違和の所在は

 思想系とか歴史系とか。文学部で学んでいる内容をもとに、人の区分けが成り立つ。けれども、この区分けの何と、表層的なことか。表層的に拘らず、何と人口に膾炙して、何と人の思考を画定するものか。思想系とか歴史系とか言いながら、忘れてしまったものがある。その忘れてしまったもの、それはおそらく「詩情」だろう。

 詩情の乏しさ。これを語るに「現代」なんて言葉は必要ない。詩情とは、歴史的でありつつ、わたくし的なのだから。詩情の乏しいものは、体験の乏しいものである。あるいは、反省の乏しいものである。またあるいは、直観力の、自分を超えたものを直観する力の、乏しいものである。いつの世も、詩情は乏しかろう。わたしは、わたしの周りの詩情の乏しさを、「現代」のせいなどにしたくはない。

我が友たちよ、目を見開き給え、霊性の、奥深い声に、耳を傾け給え

 わたしは、文学部での学びに、詩情の開花を求めたい。詩情の花を咲かせることに、受動的な学びの、すなわち読み聞くことの意味がある。あるいは、読み聞くこととは、詩情の花を育むことである。私を去って天に則る。読んで読んで読み果てて、文字読む我も無く、聞いて聞いて聞き果てて、声聞く我も無し。我なきところに、詩情は育つ。

我が友たちよ、努め給え、励み給え、我なき空まで飛び発ち給え

 読むことの、聞くことの、何と難しいことか。五年間、結局一冊も読めず、一回も聞けず。我なく読み、我なく聞くことの何と難しいことか。またこの難しさの何と見捨てられたことか。読むとは、どういうことか。聞くとは、どういうことか。我あって、読み得ず聞き得ず。我を無くすことの難しさは、死ぬことの難しさ。読む我を、聞く我を、反省に付して、殺し捨て、殺し捨てる我をも殺し捨て。反省に反省を重ねて遡る、遠く遠い道のりが、文学部ではなかったのか。我を無くす努力に詩情は育つ。

我が友たちよ、聞き給え、聞き給え、弥陀の声、我らの背後の弥陀の声、人の声、我らの前の人の声、聞くことをば生きる意味とぞ見つけたる

 エモさに騙されてはいけない。詩情とエモさは似ているが、エモさに反省は要らない。エモさに超越は要らない。我の無いところに現れる、我の内の、我を超えるものに、出遇うこと。ここに詩情は完成する。

 体験を大事にし、反省を深め、内なるものを直観する。この一連の過程に、果たして、歴史も思想もあるものか。

我が友たちよ、聞き給え、聞き給え、詩情の輝く大音声、ここに満てり、かしこに満てり

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