フルタ

先日、京都大学の文学部を卒業しました。卒業論文は田辺元の『懺悔道としての哲学』を扱い、…

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先日、京都大学の文学部を卒業しました。卒業論文は田辺元の『懺悔道としての哲学』を扱い、哲学的自覚と言葉との関係を論じました。 今は違う進路を目指し勉強中です。

最近の記事

『白隠禅師坐禅和讃』 

 『教行信証』の読書会は少し休会していて、一緒に読んでいた友達には、前回前々回は『無門関』の第一則と第二則を付き合ってもらった。今日は彼女からの要望で『白隠禅師坐禅和讃』を読む。坐禅会などで読まれることの多いお経で、知っている人も多いと思う。この『和讃』についての記事を(読書会の資料だが)以下に載せる。一人でも多くの人の道の求めの助けにならんことを。 <白隠慧鶴禅師について>  白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師(1685~1768)は日本臨済禅中興の祖。現在の法系は全て白隠下

    • 我が歩けば山も退(ど)く。

      • 『教行信証』、「行巻」(1)

         『教行信証』を読む会は先週で3回目。行巻に入った。また資料を掲載する。 *前回までの内容のまとめ  総序は、浄土教的世界観の開顕と親鸞の先達との出遇いの喜びが綴られていた。それに続く、「教巻」、正式には「顕浄土真実教文類一」(浄土真実の教を顕かにする文類)では、浄土についての真実—それはまた弥陀因位の修行や釈迦出興の理由についての教えでもある —が説かれた経が何であるか示される。それはすなわち『大無量寿経』である。『大無量寿経』で語られるのは、(1)弥陀がその因位であら

        • 『教行信証』、「教巻」

          『教行信証』の読書会、2回目の資料を載せる。1回目で驚くことに「総序」を終えたので、2回目は「教巻」に。 *前回の内容(総序)  「総序」は六巻からなる『教行信証』の序文にあたり、前回は( i )弥陀の誓願が私たち衆生の無明を破るものであること、( ii )その弥陀の誓願が活きて働くには王舎城の悲劇を 俟たねばならなかったこと、( iii )名号は悪を転じて徳をなすものであり、信心は疑心を 消し去り悟りを与えるものであること、の部分までを細かく見て確認した。その後には、 (

        『白隠禅師坐禅和讃』 

          『教行信証』「総序」(1)

           この土曜から『教行信証』を知り合いと一緒に読む。彼女は道を探し、坐禅もする。そんな彼女の求道(道を求めること)の少しでも資けとなればと思い、提案した。思うに『教行信証』には独り沈潜して行くことは多けれど、人と一緒に読むのは初めてで、言葉にし難い気持ちが燻る。彼女に『教行信証』はどう響くのだろうか。以下は読書会の資料の一部で、これから続きを載せていきたい。 <本文> 竊(ひそか)に以(おもん)みれば、難思の弘誓(ぐぜい)は難度海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する慧日

          『教行信証』「総序」(1)

          文法

          文法を知らない文章は醜い。されど文法に縛られた文章は苦しい。思うに、詩は、文法を超えて書かれるものだろう。 これは、以前の投稿での「いかで清らる」などの破格表現への自己弁明であると同時に、単なる弁明を越えて、自らの詩的立場への、おそらくは初めての意見表明でもあります。

          違和の所在は

           思想系とか歴史系とか。文学部で学んでいる内容をもとに、人の区分けが成り立つ。けれども、この区分けの何と、表層的なことか。表層的に拘らず、何と人口に膾炙して、何と人の思考を画定するものか。思想系とか歴史系とか言いながら、忘れてしまったものがある。その忘れてしまったもの、それはおそらく「詩情」だろう。  詩情の乏しさ。これを語るに「現代」なんて言葉は必要ない。詩情とは、歴史的でありつつ、わたくし的なのだから。詩情の乏しいものは、体験の乏しいものである。あるいは、反省の乏しいも

          違和の所在は

          別離苦

           詩情が枯れた。哀しい別れを、歎く言葉が消えた。  離別の言葉の挙がらぬを、詩情の枯れ果てを、詩への迂路とするは、醜い。けれど間延びして、歎きのときを逸するは、さらに醜い。結局、挙がらず、挙げれず。間を違え、別れを別れず。言葉の。言葉の、歪みに透け見える、我が生の濁色は、いかで清らる。贈ることばの貧しさに、生の拙さ透かし見え。つま先立ちに張り詰める、言葉の硬さに、萎え沈む。詩情が枯れた、哀しい別れを、歎く言葉が消えた。

          Nさんに

          酔いと蛍に想いをのせて。四季は巡り巡って、歳毎に、想いも巡る。去年の想い出を歌えるは、今年の特権。特権に酔いしれて、あるいは次の年とのけじめのために、今は酔う、歌一首。 蛍の香りは、こぞの想い出。ふたりの道を、今はひとる。独酒に落涙、かはいまいづに、こはももここに。独酒に喝采、こはももここに、かはもも楽しく。こぬこえに、映る、我が身の拙さと、くるこえに、映る、我が身のふまじめさ。こぞはまだ、はつとせ酒に、想いをうつす。うつし酒、我が哀しさを、祓いたまえ、かのうつくしさを、寿

          生きるということ、私ということ

          信頼できる先輩や仲の良い友人に、この文章を好いてくれる方が多く、改めて載せたままにしようと思いました。 昨年9月29日、僕と友人たちのために、光雲寺の老師が法話と坐禅のご縁をくださりました。その法話の前に僕の方から、禅に触れたことのない友人たちのために少し話をしようと思い、その内容を文章にしました。個人的には老師のお話に繋がるような内容にしたつもりです。仏教用語を極力用いずに、けれどもその心が友人たちに伝わるような文章にしたつもりです。目に触れた方の仏教理解や求道の琴線に幾

          生きるということ、私ということ