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意識について:幸福‐感

松田語録:幸せになる方法〜その1:光 - YouTube

 ドーパミン・セロトニンの作用、太陽光の認識も概略は一般化され、何れも身体的生物生命の制御・調整の領域になると思います。  
 
 以前から勝手に言わせていただいていますが、「人間に流れる二つの情報系統(note)」で分類すれば「分子担体情報」が司る領域になると思います。  人間が二つの情報系統を内包する複合的存在complexである以上、その領域との相関性を常に認識する必要はあり、二つの領域の間で原因と結果の関係がよく問題とされます。精神医学の分野で、問題症状の治療を一方の領域から処方しても改善しないということが報告されます。複合体には複合体への処方を要するということになると思います。  
 それで二つの情報系統のもう一方は、「電子担体情報」の領域と言えると思います。上の太陽光の認識は、認識という限りはこの領域にも思えますが、ここで「電子担体情報」と呼ぶ情報領域ではないと考えられます。太陽光の認識の相・層は、身体感覚器官から入力された情報を言わば無意識層に準備電位で流している状態であると思います。ここで「電子担体情報」と呼ぶ領域の情報は、主観意識の認識層に上る情報を指しています。「分子担体情報」の領域の情報も、それを対象化(客体化)して意識の対象にする場合は情報のレイヤーが異なってきますが、その情報が作用している個体生命にとっては、あくまで無意識下の作用となっています。    

 さて、今回の動画テーマ「幸福」に関して眺めると、上で見た二つの情報系統のそれぞれにおいて、その相関性を考察する必要性を前提にしつつも、意識に上る電子担体情報の領域の問題は、人間存在の文化に非常に重要であることは、言うまで見ありません。プラトンが、「人間に流れる二つの情報系統」について指摘したストラテジーも、そこにあると思います。  
 それは、これまでのコメントでも記してきましたが、主観意識が構成・構築する世界モデルが、ここでも論議の中心になる気がします。  
 フッサール的な内的時間意識を組み込んだ世界モデルは、主観意識が感情移入する物語世界と呼べるものではないかと思います。これが「幸福」感に与える影響は大きいと思います。以前にも使った例ですが「恋に恋する」状態、物語の主人公になりきった状態、様々にあると思います。今後のVR研究にも重要な要素として例を挙げると、『マトリックス』で描かれた状態も、ここでの様態を考えるものになると思います。もっと単純な例に、『荒野の七人』のワン・シーンがあります。ユル・ブリンナーが演じるクリスが、仲間のブラッドが撃たれて死ぬ間際、「ここに来た理由は何打だ?金か?」と問われ、「そうだ、金だ。裏山に金鉱がある」と方便を使い、幸福感を与えて逝かせます。これも、主観意識にプレゼンテーションされた物語世界だと思います。  
 こうした人間的電子担体情報の作用も、ここでの問題になろうかという気がします。


松田語録:幸せになる方法〜その2:金、仕事 - YouTube

 「幸福感」を扱っているわけですから「感じる」ことの尺度になるのでしょうか?幸福を感じることの逆なら「苦悩」を感じることになるでしょうか。すると幸福から苦悩の間に尺度をおいてその「感じる度合い」をみるということになりますか?  
 「感じる度合い」ではなく、「幸福」の概念に表象される事柄自体を論じることは、古代のプラトンなら真善美のイデアの観想、中世なら「汝(神)の内に憩うまで安らいを知らず」として至福直観、近代・現代では究極的な存在に向かうより人間の完成に視点を置くのでしょうか?B.ラッセルがWhy I'm not a christian? の中で「他人の不幸を見る不幸」を解決できなければ幸福を実現できないとしていましたが、確かに人間の社会性は、幸福を『福音書』の「天の国には住み家が全ての者にある」の言葉が実現されることを求めます。あるいは仏教的な観方では、こうした事柄自体を求める煩悩を捨てた境地に立てばよいということになるのでしょうか?  
 こうして幸福自体を論議し追求するのではなく、冒頭の「感じる度合い」を、お金や仕事などの様々な事物に向けてみるということが、松田先生が紹介なさっておられる研究のテーマになるのでしょう。  
 そしてそれは主観意識に与えられた情報と、そこから構成した世界モデル、さらにフッサールの内的時間意識から生世界 lebens welt として情報選択して構築された内観における「感じ方・クオリア」の問題であろうと思います。このレイヤーで論議をすれば先回のテーマになり、『マトリックス』の様に感じさせてしまえばよい、という話にもつながります。  
 今後、AI研究で意識発生に展開していく際、そこに必要なプログラム、幸福感を発現させるアルゴリズムを見つけ出そうとされているのだろうと思いますが、主観意識の感じ方・クオリアに動機付ける人間的生世界の要素は、AIでは捨象される気がします。


