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主観意識が生成する世界モデル・仮想世界

404.我を忘れるとき、脳はどうなってるのか。脳科学からスピリチュアルを解明 #ロボマインド・プロジェクト - YouTube

 今回、心理学で出てくる「感情移入」についてはミラーニューロンでの説明で為されたと理解していいでしょうか?  
  「感情移入」の現象は物語世界への没入でみられます。それを「解釈学的循環の意識」として表現に使った、M.エンデの『はてしない物語』もあります。  広く例にされるのが、映画を観終わって映画館から出てくる沢山の人が、皆、同じように映画の主人公になり切っているという現象です。しぐさなどを、自然に真似てしまっている姿は、滑稽なほどになります。政治的プロパガンダでも、これを利用しました。  
 田方先生の仮想世界・世界モデルは、物理的身体感覚から入力された情報を下に、主観意識が構成した「時間・空間」の意識内在世界(フッサール)ですが、そこで存在する存在者に主観意識が志向性intentionを強くすれば、感情移入状態が現れると思います。今回先生が「我を忘れる」と表現されてご説明になられた状態と同じでしょうか?  
 プロパガンダにも利用されると上でしましたが、先生が「共感力」としてご説明になられた現象で、多くの人がその現象を群衆心理として表出する場合もあると思います。スポーツ観戦、お祭り、コンサート会場、抗議デモ、等々。  
 こうした現象を眺めると、主観意識が観ている仮想世界・世界モデルに、意味付与・価値創造を為して構築した物語世界、主観的世界観が、人間の生世界になっているということです。「人は見たいものしか見ない」ということも、ここで生じていることだと思います。また「恋に恋する」というのも、一例として同じでしょうか。幼年、青少年期で、仮想空間・世界モデルの構築が、現実世界との1対1対応である「知性と事物との対等adaequatio rei et intellectu」(中世の「真理」の定義)からの距離が遠い状態では、この主観意識の与える意味や価値が「重み」を強くしてしまうのだと思います。ある意味で、自己中心的な、まさしくイドラ的主観(養老先生の「バカの壁」)になっている状態だと思います。  
 アリストテレスは「感覚は過たない」としました。自然科学が立ち立場、即ちJ.モノーやC.シャノンが、意味や価値を持ち込むのはタブーであるとした、現実の客観的物理世界は、感覚情報層に戻さないと把握できないということになりますか? (裏返しに言えば、主観意識世界、物語世界の理解が、「人間的」意識の作用様態を理解する場になるということでもありますが。)

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