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チャーマーズとカーツワイルの意識の話

松田語録:チャーマーズとカーツワイルの意識の話 - YouTube

記憶は知識情報であり、パターンでもあり、イデアでもある。

 松田先生はまさに、それをのみ観られて、科学science=scientia知識・情報の対象は、これであると、仰られています。

 小林先生は、その観点で再構築された個体生命は、再構築以前との同一性を、本当に有するか否かを問い掛けられています。情報の観点では、同一性が問題にされる情報化されるもの、本質とか形相とか、・・、それは正に同一であると言えるが、ただ意識作用の主体に、それはなり得るのか、と問われていらっしゃいますね。

 塚本先生は、そもそも自己意識に同一性があるといえるのか、と、問い直されます。フッサールの内的時間意識が自己に同一性を観ているに過ぎない、ということでしょうか。


 さて私の考察ですが、意識の作用は循環的で、階層を形成する気がします。

 生体は生まれて律動(生命活動)し始めれば、体内に情報の流れを発生させます。成長すれば腎臓や腸からは伝達物質も血液中に流れます。勿論、神経系に反射・自律系の電子担体情報も流れます。つまり脳には、生きていれば常時、情報の入出力の流れがあります。睡眠中でも、聴覚情報なども流れてはいるはずです。これに反応する=気付く、ということが意識と言われる作用だろうと思います。準備電位・アイドリング状態から気付いて、指向し、対象を志向し、脳に流れる情報を読み取るreader作用が、意識ではないでしょうか?

 だからこそ、主観意識にはクオリアが発生し、環境や身体の条件下で、気分も変化させられる。健康な時と体調が悪い時では、同じ対象についての情報でも、クオリアが変わるのではないでしょうか?そしてその主観から切り離して思考した対象についての客観が、認識になり、短期記憶を経て、海馬を通った知識になる。

 こうしてみると、意識は「今ここ」現在の作用に、限定されている。「私」という主観意識は、その「今ここ」現在に留まり、循環して自己の作用を反省化する。これが常なる現在から観て、積層化していくのではないでしょうか?

 従って、この「今ここ」現在の作用が、現在化していない状態で、自己意識が形成した自己認識と、その情報である自己についての知識情報=記憶を移して、新たな現在化を待つことになる、ということで意識のアップロードが成立するか?こう問うことが、ここでの本来の問いだろうと思います。

 思想史的には、実は新約聖書は復活を、そのように捉えていると思います。「天の国では、娶ることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とか、イエスの墓が空だった、復活後のイエスの顔を弟子たちも分からなかった、という物語は、復活を、情報の復活として観ていることになります。塚本先生の立場でしょうか?パウロに至っては、会ったこともないイエスの言葉と行いを調査して(情報を得て)、そこから回心しました。復活体験をして、イエスと伴に生きる、即ち、人格編集を自らに成した、としています。

 さて、現代の知見では、どう考えられるでしょうか?松田先生は、量子脳仮説の立場を疑問視されていらっしゃいますが、量子脳は別にして、量子、特にここでは電子に注目したいと思います。

 J.ホイーラーの単一電子仮説は、電子のエネルギー様態の普遍性に着目して、宇宙には一つの電子しかないのではないか、と仮説を置いたものですね?

 この仮説から連想できることは、電子担体情報も、普遍的な電子のエネルギー、即ちエネルゲイア現実態によって、現実に現在化されているのであれば、現実化される情報としてはデジタルな、即ちカタ・ログな情報としての差異性を可能態の性質の内に有しますが、アナ・ログな関係を存在、即ち現実態の上に(アナ)有するということになりませんか?

 こうした観方は、中世の思想ではアラビアの単一知性説をも連想させますが、シュレーディンガーは、その立場をとりました。ただ、そこには矛盾があって、知性は電子エネルギーで現実化される、個々に差異のあるカタログ(デジタル)情報です。寧ろ、単一なのは電子のエネルギー状態であり、ここにはデジタルな様態は無く、アナログな普遍性が広がっている、ということではないでしょうか?

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