 伝達物質の作用は、生じている外界の現象に随伴している体内・脳内現象です。確かにそうした物質で、主観意識作用を制御はできることが解ってきたとは思います。ただそれは、痛みを麻痺させる薬品の作用と同じで、もとの「生じている外界の現象」を対処したことにはならないと思います。どうでしょうか?

松田先生のご返信

ここでの私の論点は、幸福とは従来考えられていたような客観的なもの(お金、地位など)ではなく、主観的なもの(幸福感)であるというものです。その主観を決めるのは脳ですから、神経科学的アプローチが重要だというのが、Huberman教授の議論です。これは従来の幸福論とは一線を画していると思います。仏教的な見方にも通じます。

ご返信への返信
 元々記したコメントが、先生が紹介してくださった議論に関連する観方です。主観意識を扱うわけです。ただそれは主観・ドクサの態度に「いいじゃないの、幸せならば」という観方を肯定する態度が危惧されはします。  
 ただ古くから神学にも「(神の)摂理と人間の混乱」というテーマがあり、近代のライプニッツでは「神義論」の問題とされました。現世の悪・不幸を、義なる神が何故現実化しているのか?遠藤周作『沈黙』のテーマでもあります。人間には計り知れない摂理・経綸オイコノミアに人間は混乱しているのだから、神に信頼し信仰心を傾けよという思想です。ライプニッツは「予定調和」という思考法を示しました。  
 これが「気の持ち様」「主観意識の捉え方」と同じだとすると、宇宙の情報進化過程として捉えてきた見識も、客観性を失い大きなシミュレーション(ブラフマンの夢)となり、主観と客観とが循環する捉え方になります。確かに、ペンローズの宇宙回帰の思考法も、それに当たると思いますが・・・。

松田語録:幸せになる方法〜その3:たばこ、酒 - YouTube

 収録は10月12日に連続して撮られましたが、視聴可能になった日が分かれているので、18日のコメント欄の松田先生のご説明を確認します。これは17日のその1の冒頭で、松田先生が紹介された内容の文章化でもあります。

 「ここでの私の論点は、幸福とは従来考えられていたような客観的なもの(お金、地位など)ではなく、主観的なもの(幸福感)であるというものです。その主観を決めるのは脳ですから、神経科学的アプローチが重要だというのが、Huberman教授の議論です。これは従来の幸福論とは一線を画していると思います。仏教的な見方にも通じます。」  

 これを前提に、今回その3は「たばこ、酒」といった飲食嗜好品摂取によるトータルな「幸福感」を扱われました。前回その2が「お金、仕事」という社会経済的領域の与える「幸福感」が主題でした。そしてその1は「光」(太陽光)という、いわば環境条件による「幸福感」の発現が示されました。  
 そしてそうした「幸福感」に、ドーパミン等の脳内物質作用が随伴するという「神経科学的アプローチ」の報告が示されました。
 その1、その2のコメントにも書きましたが、「幸福感」は確かに「脳内現象に起因するものとしての主観意識」に感じとられるクオリアだろうと思います。  

 薬物・アルコール等の「主観意識」への作用も、  
 小説・映画・ゲーム等の物語世界への「主観意識」の没入も、  
 さらには ”時間と空間の具象性イメージを伴う連続過程推理作用から抽象 化された、 論理・数理の情報処理” に「主観意識」が向かっている状態も、

「主観意識」作用であることは共通すると思います。同じ脳内現象の相・層における作用・働きだろうと考えられます。即ち感覚器官を含む身体からの情報が変換されて脳内で準備電位の流れとして検出され、それらから構成する認識モデル(世界モデル)に、上記の類別が生じるのだろうと思います。  こうしたところで古来、問題とされてきたのは、その主観的認識モデルと客観的現実との関係であり、「真理論」で扱われてきたものです。  

 神学ではこの真理の主客関係を思考実験してきています。通常、人間的問題は主観認識が客観的現実に即し誤謬がないかどうかを扱います。しかしロゴスを他者化現実態にする(創造)という場合には、神の精神から被造物への方向が示されます。主観から客観が生じるということです。最近のシュミレーション仮説の神話的表象と言えるのではないでしょうか?  
 ともかく「幸福」の問題も主客循環する問題であると言えないでしょうか?

