-もしかしたら、おもしろいかもしれない、「解釈」の話-

こんばんは。

お晩です。

今日は、おもしろい話を書こうと思います。

とはいえ、普通はどうせ書くならおもしろい話を書こうと思うのは、人の世の常かもわかりません。

しかし、そこは、とまを氏です。

おもしろい話を書こうと思えば、ほんとうにおもしろい話を書きます。

あてに行く。

という言葉があります。

この曲を出せば売れるだろう。

と、狙い澄まして、ほんとうに売る、とか。

この作品で、賞を取りに行く、と決めて、ほんとうに取ってしまう、とか。

そういうやつです。

わたしは、作品のクオリティに関しては、ある程度のところで、あてに行きつつ、ほんとうにあてる、ということも、或いは、可能なときもあります。

ただ、作りながら、これは、あてに行ったけど、あたらなかったな、とわかるときもあります。

ただ、作品のクオリティ、イコール、結果、ではないので、クオリティとして、あたっていても、結果の伴わないことは、少なくありません。

或いは、そのほとんどのケースで、結果には、つながっていないかもわかりません。

でも、ほんとうは、今日のわたしは、「解釈」について、書きたかったのです。

そこで、あたる、あたらないを、どう解釈するか、という話にシフトします。

例えば、わたしが、新人賞に対して、これは、取れるぞ、と、あてに行ったとします。

そして、あたりませんでした。

そこで、普通は、あぁ、だめだったな。

それで終わってしまう、というケースも少なくないかと思います。

そこで、「解釈の達人」とまを氏は、どう解釈するか、という話です。

別に、とまを氏が、「解釈の達人」であるのかどうか、それは、ここでは問題ではありません。

なるほど、なるへそ、ここに、あたりはなし。

あて切れていなかった、自分の筆の未熟も見えようものですし。

あたる、あたらないの、あたらないを一つ、見つけたことになります。

ここで、この傾向の作品は、この分野では、あたるものではない、と。

或いは、ほんと少し、あたりをかすめたとします。

するってぇと、そのあたりの塩梅に対して、その作品のどの部分があたりにつながったか。

そこを、見極める。

解釈というと、また話が違いますが、その作品の自分の意図を、どのくらい汲めるか。

話がややこしくなってきました。

ここで、一つ。

話したかった話を。

昔の、戦国武将には、参謀と呼ばれる人がついておりました。

その参謀と呼ばれる人は、時として、戦況を占うことをしました。

「明日は、雨だな」

という、結果が出たとします。

そこで、自軍のムードが、「あぁ、雨では、この戦、勝ち目が見えない」となってしまったなら。

ここで、参謀の力量か試されます。

「なるほど、雨か。それでは、海が荒れそうだから、河岸には、本隊は置かない。裏手の山麓が、主戦場となる、と思われる。山麓といえば、我々の主力が生きる。この戦、勝ちが見えた」

と、悪く言えば、そうして、兵軍を丸め込む。

自軍のムードを、勝ちのムードにつなげる。

そうして、士気を上げていく、という話。

ここから、見えてくるものは、何か。

先ほどの話に、戻ります。

あてに行く、あたる、あたらない、の話。

果敢に、あてに行くスタイルで、あたりをつけていくこと。

最初は、ほとんど、すべての一手が、からっきしあたらないかもわからない。

しかし、次第に、あたらない、なりに、かすめることがある。

ある、と思う。

多分、きっと、誰しも、多少なり、あると思う。

いや、誰しも、少なからず、あると思いたい。

思いたいところ。

そんなとき、かすめたときの、あたりを大事にする。

あたらない、あたらない、あたらない。

その、あたらない、にばかり気を取られていると、ほんとうは軽くかすめている、そのことにさえ、気がつけないことも少なくない。

だからこそ、より強い意識を持って、あたりをかすめた、その実感さえもない、かすかな手触りを大事にする。

そして、そのかすかな手触りに対して、誠実な次なる一手を打つ。

それを、丁寧に、丹念に、ただひたすらに、くり返していくこと。

それが、唯一の道なのでは、と。

或いは、こんな思考自体が、一つの、わたしの物事への解釈の形であり、そうしたネガティヴに捉えがちなものに対して、よりポジティヴな解釈を探し続けること。

そこに、光りは宿るのでは。

という、とまを氏の「解釈の達人」の真骨頂、ここにありき、です。

すべてのものには、ネガティヴな側面と、ポジティヴな側面があると思う。

それすらも、わたしの解釈かもしれない。

であるなら、より自分の望みや、希望、願望などに対して、その結果につながりやすい、つながりそうな視点から、物事を眺める。

ということさえも、わたしの解釈に過ぎない。

であるからこそ、解釈には、未来がある。

と、思う。

と、思いたい。

そう、願いたい。

という、とまを氏の解釈の話。

それでは、また秋の気配の煙る夜に。

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