな状況の中で病院から呼び出しが。「この日から、母親本人が希望するかなり強い鎮静を使って完全に眠らせる」ということ、そして「鎮静が始まると概ね1週間以内に亡くなるので、意識があるうちに最期の会話をしてほしい」とのことでした。こうして病院に行き、家族3人で久々の団欒を過ごしました。その中で、「正しい方と楽しい方なら楽しい方に行けばいいので、MBAは金やランクは気にせず楽しいカリキュラムの方に行け」と言ってくれました。

そして母親との事実上の永訣の別れを済ませ、病院のロビーから帰宅しようとすると、いかにも生まれたばかり!みたいな赤ちゃんを抱いて退院しようとするご夫婦が目に入りました。うちの母親も生まれたてだった1964年の10月ぐらいのころはこんな感じだったのかな、と感傷的な気持ちで帰路につきました。

帰宅してすぐ、明日は間違いなく会社に少なくとも出社できるわけがない、するにしてもオンラインしかないと思ったので、内定先に報告しなければならないと思いました。

この時点ではギリギリ入社していなかったので、とりあえず就活時に利用した転職エージェント経由で内定先に連絡を入れました。内定先に直接母親が死にそうで入社即忌引きの可能性があるなんて言いにくいので(実際には優しい会社だが、私の中にかすかに残る日本人的思考があったため、言い出しにくかった)、エージェント経由で就活して良かったと心から思いました。

連絡を入れてすぐ、内定先の人事の採用担当の方から電話が来ました。すると、採用担当の方は開口一番、「(4月)8日まで当社が認めた事由による特別休暇にします」とありがたいお言葉。やっぱりここに入社を決めて良かった、新卒採用で160社落ちてあの当時はキツかったかもしれないけれど、今となっては良かったと心から思いました。

2022年4月1日:この日は本来なら初めてオフィスに行って、welcome partyに出るはずがステイホーム。Twitterに入学式や入社式報告が上がる中、ただただ母親の危篤の連絡がいつ来てもいいように外に行ける服を着ていましだ、私はとりあえず倦怠感がすごかったのでひたすら寝てました。父親も片頭痛でひたすら寝てました。2日も同じように時が流れていきました。念のため、家族で検査を受けて例の感染症の陰性証明を召喚しておきました。

2022年4月3日: この日は午前8時に病院から呼び出しを喰らいました。血圧がいよいよ上が70を切ったとのことで、最期が間違いなく1週間以内に来るということで母親と面会。一見いびきをかいて寝ているように見えましたが、主治医は我々親子にこれは死前喘鳴であるとご説明されました。

私がトンカツ弁当を食べていた23:55ごろ、病院から2度目の呼び出しを喰らいました。今度は血圧が上が40を切ったとのことでした。しかし、後から知ることになりましたが、実はこのときには母親は息を引き取っていたようです。57歳、平均寿命よりだいぶ早い母親の人生の終焉でした。

次回へ続く

最後に、またお香典ということで、前飼ってた猫の写真でも載せておきます。(ここから先は有料ゾーンです)

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