松田語録:幸せになる方法〜その4:宝くじとけが - YouTube

 「自然的幸福」「合成的幸福」という「フレーム」を提案したということですね。「気の持ちよう」「ものの観方、考え方」「ポジティブ・シンキング」、イソップの「甘いレモンと酸っぱい葡萄」の原理と言われる適応機制、教訓的宗教(教え)も含めて、古来言われてきた現実受容を、自分の主観意識が構成する世界モデル・認知モデル・仮想世界の理解で「合理化」する、理屈に合わせるというのが「合成的幸福」でしょうか?  
 以前にも記しましたJ.モノーやC.シャノン等の主張のように、科学に価値や意味を持ち込むのはタブーですが、逆に客観的事実認識だけを遂行するとS.ヴァインバーグの言葉の通り、「宇宙をよりよく知ることができたと思えれば思えるほど、宇宙は無意味に思えてくる」。そこで『旧約・創世記』でも神の似姿としての人間について、神の世界創造・存在付与の類比として価値創造・意味付与を表象する「名付け」が、物語られる。  
 こうした人間的主観意識が構成する世界モデルの極みが、「救済史観・終末論・天国、・・・・」といった観念になるのでしょうか・・・。  

 「自然的幸福」とされたものは、松田先生が仰られたように、外部からの客観事象として主観意識にとっては偶然に生起して与えられるもの。偶々、幸福を感じ取ることができる現実の状態に置かれた際に感じることができるもの、ということですね。科学Science=scientia知識は、それを集合集積して、その条件を再現実験し、技術的制御の手法を探求する。その手法の到達範囲が、かつては人間の身体的制約範囲だった状況が、Aiによるシミュレーションや、情報処理、エンコード・デコード技術の進歩、工作機械・ロボットの精密化、等々によって、上で見た「世界モデルの極み」に現実認識が及ぼうとしている。  
 こうした現状がみえるということでしょうか? (ただ、ここまで進んでも、「ノエシス・ノエセオス思惟の思惟」の論理・数理には永遠に届きそうもないという焦燥感が、人間の主観意識に「アートマン‐ブラフマン・モデル」や「個霊の救済」の観念を観させてくれますが・・・・。」)


松田語録:幸せになる方法〜その5:感謝と意味 - YouTube

 意識―無意識という区別はフロイト以降一般化したと思いますが、「幸福感」は主観意識に、そう感じさせることに依って与えられる状態であり、主観意識が無意識層を抑制していることによって成立する状態ということになりますか?茂木健一郎先生の動画で「意識は抑制作用」であると言われていましたが。  
 ところで無意識とされている状態の作用を眺めると、このようなことが言えないでしょうか?例として自転車運転をあげます。乗り方を覚える時には、乗ろうと意識して、なかなか乗れませんが、練習をしていくうちに乗れるようになり、乗れれば意識せず無意識で運転するようになります。  
 乗れる状態になれば、意識は無意識の作用で顕在化する状態を抑制せず、実行させます。この在り方は、全ての学習に共通すると言えないでしょうか?言語学習、特に意識的に始める外国語学習などでも、徐々に無意識化され、修得したその言語で何かを対象にするようになります。数学にして計算の習熟から解法の練習で、意識することなく解を求めることができるようになります。  
 練習・学習・体験・経験といった状態の積み重ねが無意識層に情報処理の仕方を記憶させ、それが出力制御として以後は現れる。この時、外界の状況に応じて顕在化させるべき出力の作用と、そうでない出力作用とを選択し、そうでない作用を抑止するのが意識である、ということになるでしょうか?  フロイトの精神分析による治療が必要であるような潜在意識のトラウマなどは、意識の抑制が効かず、発現すべきでない状況に顕在化する記憶の出力だということになるのではないでしょうか。  
 こう考えてくると、LLMなどの深層機械学習AIの作用は、プロンプトを与え制御している意識作用を使用者が役割を担い、無意識的な作用の顕在化をAIが為しているという状態になっていると思います。  
 学習した事柄の情報処理、制御出力は、学習量が多く各種デバイスや作動ロボットの性能が高いほど、人間を凌ぐ状態になっています。しかし、それは上で見たように、言うなれば無意識の作用で為されている状態であるということになります。当然ですが・・。  
 結局、幸福感という感情を発現するのは主観意識にあり、これは意味や価値を現実に与え目的を持ったプロンプトを、無意識的な作用に与えるものということになります。それは「生命」の作用であるという、単純な視点に戻ります。この生命が、無意識の学習、情報処理の能力レベルを高めてきた過程が、生命進化過程であり、そのレベルがAIという拡張機能まで来た、というのが現在であるといえると思います。  
 ネット上の動画には、沢山の動物行動があります。最近、蛇に巻かれている同種のヤモリを助ける他のヤモリの動画がありました。もしかするとそれは雌雄のつがいなのかもしれません。そうした状況では無意識に動物は行動するでしょう。こうした多くの動画は、大英帝国博物館時代の状況を一般に与えている気がします。ダーウィンが多くを観察できた様に、一般の者が広く世界を観察できる。ここから意識の進化過程も見えてくる気がします。  現状では、主観意識は生命の能動性それ自体であり、無意識層で情報処理され学習された記憶情報から出力制御の作用をあたえる者、こうした定義ができそうです。この学習領域が動物の進化過程の程度で、高知能な作用になり、AIの使用にまで至った、と言えると思います。


松田語録:幸せになる方法〜その6:社会的繋がり - YouTube

 幸福感は欲求を満たすことで獲得されると思いますが、その欲求に関しては、塚本先生が指摘なさいましたマズローの欲求の5段階説があります。今回の動画の内容は、マズロー説の「社会的承認の欲求」にあたるということですね。  
 ところで「欲求」が、幸福感を感じる意識主体の発動原理なら、それが如何に発生するかを見てみる必要が生じます。欲求は宇宙の情報進化過程で、自己増殖作用セルオートマトンが展開し、マルコフ連鎖で拡張してきた中に、生物的様態で発現したところに見出されると思います。これがマズローの5段階説なら、最下位層の生理的欲求とされるものだと思います。そしてここで問題としている意識主体の発動原理の元にあるのは、個体生命の発生(受精に始まる)から観ても、進化過程を観ても、この段階の現実態・能動性であるということになると思います。  
 そして徐々に個体脳の成長発達が展開し、同時に社会脳としての様態を獲得し、マズロー説の欲求段階を示す様になるのだと考えられます。  
 こうした過程において、欲求という能動主体の様態とは別に、脳内部位の分散独立した機能・作用が、諸能力potentialとして実行発揮actionできる学習をして、出力制御のレベルを高めるのではないでしょうか。自転車の運転、言語使用、方程式の解法まで、どの能力も独立した学習と活動を獲得し、サーキット回路を形成し、アトラクターを示すことができるようになるのではないかと思います。  
 これを上で見た発動原理の位置にある能動主体としての自己意識が、観る。その機能・作用の発動を、抑制・解放の指示が、能動主体自己意識の役割になっていると考えられないでしょうか。  
 ところで今回の動画でマズローの欲求の5段階最上階の自己実現の欲求については、先生方も分析が難しいと仰られていました。上で眺めた様な能動主体自己意識を、自己実現するものだとすると、それ自体は(純粋現実態の様に)何にでもなり得る能動エネルギーであり、渡辺正峰先生がネーゲル「コウモリであるとはどういうことか」から引用される「何かになること」、或いは何かを発現すること、現実態の状態にすること、ということになります。そうであるからこそ、自己実現については、特定の定言ができず、困難な論議になるということではないでしょうか?  
 結果、人間に関しては自己実現ということは、人生を終えた時に、人生の過程で発動させていた能力―実行(学習―活動)を振り返って、その人の実現した内容とするのではないかと思います。そうであれば、この人の活動は情報化され、死なずに復活も難しくはないと考えられます。(これが「言葉と行いの復活」であると古代から”意識”されてきたのではないでしょうか?プラトンや『新約聖書』の立場はここにあると考えられます。)

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